第三章 順調さという落とし穴
季節は一巡し、再び四月が訪れた。
秋山家の庭にあるハナミズキが、薄紅色の花をつけ始めている。
一年前、緊張で顔を強張らせていた明宏は、もうそこにはいなかった。
「ほい、今月分。五万ね」
夕食後、明宏は茶封筒を無造作にテーブルに置いた。
二十五日の厳守。
かつては財布の中身と睨めっこしながら捻出していたその金も、今では何の苦もなく出せるようになっている。
和江は洗い物をしていた手を止め、タオルで拭きながら封筒を手に取った。
中身を確認する手つきは事務的だ。
「……確かに」
「今月から給料、一万上がったんだよね。後輩も入ってきたし、俺も教育係とか任されちゃってさ。マジ面倒くさいけど、まあ、余裕?」
明宏は缶ビールを煽りながら、得意げに鼻を鳴らした。
スーツの着こなしも板につき、営業トークのような滑らかさで仕事の愚痴をこぼす。
家事に関しても、自分の洗濯物は週末にまとめて片付け、風呂掃除もそれなりにこなしている。
文句を言われる筋合いはない。
俺は完璧にやっている。
そんな自負が、彼の全身から滲み出ていた。
「そう。よかったじゃないか」
和江は短く答え、封筒をいつもの引き出しにしまった。
その背中を見ながら、明宏は内心で舌を出す。
(最初の頃はビビったけど、慣れればこんなもんか)
結局、母親の脅しはただの脅しだったのだ。
生活費五万と家事分担。最初は厳しい条件だと思ったが、ルーチンワークにしてしまえばどうということはない。
むしろ、実家暮らしの恩恵――家賃の安さや、食事の用意があること――を享受しつつ、自分は「自立した大人」として振る舞えている。
その現状に、明宏は満足していた。
*
だが、和江の目は誤魔化せなかった。
彼女は再びシンクに向かいながら、息子が見ていないところで小さく眉を顰めていた。
(……雑になったね)
風呂掃除の四隅に赤カビが残り始めている。
洗濯物の干し方が適当で、シャツに皺が寄っている。
そして何より、金の出し方だ。
最初の頃の「身を削って出す」という切実さが消え、「払ってやっている」という傲慢さが透けて見える。
仕事も同じだろうと和江は推測する。
慣れて、要領を覚えて、一番失敗しやすい時期だ。
「人は、慣れた頃に一番足をすくわれるんだよ」
独り言のように呟いた和江の声は、テレビのバラエティ番組の笑い声にかき消され、明宏の耳には届かなかった。
「あー、今度の連休、スノボ行ってくるわ。金かかるけど、まあボーナス出るしなんとかなるっしょ」
スマホをいじりながら明宏が言う。
「貯金はしてるのかい?」
「してるって。三十万くらいあるし」
たった三十万で、何が起きても大丈夫だと思っている。
その万能感こそが、若さという病だ。
和江はそれ以上、何も言わなかった。
口で言っても伝わらないことは、痛みを伴って学ぶしかない。
かつての元夫が、借金を重ねて首が回らなくなるまで、和江の忠告を聞かなかったように。
(何も起きなければいいけど……)
和江の胸に、冷たい風が吹き抜けるような予感が走る。
平和ボケした日常。
自信満々の息子。
それは、落とし穴が口を開けて待っている時の、典型的な風景だった。
だがその予感は和江の、思いもよらない方向から迫ってきた。




