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息子がオレオレ詐欺に遭ったらしいが、私は「勝手にしろ」と電話を切った。〜鬼母と呼ばれた私の、最後の子育て教育法〜  作者: 品川太朗


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第二章 生活費折半の宣告


 午後八時過ぎ。

 玄関のドアが重々しい音を立てて開いた。


「ただいまぁ……。死ぬ、マジで疲れた……」


 明宏の声は、朝の元気さが嘘のように擦り切れていた。


 革靴を脱ぎ捨てるように上がり込み、ネクタイを緩めながらリビングに入ってくる。

 初日の緊張と慣れない業務。

 気遣いで精神的に摩耗しているのが、誰の目にも見て取れた。


 そんな息子を、和江はダイニングテーブルの席から動かずに迎えた。


「お帰り。ご飯、そこにあるから」


 テーブルの上には、ラップのかかった生姜焼きと味噌汁。

 決して手抜きではないが、取り立てて「就職祝い」という華やかさもない、普段通りの夕食だった。


「ああ、サンキュ。なんか今日さ、研修でいきなり名刺交換の練習させられて、先輩が超怖くて……」


 明宏は椅子にドカッと座り込み、愚痴交じりに報告を始めた。

 当然のように母が聞いてくれる、労ってくれると信じている口調だ。


 和江はそれを遮るように、一枚の紙をテーブルに滑らせた。


 スッ、と乾いた音がして、明宏の目の前で止まる。


「え? 何これ」


 明宏が箸を持ったまま、怪訝そうに紙を覗き込む。

 そこには、和江の几帳面な字で、箇条書きの項目が並んでいた。


 【今後の同居に関する契約書】


 一、生活費として毎月五万円を家に納めること。(光熱費・食費込み)

 二、支払いは毎月二十五日厳守。遅延は認めない。

 三、自分の身の回りの世話(洗濯、部屋の掃除)は自分で行うこと。

 四、風呂掃除、ゴミ出しは当番制とする。


「……は?」


 明宏の思考が停止したようだ。

 彼は紙と和江の顔を交互に見比べ、乾いた笑いを浮かべた。


「なにこれ、母さん。冗談きついって」


「冗談じゃないよ。あんた、今日から社会人だろ」


 和江の声は低く、揺るぎない。


「学生のうちは養ってやった。でも、今日からは違う。あんたは一人前の大人として稼いでくるんだ。なら、家にタダで住めると思うのは間違いだよ」


「いや、わかるけどさ! でも五万って! 俺まだ初任給も貰ってないんだよ!? それに五万あったら、同期との飲み代とか、スーツ代とか……」


「それはあんたの事情だね」


 和江は冷たく切り捨てた。


「一人暮らしをすれば、家賃だけで六、七万は飛ぶ。敷金礼金、光熱費、食費を考えれば、五万で済むこの条件は破格のはずだよ」


 正論だった。

 あまりにも正論すぎて、疲労した明宏の頭には反論の言葉が浮かばない。

 だが、感情が追いつかない。


 昨日まであんなに甲斐甲斐しく弁当を作ってくれた母が、急に大家か寮母のような顔をしている。


「それに、洗濯も? 仕事で疲れて帰ってきて、自分でやれっての?」


「私の仕事じゃないからね。自分のパンツくらい自分で洗いな」


「……冷たくないか? 俺たち、親子だろ」


 明宏が最も言いたい言葉を口にした。

 親子の情に訴えれば、母は折れるはずだ。これまでずっとそうだったように。


 しかし、和江の眉ひとつ動かなかった。


「親子だからだよ」


 和江は息子を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳の奥には、明宏が一度も見たことのないような厳しい光が宿っていた。


「いつまでも親の脛をかじれると思うな。嫌なら出て行きなさい。止める権利は私にはないし、養う義務ももうない」


「っ……」


 明宏は言葉に詰まった。

 出て行けと言われても、貯金もなければ行く当てもない。

 完全に足元を見られている。


「文句があるなら、自立できるだけ稼いでから言いなさい。……わかったら、そこに判子」


 和江は朱肉と印鑑を指し示した。


 重苦しい沈黙がリビングを支配する。


 明宏は悔しそうに唇を噛み締め、しばらく紙を睨みつけていたが、やがて乱暴に印鑑を掴んだ。


 バンッ、と紙に赤い印が押される。


「……わかったよ。払えばいいんだろ、払えば」


 吐き捨てるように言い、明宏は冷めかけた生姜焼きを口に運んだ。

 味などしなかっただろう。


 和江はその契約書を丁寧に折りたたみ、自分のポケットにしまった。


「今月末からだからね。忘れないように」


 それだけ言い残し、和江は立ち上がった。


 明宏は背中を丸めて食事を続ける。

 その背中には、理不尽への怒りと、行き場のない苛立ちが滲んでいた。


 和江はキッチンで洗い物をしながら、水音に紛れて小さく息を吐く。


 胸が痛まないわけではない。

 疲れて帰ってきた息子を追い詰めるような真似をして、心が晴れる親などいない。


 だが、ポケットの中の契約書に触れ、彼女は再び心を鬼にする。


(甘えるな、明宏)


 この五万円。

 和江は一円たりとも使うつもりはなかった。


 これは「家賃」ではない。

 彼が将来、本当に困った時に彼自身を助けるための「盾」だ。


 その真実を、まだ息子は知らない。


 こうして、秋山家における奇妙で冷戦のような共同生活が幕を開けた。

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