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息子がオレオレ詐欺に遭ったらしいが、私は「勝手にしろ」と電話を切った。〜鬼母と呼ばれた私の、最後の子育て教育法〜  作者: 品川太朗


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第一章 秋山和江という女

「親子の絆」という言葉は美しいですが、本当の自立とは何なのか。

優しさだけではない、ある「強い母親」の物語を書きました。


今日、就職初日を迎えた息子。

そんな彼を待っていたのは、母が用意した一通の「契約書」でした。


短編完結、一気に最後まで掲載いたします。

どうぞ最後までお付き合いいただければ幸いです。


 午前五時半。

 秋山和江あきやまかずえの朝は、誰に命じられることもなく正確に始まる。


 薄暗い台所に立ち、慣れた手つきで卵を割る。

 カッカッ、という乾いた音が静寂に響いた。

 熱したフライパンに卵液を流し込むと、ジュウという音と共に香ばしい匂いが立ち昇る。


 菜箸を動かす和江の横顔に、余計な感情は浮かんでいない。

 ただ淡々と、為すべきことを為す。


 それは彼女がこの二十数年、一日たりとも休まず続けてきた「戦い」の所作だった。


 今日、一人息子の明宏あきひろが初出勤を迎える。


 大学を卒業し、無事に就職先も決まった。

 世間一般で見れば、親の役目はここで一区切りと言えるだろう。


 和江は焼き上がった卵焼きをまな板に移し、包丁を入れた。

 湯気が立つ鮮やかな黄色い断面。


(これで、最後だね)


 心の中で誰に言うともなく呟く。


 明日からは作らない。

 早起きして息子のために弁当を用意する日々は、今日で終わらせる。

 それは和江が自分自身と交わした、密やかな契約だった。


     *


 六時を過ぎると、二階からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。


「母さん、おはよう! やべ、ネクタイこれでいいかな」


 リビングに現れた明宏は、慣れないスーツに身を包み、鏡の前で首元を弄っている。

 その顔には、新しい世界への希望と、少しの不安。

 そして何より――「母がなんとかしてくれるだろう」という長年の甘えが透けて見えた。


 和江は出来上がった弁当を包みながら、息子を一瞥する。


「曲がってるよ。貸してごらん」


 結局、手を出してしまう。

 明宏の前に立ち、ネクタイの結び目を直す。

 自分よりも頭一つ分高くなった息子の身長に、ふと、時の流れを感じた。


 かつて、この子はもっと小さく、脆かった。


 夫だった男――秋山茂が、若い女を作って家を出て行ったあの日。


『ごめんね、和江。これからは自分に正直に生きたいんだ』


 ふざけた台詞を吐いて消えた男の背中を、和江は幼い明宏の手を引いて見送った。

 慰謝料も養育費も、最初の半年で途絶えた。


 だが、和江は泣かなかった。泣いている暇などなかったのだ。


 ――この子を、片親だからといって不便にさせない。


 その一心で、昼は食品工場の事務、夜は居酒屋の皿洗いと掛け持ちして働いた。

 自分の服など何年も買わず、化粧品は試供品で済ませた。

 それでも明宏には流行りのスニーカーを買い与え、塾にも通わせた。


 金がないことは、恥ではない。

 けれど、金がないことで息子が卑屈になるのだけは許せなかった。


 その代償として、和江の指先は荒れ、性格は以前よりも現実的で、少しばかり冷淡になったかもしれない。

 だが、後悔はしていない。


「よし、ありがとう母さん」


 ネクタイが整うと、明宏は屈託のない笑顔を見せた。

 父親によく似た、人好きのする、しかしどこか頼りない笑顔だ。


「じゃあ、行ってきます!」

「……ああ、気をつけてね」


 勢いよく玄関を飛び出していく息子。

 その背中は、あの日の茂の背中とは違う。一人の男としての輪郭を持ち始めていた。


 玄関のドアが閉まり、再び静寂が戻る。


 和江は小さく息を吐き、リビングの壁に掛けられたカレンダーを見上げた。


 四月一日。


 区切りの日だ。


 和江は自身の出勤準備をするために洗面所へ向かう。

 鏡に映った自分の顔を見つめる。

 目尻には小じわが増え、白髪も目立つようになった。五十二歳。


「……甘いな」


 鏡の中の自分に向かって、和江は言った。


 先ほどの明宏の笑顔。あれは、守られている人間の顔だ。


 これまで和江が、風雨から彼を守る壁となり、屋根となってきた。

 だから彼は、濡れることの冷たさを知らない。


 元夫の茂もそうだった。

 義母に溺愛されて育った彼は、嫌なことがあるとすぐに逃げ出し、誰かが尻拭いをしてくれるのを待っていた。

 明宏には、あんなふうになってほしくない。

 

 優しさだけが、親の愛ではない。


 突き放すこと。冷たい雨の中に放り出すこと。

 それもまた、必要な「教育」なのだ。


 和江は洗面台の端に置いてあった、一冊の古い通帳を手に取った。

 明宏の学費を捻出するために、かつては毎月のように残高が三桁まで減った通帳だ。

 今は、ほんの少しだけ余裕ができている。


 だが、この余裕を息子に見せるつもりはない。


 和江の目から、母親としての柔らかな色が消え、代わりに冷徹な光が宿る。


 今日、明宏が帰ってきたら伝えなくてはならない。

 これまでの「親子ごっこ」は終わりだと。

 ここからは、対等な大人としての契約が必要なのだと。


「さて……」


 和江は口角をわずかに上げた。

 それは、これから始まる孤独な戦いへの、武者震いのようなものだった。


 社会に出るということは、誰にも守られない戦場に立つということ。

 それを骨の髄まで教え込むのが、母として最後に残された大仕事だ。


 秋山和江の、第二の子育てが始まろうとしていた。

第1話を読んでいただき、ありがとうございます。


甲斐甲斐しくネクタイを直してやる母・和江。

しかし、彼女の心の中では、ある「決別」の準備が整っていました。


次話、ついに和江の「教育」が牙を剥きます。

和江が提示した「五万円」という金額と「契約書」の内容とは……。


引き続き、第2話をお楽しみください!

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