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金魚

作者: LeGa

「まだここ屋台出してたんだなー」

 拓真が、神社に伸びるように左右に所狭しと並んでいる屋台を見回しながら、昔を懐かしむように言った。

「たくちゃん、高校の時お引越しで地元離れちゃったもんね」

 俺の横を歩く、赤い浴衣に身を包んだ江美が、一歩も二歩も先を行く拓真の背中に語り掛ける。

「小学や中学の頃はよくお前らと来たよな、なっつかしー!」

 拓真は、人懐っこい笑顔をこちらに向けながらも、視線は左右の屋台を忙しなく捕えていた。

「あっ」

 江美が声をあげ、一つの屋台の前に駆け寄る。後に続くと、暖簾に【金魚や】と達筆で書かれている屋台の前に着いた。

「かわいーっ!あたし、これやりたい!」

 こどもの頃に戻ったようにはしゃぐ江美の瞳は、屋台にぶら下がる提灯の灯りをきらきらと反射させ、大きい目をより主張させている。まるでこどもが親に欲しいものをねだるような声色で、俺に話しかける。

「ねぇ、いいでしょ?毎日お世話するから、ね!」

 江美は、こうなったらこちらが否定しようが意見を聞かない。困ったな・・・と頭を搔きながらも、俺は「わかったよ」と応えた。

「オレもやろうかな。おっちゃん、3人分!」

「いや、俺はいいよ。おじさん、2人分でお願いします」

 俺は拓真の誘いを断り、金魚すくいに興じる2人を半歩後ろから眺めていた。


 俺たち3人は、赤ん坊の頃からの幼馴染だ。

高校から拓真は親の転勤で地元から引っ越したが、今年の春、就職で地元に帰ってきた。「やっぱ地元はいいな、空気がまず美味いし。引っ越す前は都会はすげーところに見えてたけど、実際住むと何かと汚いぜ」と、こちらに帰ってきた翌日には”俺たち”の家に来た拓真は、訊いてもいないのに口元にある大きめな黒子を動かしながら喋った。

その口調とは裏腹に、俺はどこか昔とは違う雰囲気を纏う拓真を見ていた。最後に会ったのは中学の卒業式の時だから、成長した拓真に違和感を感じるのは当たり前なのだろう。

だが、時の流れで生じる人体の変化以外のものを感じた。昔は暑かろうが寒かろうが太陽の下で無邪気に遊んでいた彼は、成人した今、元々黒髪だったのにそれは赤茶色に染まっていて、腕には革のブレスレット、指には何個かごつごつとした大きい指輪をはめている。首には、十字架のペンダントをしていて、部屋に差し込む日光を反射させ、ギラギラと卑しく光っていた。

「そういやお前、江美とは上手くいってんの?」

 拓真からの不意な言葉に、無意識に体が強張った。

「ああ・・・」と、歯切れの悪い返事が、俺の口から零れ落ちる。

 昔、拓真は江美のことが好きだった。

昔と言っても、幼稚園や小学生の頃だが。当時、拓真は捕った虫やカエルなどを押し付け、江美をよく泣かせていた。小さい頃は誰しもがやるであろう、好意の伝え方だった。だがそんな方法で江美に好意が伝わるはずもなく、俺は泣いている江美をよく慰めていたのを覚えている。こどもながらに、俺は江美を守りたいと思うようになっていた。

 俺と江美が互いに好意を抱いていると知ったのは、中学二年の頃だった。

バレンタインの日、下校時「これ・・・」と、耳まで赤くした江美が顔を逸らしながら、俺の胸に物を押し付けてきた。見ると、その”物”はピンクのサテン生地らしいリボンが結ばれた赤いハート形の箱だった。

登校時、クラスの男子に配っていた市販のばら売りチョコとは意味が違うと気付いた。江美の態度がそれを物語っている。

「ねぇ・・・返事は?」

 強い口調ながらも、目を泳がせて不安そうな表情を浮かべている江美を見て、俺は拓真の顔がちらつきながらも、自分の想いを優先させた。江美は拓真にもチョコを渡していたが、それは他の男子生徒と同じ、市販のチョコだった。つまりは義理チョコだ。

江美は俺を選んだのだ。少し不安はあった。小さい頃はいじめられていると感じていても、思春期に入ると”それ”を自身への好意だと感じる女子はいるだろう。それは男子も然りだが・・・。

 翌日、手を繋いでいるところを拓真に見られ、付き合っていることを学校中に言いふらされたのは苦い思い出だ・・・。


「やった!」

 歓喜を上げた江美の声で、俺は現実に戻された。どうやら、俺が思いふけっている間に、金魚を掬っていたようだ。どれどれ・・・と覗き込むと、江美の持っている深めの紙皿の中には、金魚が三匹泳いでいた。

「だ―っ、オレはダメだ‼」

 江美の隣では、大きな穴を開けたポイを天に高く掲げた拓真が悶絶している。

「嬢ちゃん上手いな。んだけども、これ以上捕られたらこっちも商売上がったり下がったりじゃけ。ほれ、これやるからもう終いにしてくれや」

 店主のおじさんが、自身の後ろに置いてあった金魚鉢を江美に差し出した。小ぶりで少々煤汚れている鉢だが、江美はそれを大切そうに両手で受け取り、こちらに振り返った。

「イイものもらっちゃった!」

 そう言う江美の瞳は、まだ輝きを放っていた。俺はおじさんにお礼を言いながら、江美の手から鉢を受け取った。

江美はおじさんから金魚を入れた透明なビニール巾着を受け取り、覗き込むようにして金魚を見る。

「ねぇ、この金魚あたしたちみたいじゃない?」

「え?」

 俺と拓真は、江美と同じように金魚を凝視する。一匹は、真っ赤な体から伸びる長いひれを、まるで振袖かのようにひらつかせている。もう一匹は、口の近くに大きな丸い模様がついている少し茶色がかった赤、三匹の中では一番大きい。三匹目は、黒い金魚だ。これといった特徴はない。

「この模様がついてるのがたくちゃん、であたしが赤いやつで、この黒い子は—・・・」

「俺というわけか・・・。確かに、俺は黒髪だし、拓真には同じ位置に黒子があるからな」

「うわーマジ?オレこんな感じなの?ブスじゃね?」

 拓真はわざとらしく自身の黒子を指差し、眉を下げてみせた。その反応を見て江美は大笑いする。俺はというと、自分に似ているらしい黒い金魚に目をやった。三匹の中で、一匹だけ黒。自分だけ仲間外れにされた気分になった。


 翌日、俺は金魚鉢をきれいに洗い、中にホームセンターで買ってきた砂利と草を入れ、そこに金魚を移した。

世話をすると豪語していた江美だが、家に帰ってくるなりテーブルの上に金魚が入ったビニール巾着を置いたまま、就寝した。今朝も、友人との買い物があるからと言って、金魚はそっちのけで出かけてしまった。

こうなることは分かっていた。欲しがる割に、いざ手に入ると満足するようで、その後の扱いはぞんざいだ。

「お前らも、大変な飼い主に掬われたもんだな・・・」

 俺は餌をやりながら、三匹の金魚に話しかける。金魚たちは、お腹が空いていたのか、入れた餌に速攻食らいつく。その姿を見て、俺は昨晩の江美の発言を思い出す。

確かに、特徴だけ見れば似ていなくもない・・・だが、貪欲に餌に食らいつく姿を見ているうちに、言い知れぬ不快感がこみ上げたきた。

違う、俺たちはこんなんじゃない。こんな、本能をむき出した生物じゃ・・・。

 そこで俺は考えるのをやめ、金魚鉢から離れた。江美が帰ってきたら、世話をやるように言わなければ。

俺は自室のパソコンを立ち上げ、仕事に取り掛かった。


「これぐらい?」

 そう言いながら、江美は金魚鉢の上から餌を水面へとパラパラ振り落とす。

「うん、それぐらいかな。じゃ、これからは朝は江美が餌やり。午後は俺が家にいるから、やっておくよ」

「あたしはなかなか仕事抜けられないから助かるー」

 そう言って、江美は出勤鞄に手を伸ばす。

「最近、忙しそうだね」

「あーうん、お客さんが増えちゃって・・・。それ自体は嬉しい事なんだけどね」

 江美は、この家から車で30分ほど走った所にある駅近くのネイルサロンに勤めている。今年の春過ぎ頃から客が増えているみたいで江美の帰りが遅くなることが増えたが、客が増えた分就業時間が伸びるものなのかと思うが、自分には分からない分野なので口出しはしないでいる。

「じゃ、いってきまーす」

 手を振って玄関を出ていく江美に手を振り、俺は自室に戻るために踵を返した。ふと金魚鉢が目に入る。

三匹は、まだ餌をむさぼっていた。観賞用で金魚を飼う家は多そうだが、こんな獣のような姿を見て癒されたりするものだろうか。それとも、この三匹が特別”こう”なのか・・・。

俺は金魚鉢にそっと近づき、かがんで覗き込む。餌を食べ終わったようで、金魚たちは水面から離れ、鉢の下の方に下りてきた。

すると、そのうちの一匹が他の一匹にちょっかいを出し始めた。

模様がある金魚と、赤い金魚だ。

 この模様がついてるのがたくちゃん、であたしが赤いやつで・・・——

江美の言葉が蘇る。

「気持ち悪い・・・」

 不意に自分の口から吐き出された言葉に驚き、咄嗟に口を手で覆った。

まさか自分がここまで金魚に嫌悪感を抱いているなんて・・・。自身でも不思議な気分だった。

たかが金魚だ。何を気持ち悪がる必要がある。見た目が似ているのもたまたまで、それもこじつけに近いじゃないか。

 俺は気分を切り替えるために頭を軽く横に振り、自室に入った。


 その夜、俺はベッドが軋む音で目が覚めた。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

 隣には、江美が申し訳なさそうな笑みを浮かべてベッドの中に入る途中だった。時間を確認する。二十三時を回っていた。

「大丈夫・・・。江美、今日も忙しかった?」

「え、うん、忙しかったー。最後のお客さんの注文がかなり細かくてさー・・・」

 そう言いながら俺の横に体を横たわらせる江美の髪からは、家のシャンプーとは違う香りがした。


 翌日。俺は餌やりをしていた。

金魚たちは相も変わらず水面に浮いた餌に貪りつく。

 昨晩の江美の香り・・・。あの香りをかいだのは初めてではない。そう、最初は確か、仕事が忙しくなってきたと言っていた時・・・春過ぎ頃だ。

俺は当初、いつも江美が使っているヘアオイルが変わったのかと思ったが、洗面台に並んでいるボトルに変わりはなかった。じゃ、あの香りは一体・・・。

 バチャ!

 俺は突然の音に驚き、持っていた餌袋を床に落として中身を盛大にぶちまけた。床に広がった餌をかき集めつつ、音がした方向へ目をやると、そこでは一匹の金魚が水面近くで跳ねていた。

・・・——黒子がついた金魚だ。

 俺は体が固まり、目だけが金魚を追っていた。”たくちゃん”と言われた金魚は数回水面を跳ねると、鉢の下の方にいる金魚に近づいていく。赤い金魚・・・”江美”だ。

金魚たちはまるで互いの体をまさぐるようにして、くねくねとその場で泳ぎ回転している。

・・・——違う。気のせいだ。考えすぎだ。

俺はぶちまけた餌を手早く回収すると、床に落ちていた埃と一緒にゴミ箱に捨てた。


「ふぅ・・・」

 俺はパソコンから手を離すと、軽く伸びをした。在宅で仕事ができることは有難いが、自宅にいるためか椅子から動くことがめっきり減り、これはこれで少々体に堪える。

 液晶画面の角に小さく表示されている時計を見た。夜の七時半過ぎ。

俺は立ち上がると、金魚鉢の前に向かった。餌袋を持ち上げ、軽く振る。中身はほとんど無いようで、カシャカシャと軽い音が微かに響く。

「ほとんどこぼしたからなぁ・・・」

 もう一度時計を見る。時刻に大きな変化はない。本来なら、江美が退社する時間帯だ。

俺は、気が付いたら自身の車を江美の職場の方へ走らせていた。


 近道を使ったからか、自分でも気づかぬうちに速度を出し過ぎていたからなのか、想定の時間より約十分も早く駅に着いた。時刻は八時前。

俺は、駅の一般車両用の駐車スペースに車を停め、江美が勤めている店がある商店街の方へと歩き出した。

もう閉店時間より三十分近く経っている。通常通りに退勤していれば、店に江美はいないはずだ。シャッターが下りている可能性だってある。もし、江美が言っている通り忙しくて時間が押しているなら、外からでも働いてる江美の姿が見えるかもしれない。

俺はそんなことを考えながら、歩みを早めた。

 五分ほどで、店の前に着いた。看板の電気は消えていたが、店の奥はまだ灯りがついていた。覗き込むように店の窓に近寄ると、奥から女性が一人出てきて目が合った。

俺は咄嗟に身を引いた。今更になって、自分の行動が怪しいことに気が付いたのだ。今すぐにでもこの場から逃げたかったが、女性が店から出てくる方が早かった。

「あの、もしかして江美ちゃんの彼氏さん?」

 女性は自分より十歳は年上に見えた。ドアノブにかけられている手の先は、ラメやらでギラリと光っている。

「あ・・・はい、そうです。でも、何で江美の彼氏だと・・・?」

 戸惑いながら問うと、女性は人当たりのよさそうな笑みを浮かべて「江美ちゃんにね、写真を見せてもらったことがあるのよ」と言った。話を聞く限り、どうやら江美が不意打ちで撮った俺の写真を、この女性——店長に見せて、自慢していたみたいだ。

俺は昔から写真を撮られるのが苦手だ。どんな表情をしていいのか分からなくて、顔が引きつってしまう。笑えばいいよ、と江美に言われたことがあるが、咄嗟に向けられたカメラに対して何を思って笑えばいいのか分からず、結局今も写真を撮られることが苦手だ。

「江美ちゃんなら、いつも通り定時に上がったわよ」

 ”いつも通り”・・・。俺は、思い切って今まで気になっていたことを口にしてみた。

「あの、最近忙しくはないんですか?あ、いや、接客業だし、集中しないといけない仕事だから忙しいとは思うのですが・・・」

「ふふっ、そんなに慌てなくても大丈夫よ。そうねぇ、忙しいは忙しいわね」

「じゃ、例えば、閉店時間が伸びるということは・・・」

「それはないわね。お客様には時間とプランで予約してもらうシステムなの。だから、営業時間を超えるようなことはないわ」

 やはり・・・俺の考えは正しかったというのか。

どうしても考えたくない方向に思考が引っ張られていると、店長が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

「大丈夫?江美ちゃんと何かあったの?」

「あ、いえそういうわけでは・・・。すみません、あの・・・江美が退勤後どこかに行くとかって言っていませんでしたか?」

 訊かなくても、もう自分の中で答えは出ている。ただ、それが間違いであってほしい、そう願っていた。

店長は少し考えた後、あっと小さく声を上げ俺を見て言った。

「そういえば、”幼馴染に会いに行く”って言ってたわ」


 気が付いたら、俺は金魚鉢の前に立っていた。

二匹は相変わらず体を寄せ合っている・・・”俺”を残して。

 俺は自室のペン立てから鋏を取り出すと、金魚を刺激しないようゆっくりと水の中に手を入れた。

鉢の中間辺りで互いの体をこすり合わせている金魚の方へと、手を進める。金魚は、今さっきまでこちらに無関心で体を寄せ合っていたが、指が届きそうになるほど近付いた時、今までのねちっこい動きが嘘かのように俊敏に左右へ散っていった。

俺は逃がすまいと、必死になって金魚鉢の中で手を動かす。金魚を追いかけるうちに、水面の波が渦のような形に変わる。

 上手く捕まえられない・・・鉢は自分の手を入れたら半分は埋まってしまうほどの大きさなのに、俊敏に逃げ回る金魚を捕まえられない。

しびれを切らした俺は、金魚鉢の中から手を抜くと、鉢を持って台所のシンクへ向かった。捕まえやすくするため、水を少しずつシンクへ流していく。

鉢の三分の一程まで水位が失われると、さすがの金魚も泳げる範囲が狭くなったからか動きが鈍くなった。これなら捕まえられる。

 俺はもう一度狙いを定めて、金魚鉢の中へ手を入れた。作戦通り、今度は金魚を捕まえることが出来た。

赤茶色い金魚が、手の中で体を左右に激しく振り、水の中へ戻ろうとしているのが掌から伝わってくる。

もし、もしこいつらが自分たちと繋がっているとしたら・・自分たちが反映されているのなら、こいつのひれを切ったら、”人間の方の拓真”はどうなるのだろう。

 俺は、片手にずっと握りしめていた鋏を構え、ビチビチと動く金魚の右ひれの根元に刃先を当てがった。

これで・・・もし何か起こったら。こいつは、俺にとって好都合なモルモットになる。もっと言うなれば、藁人形だ。藁人形で恨んでいる相手を呪うには様々な条件をクリアしなければならないし、リスクも伴う。

けど、金魚なら・・・こいつらなら、自身が今しているように捕まえて、”罰”を与えるだけでいい。

家の中でできるし、用意する道具も傷つける道具さえあれば何でもいい。丑の刻参りよりも圧倒的に手軽だ。

 俺は、鋏にゆっくりと力を入れていく。刃先が捉えた鱗や魚特有のザラザラとした感触が、鋏を通して手に、腕に、脳に伝わってくる。その感覚に言い知れない恐怖と快楽を覚え、俺は思い切り鋏の持ち手を握った。

 ジャギッ・・・と鈍い音が響く。金魚は痛いのか、まだ手の中で体をうねらせて激しくのたうち回っている。

俺は金魚を鉢に戻すと、捨てた分の水を追加して、元あった場所へ戻した。

覗き込むと、砂利の上で泳ぎにくそうに体をなんとか支えている赤茶色の金魚の姿があった。

 果たして、効果はあるのだろうか。楽しみで、笑みがこぼれるのを止められず、俺は笑いそうになっている口を手で押さえ込みながら、自室へ戻った。


「ねぇ、大変!」

 翌日、朝のコーヒーを堪能していると、江美が動揺した声で話しかけてきた。大変なこと・・・まさかな。

「たくちゃんが、バイクの事故に遭って、入院してるんだって」

「事故?大丈夫なのか?」

 俺は白々しく質問した。昨晩、自分が金魚にした行いを思い返す。まさかな・・・と思いつつ、江美の次の言葉を待った。

「大丈夫って言っていいのか分からないけど・・・右腕怪我したみたいなの」

 その言葉を聞いて、俺の心臓はまるで金魚が水面を跳ねていたかのように、激しく鼓動した。右腕・・・昨晩、俺が切り落としたのは右ひれだ。

コーヒーを飲みながら、金魚鉢に視線を移す。赤茶色の金魚は、昨晩よりは元気そうに水中を泳いでいた。


「いやーマジビビったわー」

 見舞いに行くと、事故に遭ったという割には元気そうな拓真の姿がそこにはあった。医者曰く、右腕の骨折だけで済んだのは不幸中の幸いだと。

「雨の日にバイクなんて運転するからでしょ!もう、本当に心配したんだから・・・」

 江美はそう言いながら、拓真が寝ているベッドの横の椅子に腰を下ろした。本人は気が付いていないようだが、語尾に特別な相手に向けるような甘さが絡みついている。

そんな江美を前に、俺は拓真の全身をじっくりと眺めた。雨天時の自動車との衝突事故。帰り道を急いでいたのか、互いに道路標識に記されている制限速度よりも二十キロ近く出していたらしい。そんな事故に遭いつつも、右腕の複雑骨折とその他かすり傷だけで済んだのは運が良かったみたいだ。

「思ったより元気そうで良かった」

 そう言った俺は今どんな表情を浮かべているのだろうか。落胆?苛立ち?それとも、微笑?

俺の声かけに、拓真は満面の笑みで「おう!」と応えながら、かすり傷だけついた左腕で拳を天に掲げてみせた。


 病院から帰宅後、江美はかなり疲れたようでソファの上で体を横たわらせている。

「たくちゃん、しばらくは入院だって・・・」

 俺はその言葉には反応せずに、金魚鉢の横に置いてある餌袋に手を伸ばした。持ち上げると思いのほか軽く、新しい餌を買い忘れていたことに気がついた。袋の中身の大半を床にぶちまけた光景が頭をよぎる。

「ねぇ、また一緒にお見舞い行こうね」

 江美は、ソファに座ったまま上半身をひねり起こし、こちらに顔を向けた。

「ああ」と、俺は無関心な気持ちを相手に察知されないように、語気を強めた。餌袋を傾け、軽く指で袋のふちを叩く。水面には、カスの混じった餌が舞い降りていった。

「金魚の餌、新しいの買ってくるよ」

 出かける身支度をする俺を横目に、江美は「はぁい」と気の抜けた返事をした。


 拓真が入院し始めてから、江美の帰宅が早くなった。忙しくなったと言う前の、定時上がりの時刻に戻ったのだ。

やはりこれはそういうことなのだろう。俺の中で、疑惑が確信へと変わっていく。いや、前から確信はしていたじゃないか。それを否定し続けていたのは自分だ。今更になって、それを”確信”という言葉で考えを固めようとしている。

「お疲れ様。最近また早く帰れるようになったんだな」

「あーうん、最近台風とかで天気悪いでしょ?だからなのか、お客さんも外出したがらないみたいなの」

 江美が言っていることは、半分本当で半分嘘だ。確かに、最近は台風襲来のニュースを多く耳にするようになり、天気が安定しない日も多くなっている。いくら駅から徒歩で行ける店舗とはいえ、強い雨の中、しかも風も吹いている中外出する人は少ないだろう。それは、江美の勤めている店も例外ではないみたいだ。

だが、それだけが江美の帰宅を早くしている理由ではない。拓真が入院してから、会う回数や面会時間が限られているからだ。江美が定時退社するのは七時半。それから急いで病院へ向かっても、着くのは八時半頃だろう。面会時間は九時までだから、会ったとしても約三十分。しかも、拓真がいる病室は他にも患者がいる。いくら仕切りのカーテンがあるといっても、会話は筒抜けだろう。地元は狭いところだ。どこで誰に関係を漏らされるか分かったものじゃない。それは、どうやら江美も拓真も気にしているようだ。散々、二人で会っているというのに、だ。

 俺は台所で晩御飯の支度を始める江美に目をやった。いつもと変わらぬように見えるが、俺には拓真と長く会えないもどかしさが感じ取れた。江美の目が、それを物語っている。目は口程に物を言うとはよく言ったものだ。

 その日の晩御飯は、鳥そぼろの乗った親子丼だった。


 次の日の朝、江美をいつも通り見送ると、俺は金魚鉢の前に立った。金魚は、先ほど江美が撒いた餌に相も変わらず食らいついている。よく食べるやつらだ。

 俺は、そのうちの一匹を鷲掴みした。餌に夢中になっていたからか、以前より簡単に捕まえられた。手に掴んだ”それ”を台所へ持って行くと、包丁を取り出し、えらの辺りに刃先を当てた・・・。


「何で・・・」

 隣で肩を震わせ泣いている江美を、俺は優しく抱き寄せた。

 昼頃、病院から電話があった。拓真が死んだ、と。

どうやら、病院の階段から足を踏み外し、頭から落ちたことで首の骨を折ったのが致命傷だったようだ。血を流しているところを、見回りの看護師が発見。その時には既に、こと切れていたという。

「たくちゃん・・・なんで死んじゃったの・・・なんで・・・」

 江美は、病院から家に帰ってくるまでの間、機械のように同じ言葉を繰り返し、泣き続けていた。たくちゃん・・・たくちゃん・・・たくちゃん・・・。

 俺は、無言のままハンドルを握っていた。江美が「たくちゃん」と口にする度、今朝自分が金魚に対して行ったことを思い返していた。俺は、包丁で赤茶色の金魚の首を切断した。ゴリ、と鈍い音を立ててその小さい頭は胴体から切り離された。あいつも、そんな音を立てて死んだのだろうか。そうだったら嬉しい限りだ。


 次の日、江美は仕事を休んだ。拓真が死んだことが相当堪えているらしく、ベッドの上でうずくまっている。

「江美、ほらお茶。何か口にしないと」

 俺は、江美が好きな紅茶をベッドサイドテーブルに置いた。江美からの返事はない。

そんなに俺では不満なのか。物足りないのか。何が気にくわないんだ。そんな思いを飲み込み、俺は自室へ向かおうとドアノブに手をかけた瞬間、体が硬直した。

ゆっくりと、江美の方へ振り返る。自分の耳を疑った。

「・・・え、今なんて?」

「だから、金魚が一匹いないの。たくちゃんの金魚が」

 ”たくちゃんの金魚”・・・。

 俺は、今思い出したかのように声を上げた。

「実はあの金魚、死んでたんだ。ちゃんと世話はしていたのにな・・・。でも、あれだろう?屋台の金魚なんて、死ぬのはあっという間さ。今回もそうだったんだろう。だから気にする必要ないよ」

 江美は上半身を起き上がらせると、俺の目を見据えてきた。カーテンが閉じられ暗い寝室で相手の姿を視認するのがやっとだというのに、江美の視線は痛いほど闇を切り裂き伝わってくる。

「ねぇ、いつから?」

 声のトーンが一つ低くなっている。俺はドアノブから手が離せずにいた。

暗闇の奥で、薄っすらと黒い塊が立ち上がるのが見えた。その塊は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

「ねぇ・・・いつから知ってたの、あたしたちのこと」

 俺は額に嫌な汗を滲ませていることを感じた。江美のこんな低い声は聞いたことがない。無意識のうちに、脳に危険信号が鳴らされる。

俺に段々と近付いてくる黒い塊は、徐々に輪郭をとらえ始める。髪、耳、肩、顔・・・そして、江美の俺を睨みつける、鋭い大きな目。

「なんのこと?」

 今の自分が口にできたのは、そんな短い言葉だけだった。昨晩まで優越感に浸っていた感情なんて、とっくに消え失せていた。今はただ、江美の、愛する人から向けられる、鋭く冷たい視線だけが感覚を支配する。

 江美は俺の一歩手前で止まった。俺の言葉には応えず、じっとこちらを見ている。

「江美たちのことって・・・江美と、誰のこと?」

「しらばっくれないで!」

 突然の大声に、俺の胸は強く掴まれたようにギュッと委縮した。

「あたしとたくちゃんのこと・・・あたしたちが何してたかってこと」

「なにって・・・」

 バチャ。

 不意に、居間の方から水音が聞こえた。聞いたことのある音。金魚が、水面を跳ねている音だ。

ふと、俺は何故こんなにも江美に怯えているのだと思った。俺は、責められるようなことはしていない。江美の後を尾行したこともなければ、口を出したこともない。なのに何故、こんなに自分が詰められなくてはならないのだ。

俺は軽く深呼吸して、江美をもう一度見据える。江美は微動だにしていなかったが、俺の雰囲気が変わったことに気が付いたのか、先ほどまで向けてきた鋭い視線はもうない。

「何のことかさっぱり・・・。もしかして江美、拓真と二人で会ってたのか?」

 俺は軽い口調で問いかけた。まるで、何も気づいていないかのように。

江美は、先ほどとは違い、立場が逆転したようにうろたえ始めた。自分から拓真との関係を仄めかすことを言ったことを、今更後悔しているようだった。

「俺も拓真とは会ってたよ。って言っても、ほとんど”ここ”でだけど」

「え?」

 俺の言葉を予想していなかったのか、江美は素っ頓狂な声を上げた。

”ここ”・・・つまり、俺と江美が同棲しているこの家だ。とは言っても、”ほとんど”と言えるほどの回数は会っていないが。拓真がこの家に来たのは、今年の春過ぎ、つまり拓真が地元に帰ってきた日のみだ。

「あれ、拓真から聞いてなかったのか」

「え、あ・・・うん」

 言い淀む江美を横目に、俺はドアノブを回した。暗闇だった寝室に、扉の隙間からほのかに光が差し込む。

「江美が拓真と二人で会ってたのは知らなかったけど、別に俺は気にしてないよ。だって俺たち、”幼馴染”だろう?」

 そう言いながら寝室を後にする俺に、江美はか細く「うん・・・」とだけ言い、扉は自重で閉ざされた。


 その日の晩、俺が食事を用意していると、居間に江美が来た。バツが悪そうに、俺の方には視線を向けず、テーブルの椅子に腰かける。

「もうできるから、少し待ってて。今日は江美の好物のパスタだよ」

 俺が何事もなかったかのような明るい声をかけると、江美は少し緊張を和らげたのか、薄く笑みを浮かべて頷いた。

 料理を食卓に並べ、俺たちは食べ始めた。江美は少しずつだが、フォークを口に運んでいく。そんな江美を見ながら、俺はその背後にある金魚鉢に視線を移した。

金魚たちは、それぞれ正反対の場所にいた。赤い金魚は、黒い金魚に背を向け、いなくなった赤茶色の金魚を探しているかのようにフワフワと泳いでいた。・・・まだ未練があるのか。あんなやつに。

 俺はパスタをたいらげると、洗い物をシンクに置き、コーヒーを淹れた。食後はこれがないと落ち着かない。が、今は別の意味でも落ち着かないのだろう。

「ねぇ・・・」

 台所にいる俺に、江美がこちらの様子を伺いながら声をかけてきた。俺は「ん?」と軽く返事をする。

「あの、さ・・・朝のこと、ごめんね。あたし、なんか取り乱しちゃってたみたいで・・・」

 江美は、バツが悪そうに下を向きながら髪を耳にかける。昔からの癖だ。自分から謝る時、江美は必ず下を向きながら髪を耳に引っ掛ける。

「気にしてないよ。あんなことがあったんだ、取り乱すのも当たり前さ」

 ”あんなこと”、と軽く言った自分の言葉が口の中で再生される。自分がこんなにも薄情になれるなんて、思いもしなかった。

江美はこちらを見て困ったように眉を下げると、微笑み「そうだね・・・」と言い、また食事に戻った。

いつからだろうか。江美から感謝の言葉を聞かなくなったのは。

 俺はコーヒーを淹れたマグカップを持つと、ソファに腰かけた。すぐ横にある窓に激しく当たる雨音が、鼓膜を叩いてきた。


「じゃ、行ってきます・・・」

 翌日、江美は出社した。まだいつものような元気さはなかったが、家で俺といるのが嫌なのか、そそくさと支度をして出ていった。

俺は、習慣となりつつある金魚の観察をしに、金魚鉢の前へ向かう。金魚鉢の中では、二匹の金魚が、それぞれ泳いでいた。しばらく泳いでいる姿を見ると、俺は金魚鉢を持ち上げ、台所へと向かった。

 以前のように水位を下げ、今度は赤い金魚を捕まえる。赤い金魚は、長いひれを垂らしながら、無様に俺の掌の中で蠢いている。俺は、長い尾びれに爪を立ててつまむと、思いっきり引っ張った。ブチッと音を立てて、尾びれが胴体から引き離される。

のたうち回る金魚をまな板の上に乗せ、水切りラックに置いてある昨晩使ったフォークを取り出した。狙いを定めて、金魚の腹部にゆっくりと突き立てていく。

 プチ・・・プチプチブチ・・・ブズッ!

俺は、まな板まで貫通したフォークを抜き取ると、金魚を鉢に戻し、水を入れて元あった場所に戻した。赤い金魚は、腹部に空いた小さな穴から、赤い液体を出している。その動きはまるで、失われた尾びれのようにくゆりくゆりと水の中を漂っていた。


 その夜、江美が勤めている店から電話が入った。かけてきたのは店主の女性で、退勤のため店を出た江美が、店先で何者かによって襲われたという内容だった。電話口の店主はかなり焦っていて終始支離滅裂だったが、そんな会話の中でも「お腹を刺されて」「脚にも重傷を負って」という言葉が聞き取れた。

俺は、江美が運ばれた病院へと向かった。運転する体は、どこか軽かった。


「江美ちゃんがあんなことになるなんて・・・」

 病院で俺が来るのを待っていた店主は、涙ぐみながら言葉を口にした。

「江美は・・・江美は大丈夫なんですか?」

 俺は、店主の側にいた医者に問いかけた。自分でも演技が上手いと思う。

医者が言うには、かなりの重傷を負っていて、腹部に数か所の刺し傷、そして脚は最悪もう動くことはないだろうとのことだった。

やはり、俺の考えは正しかった。”あれ”は俺たちと繋がっている。

 嬉しさのあまり口元がにやけそうになったが、俺は手で覆い、下を向いて必死に耐えた。どうやら体が震えていたみたいで、医者が俺の肩に手を置き「心中お察しします・・・」と言葉をかけてきた。その言葉に俺はまた笑いそうになり、激しく体を震わせた。


 江美がいる集中治療室には、家族ではないため入室が拒否された。間近で自分のしたことを見たかったから、残念でならない。江美の両親はまだ自分たちが小学生の頃離婚していて、母子家庭だった。だがその母も昨年病気で亡くし、今の江美には親族はいない。そのため、今の江美の近況を知らせてくれる人がいないのが悔やまれた。

 今朝、家に警察が訪ねてきたが、江美が襲われた時間丁度リモートワークをしていてアリバイも証人も複数いることもあり、俺は容疑者から外された。

 俺は、ソファで宙をぼんやりと眺めていた。

幼馴染だった三人のうち、一人は事故死、もう一人は通り魔の犯行で瀕死状態。これらの出来事は、自分が起こしたことなのか?いや、自分から直接手を下してはいない。全て、他人が起こしたことだ。俺は何の罪にも問われない。

 ふと、金魚鉢の方へ目をやると、赤い金魚が水底で横たわっているのが見えた。俺は立ち上がると、金魚鉢の前まで行って、中に手を入れた。


 翌朝、眠っていると電話がけたたましく鳴り目が覚めた。どうやら、ソファで眠ってしまっていたみたいだ。まだ眠い目を擦りながら電話口からの言葉を聞き、俺は覚醒した。

 江美が今しがた、息を引き取ったのだ。

 俺は、床に転がっている赤い物体に目をやった。そこには、呼吸が出来ずに息絶えた赤い金魚がいた。

「わかりました・・・はい、はい」

 一通り電話を終えると、俺は一息つき、病院へ向かった。


 江美の葬式は行わなかった。遺体は引き取り拒否をして、自治体に預けた。ただ同棲している関係だったし、引き取る気にもなれなかった。以前なら泣いて手を合わせて、なにがなんでも引き取ろうとしただろう。江美だったものを側に置こうとしただろう。だが、そんな自分はいつの間にかいなくなっていたようだ。

 手続き諸々を終え、帰路につくため車を走らせた。アクセルを踏み込み、段々と速度を上げていく。流れゆく景色を見ながら、俺は今までの人生を振り返っていた。

 幼稚園の頃、拓真に押し付けられた虫たちを嫌がり、俺の元へいつも泣いて走ってきた江美。小学低学年の頃も拓真は江美にちょっかいを出していたが、段々と成長していった江美は拓真の振る舞いに抵抗するようになっていった。俺はそれを傍で見守りながら、二人の時は江美の愚痴を聞いてやって慰めていた。高学年にもなると流石に拓真も多少は大人しくなったが、江美へのちょっかいは続いた。それを、江美はいつしか笑顔でかわすようになった。

 中学に上がると、拓真は部活に入り俺たちと過ごす時間が減った。それでも、休み時間などは江美の教室まで来て、教科書やノートを借りていた。江美も、口では小言を言いながらも毎回貸していた。俺と江美は帰宅部だったから、よく一緒に帰っていた。いつも江美が話し手だったが、俺はどんな話でも江美が口にすることは何でも聞いたし、知りたかった。俺だけに見せてくれる江美の表情が、嬉しかった。愛おしかった。

拓真の部活の試合の観戦にもよく二人で行っていた。毎回、江美に誘われてだったが・・・。観戦席から拓真に声をかける江美を隣で見ていて、言い知れぬ不快感を覚えたものだ。今江美が見ているのが俺ではなく拓真であることが、悔しかった。許せなかった。

そんな中、中学二年のバレンタインデーの日、江美と付き合うことになった。幸せだった。やっと自分のものにできたと思っていた。拓真ではなく、俺を選んだのだと。拓真の江美への気持ちは知っていたが、俺はそれを無視した。自分なりの、密かな復讐だった。

 高校も江美と同じところに進学した。両親や担任からは、もっと偏差値の高い学校を薦められたが、俺は江美の傍にいたくて断った。三者面談の日、帰宅すると初めて親父に殴られた。江美は駄目だと。あんな馬鹿女はよせと言われたが、俺は無視した。

高校では、拓真は都会へ引っ越したため、いつでも江美と二人きりになれた。休み時間も邪魔が入らないことが嬉しかった。江美に女子の友人はいたが、それは自由にさせていた。女子なら恋愛関係になる可能性は低い。それに、いざとなればこちらは男だ。なんとでもできると思っていた。

 ある日、江美はネイリストになりたいと言い出した。元々、お洒落には人一倍気を遣っていた彼女らしい夢だと思い、俺はその夢を応援することにした。学費は年間で五十万と決して安くない額だったが、俺は江美の力になりたくてバイトを始め、高校を卒業する頃には目標額より二倍近く貯めることができた。それを全て、彼女に渡した。ネイルスクールは都会にしかなかったため、その交通費も含めての額だった。地元から一番近い学校でも片道約二時間はかかる。俺は、大学を江美のネイルスクールの近くの学校に決め、無事入学することができた。親からは勝手にしろと言われていたので、何も気にする必要はなかった。ただ、江美の傍に少しでも長くいたかった。彼女もきっと同じ気持ちだったはずだ。そうでなければ、毎日一緒に登下校しなかっただろう。

 一体、いつから歯車が狂ってしまったのだろうか。今年の春までは、順調そのものだった。お互い地元で職を見つけ、同棲もし、毎日ひとつ屋根の下で過ごせた。江美も不満などなかったはずだ。

 やはり、狂い始めたのは、拓真が地元に戻ってきた春過ぎ頃だろうか。その頃から、江美の帰りは段々と遅くなっていったのだから。俺から江美を引き離していたのは拓真だ。今になって、何故拓真が出てくるんだ。江美はお前のことは好いていないのに。


 ——小さい頃はいじめられていると感じていても、思春期に入ると”それ”を自身への好意だと感じる女子はいるだろう。それは男子も然りだが・・・——


 自分の過去の考えがフラッシュバックした。

まさか。そんなはずはない。だって、江美はずっと拓真の行動に困っていて、笑ってかわしていたのも幼馴染だから気を遣っていただけで。でも、じゃ何で毎回物を貸していたんだ?何で毎回部活の観戦に行っていたんだ?何で嫌がらせをしてくる拓真と距離を置かなかったんだ?何で拓真といる時は楽しそうにしていたんだ?何で俺は名前で、あいつは”たくちゃん”と愛称で呼ばれていたんだ?何で・・・——


 いつから、江美と拓真は愛し合っていたんだ?


 その瞬間、体に強い衝撃を受けた。

運転席から車外に放り出されたと気づいたのは、だいぶ後のことだった。薄れゆく意識の中で、自分の車が跡形もなくひしゃげて横転しているのが見えた。地面がキラキラと光っているのは、ガラスの破片のせいか・・・?頭の下が温かいのは。自分から流れ出る、血の、せいなの・・・か・・・?

体が動かせない。痛いのか熱いのかも分からない感覚が全身を包んでいる。傍で何か音が聞こえる。

 誰かが俺の前に立ったのを最後に、目の前が暗転した。


・・・——————————————


「すみません、わざわざお呼び出ししてしまって・・・」

「いえいえ、大丈夫ですよ。それより、大変でしたな。あんな事故に遭われて・・・。お悔やみ申し上げます」

「いえ・・・管理人さんにも色々とご迷惑をおかけいたしますが、すぐ荷物をまとめるので、それまではよろしくお願いいたします」

「そんな急がれなくれも大丈夫ですよ。さぞかしお疲れでしょう、ゆっくりまとめていただいて構いませんので。合鍵、渡しておきます。終わったら下のポストに入れて連絡ください。後で回収しに来るので。あ、それが今ある最後の鍵なんで無くさんでくださいよ。貸し出していた鍵は壊れてしまったもんで」

「わかりました。ありがとうございます・・・」

 女性は手にした鍵で玄関の扉を開けた。後から続いて男性も入る。

「ここがあの子の住んでた部屋なのね。意外と家から近かったのね、全然知らなかったわ・・・」

「あいつは昔から何を考えているのか分からん。さっさと荷物まとめるぞ」

 男性の言葉に押されて、女性は急いで靴を脱いだ。ふと、玄関脇にある棚に目をやる。そこには、自身の息子と幼馴染の江美のツーショットの写真が飾られていた。画角からして、おそらく江美が自撮りしたのだろう。息子は、不器用な笑顔を向けて写っていた。

「あの子・・・昔から変わらないわね。カメラを向けるといつも困ったような顔をするの。でもこの写真、笑ってるわ」

「そんな物今は置いておけ。まずは部屋全体を確認しないと・・・って、なんだこれは!」

 居間へ繋がっているであろう扉を開けた男性の傍へ駆け寄ると、その肩越しに部屋の様子が見えた。

「あなた・・・これは一体・・・」

 二人の視線の先には、床に粉々に割れている鉢と周辺に広がる水、その中心には、黒い金魚がいた。

その少し離れたところに、玄関にあった物よりも大きく、厚みのある額縁が落ちている。

その中には、ピンクのサテン生地らしいリボンが結ばれた赤いハート形の箱が、大切そうに飾られていた。

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