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「何だったのだ……? この女は……この俺がここまで苦戦するとは……」
男の息が荒い。どうやら、よほど腕に自信があったらしい。
「しかし、雇った用心棒どもが全滅とは……伯爵、この国にこんな戦力があるとは聞いていないぞ!」
「ひぃぃ! し、知らん! ワシだって、こんな化け物がいるなんて聞いたこともない!」
どうやら、この二人の関係は単純な主従関係ではなさそうだ。まあ、その辺は後でたっぷりと聞くとしよう。
「……本国にどう報告したものか……ん? どうした? 伯爵」
「う、うぅぅ……うし……」
伯爵が男の背後を指しながら、うわ言のように呟く。
「牛? 牛がどうし――がはぁ!」
先ほどのお返しだ。今度は私が背後から手刀を突き刺し、男の心臓を貫いた。私を殺したと思って気を緩め、身体強化を解いたのが間違いだったのだ。
ドサリ――
男の体が崩れ落ちる。
「ひぃぃぃぃ!!!」
伯爵が腰を抜かし、床を濡らしながら後ずさる。
「お、お前もい、いったいどこから……」
言いながらも、伯爵の目線は私の身体を上から下までなめるように動く。
「ふん!」
「うぎゃぁぁぁーーーー!!!」
伯爵が目を抑えてのたうち回る。
私の身体は、こんな豚に見せてやるほど安くはない。
とりあえず、私の死体から装備を脱がせ、いつものように着替える。
――と、ああ、そうだ。
「とりあえず、倒れてる連中、食べていいわよ」
『――我も暴れる流れだと思ったのだがな?』
「暴れたかったの?」
『いや、疲れるのは好かん』
「あら、そう」
手伝ってくれる気があったのかと思ったが、そうでもないらしい。
さて、詳しいお話を聞かせてもらわないとね。
◆
私は静かに報告書を団長の机の上に置いた。
「……ふむ、"ガルシウス伯爵邸襲撃事件"の報告か」
団長――兄上が、眉間に皺を寄せながら報告書を開く。
先日、ガルシウス伯爵の屋敷が何者かに襲撃され、伯爵を含む多数の死者が出た。
なお、死者の大半は賞金首であり、屋敷の使用人の証言によれば、彼らは用心棒として雇われていたという。
現場には、伯爵の悪事を綴った告白文が残されており、その文書には伯爵本人の署名があった。
捜査を進めた結果、伯爵領の隠し鉱山から秘密のトンネルが発見され、攫われた子供たちが救出された。
さらに、使用人の証言によれば、事件には巨大な黒い獣と髑髏の仮面をつけた男が関与している可能性が高い。
しかし、その正体や消息については依然として不明のままである。
兄上は溜息をついた。
「……休暇を使ってまで裏工作をしていたのに、これではすべて無駄になったな」
眉間の皺がさらに深くなる。
「それだけじゃない。"黒い獣"と"髑髏仮面"という厄介な存在が現れた……ますます頭が痛い」
兄上は頭を抱えながら、椅子に深くもたれかかった。
私は何も言わず、その様子を静かに眺める。
"黒い獣"も"髑髏仮面"も、もはやこの国の闇に深く刻まれた存在となったのだ。
――しかし、髑髏仮面とは……屋敷の使用人にも名乗ったほうが良かっただろうか?
というか、男って……いや、私に繋がりにくくなるなら、それはそれで好都合か。
「とりあえず、戦争は回避できたようですので、良しとしましょう」
私は努めて明るく言った。
「……どうも、スパイが入り込んでいたようなので、まだ油断はできんがな」
なるほど、兄上は慎重だ。
私などは、目先の脅威が片付いたことで、すっかり終わった気になっていたのに。
「ところで、だ」
何事か? 兄上が急にお説教モードになっている。
「なにか?」
「なにか? ではない。セレナ、お前、娼館の領収書を家名で切っただろう!」
……ああ、そのことか。
「あれは張り込みでの必要経費です。何ら隠し立てすることもないので、堂々と請求しましたが?」
そこそこの金額にはなったが、経費として十分認められる範囲だ。
「俺が言っているのは宛名の話だ! お前が家名しか書いていないせいで、俺が休暇中に娼館通いをしていたと思われてるんだが!? しかも、のぞき部屋!」
……ああ、なるほど。
いつも通り家名で領収書を切ったが、言われてみれば、確かに誤解を招くかもしれない。
しかし――
「兄上は、ああいう店に興味はありませんか?」
「ない!」
即答だった。
……なんとまぁ。
のぞき部屋はともかく、男なら娼館通いくらいは普通のこと――と、色街の連中は言っていたのに。
兄上はどうやら、その“普通”には当てはまらないらしい。
「あと、身請けの請求書が子爵家に届いているんだが」
「ええ、パセルを迎えたので」
そう。仲良くなったので、パセルを身請けしたのだ。
とりあえず、私の専属メイドとして仕えてもらうことになった。
「それは知ってる! でも、そっちの請求書までじいに見られたんだ!!」
私は少し考える仕草をする。
「……つまり?」
「じいに、『ヴェイル様もついに女子に興味を持たれましたな』って、しみじみと言われた」
「今まで無かったのですか?」
「無いわけないだろう!」
兄上は絶叫した。私は軽く肩をすくめる。
「別にいいじゃないですか。兄上がパセルを身請けしたことになっても、特に問題はないでしょう?」
「あるに決まってるだろうが!! 俺は子爵家の跡取りなんだぞ!? そんな噂が広まったらどうなると思ってる!?」
「兄上、もう少し余裕を持ったほうがいいですよ。貴族の跡取りなら、それくらいの噂では揺るがないでしょう?」
「揺るがないかどうかじゃなくて、俺の名誉の問題だ!!」
兄上はまた額を押さえ、今度こそ本当に疲れ果てたような顔をした。
「はぁ……もういい……どうせ誤解は解けないんだろうな……」
「まあまあ、兄上。噂なんて、そのうち別の話題に移りますよ。それよりも、今は仕事に集中しましょう?」
「お前の仕事のせいで俺が迷惑してるんだが!?」
兄上の叫び声が団長室に響く。
私は軽く手を振って、部屋を出た。
この程度で揺らぐほど、皆の兄上への信頼は脆くはない。
もっと自信を持ってもらいたいものだ。
――こうして、一つの事件は幕を閉じた。
元々短編のツモリだったので、ひとまずここまでです。
気が向いたら、別の事件も書くかもしれません。