7
重厚な扉が静かに閉じられた瞬間、室内の空気がさらに重く沈んだ。蝋燭の灯がわずかに揺れ、暗い影を床に落とす。
長机の向こう、分厚い肘掛け椅子に収まっているのはガルシウス伯爵。その肉付きのいい体は、まるで椅子に沈み込んでいるかのようだった。
かつては名門と讃えられた家柄の長であるはずが、今やその姿は堕落と搾取の象徴だった。
豊かすぎる腹は衣服を押し広げ、二重にも三重にも重なった顎がスライムのように揺れる。指先に至るまで脂肪が乗り、丸々とした手はもはや貴族の優雅さとは程遠い。
どれほどの贅沢をし、どれほどの民を搾取すれば、ここまで膨れ上がるのか――。
その伯爵が、杯を持ち上げながら低く呟いた。
「……工事の進捗が遅れている、だと?」
対面に跪く部下らしき黒衣の男は、慎重に言葉を選んだ。
「はい。現場から追加の労働力が必要との報告がありました。しかし、すでに王都だけでなく、近隣領地からも子供を攫っております。これ以上は……」
「目立ちすぎる、か」
伯爵は鼻を鳴らし、杯を机に置いた。液体が波打ち、細かなしぶきが地図の端を濡らす。
「察しの悪い貴族どもならともかく、警邏騎士団が動き出しているのだ。……まったく、平民の子供が消えた程度で嗅ぎまわりおって……」
部下の男はさらに声を潜める。
「実は……その警邏騎士団が、査問を申請してきました」
伯爵の顔がわずかに引き締まる。
「……ほう?」
「それだけではありません。買収した官僚どもの対応が、あまりにも露骨すぎました。まるで"我々に何かある"と公言しているようなものです」
伯爵は苛立たしげに鼻を鳴らし、机を強く叩いた。指が埋まるほどの脂肪を震わせながら、低く唸る。
「愚か者どもめ……金で動く豚に知恵を求めたのが間違いだったか」
しばし沈黙が流れる。伯爵は地図を睨み、何度か指で叩く。
「計画を急ぐしかないな。だが、奴らの目を逸らす策も必要だ」
「その件ですが……」
部下の男が低く言葉を続ける。
「雇ったお尋ね者どもを、盗賊団に仕立て上げて人々を襲わせるのはどうでしょう? 多少の被害が出れば、世間の目はそちらに向かいます」
伯爵はしばらく考え込み、ゆっくりと杯を持ち上げる。
「……ふむ、悪くない。やりすぎれば騎士団が動くが、一時的には良策か……」
「はい。特に最近は流れ者の盗賊団が増えております。少しばかり手を貸せば、それらしく見せるのは容易でしょう」
伯爵はにやりと笑う。
「よかろう。手配を進めろ。ただし、"やりすぎるな"。騎士団が……警邏はともかく、第3辺りが本気になれば、こちらの計画も水の泡だ」
「承知いたしました」
部下の男が深く頷く。だが、ふと躊躇いがちに口を開いた。
「……そういえば、"鬼ころし"が休暇から戻っておりません」
伯爵の表情が変わる。
「また女か?」
「ええ。しかし、予定よりも長引いております。連絡もありません」
伯爵の瞳が細められる。
「まさか……」
「裏切り、あるいは……始末された可能性も」
伯爵の肉厚な顔が強張る。
「……まさか、本当に裏切りか?」
脂肪に埋もれた指が、机の上の杯を握りしめる。動揺を隠そうとするが、その目には明らかに焦燥の色が見える。
「今すぐ探らせろ。どこで何をしているのか――」
コトリ……
何かが落ちる音がした。
それは、あまりにも小さな音だった。
だが、二人の男は即座に気づいた。
伯爵の杯を置いた音ではない。風が揺らした音でもない。
この部屋の中で、何かが動いた音だ――と。
「……」
伯爵と部下の男が息を潜める。
次の瞬間、彼らの視界に――
鬼ころしがいつの間にかそこにいた。
扉は閉じたままだ。誰も開けていない。
それなのに、鬼ころしは突如として、そこにいた。
裸のまま、足元をふらつかせ、虚ろな目で立ち尽くしている。
「なっ……!」
伯爵の脂肪に埋もれた瞳が、驚愕に見開かれる。
鬼ころしが足元から崩れた。
糸が切れたように、重い音を立てて倒れ伏す。
ドサリ――。
「伯爵、下がってください」
部下の男が短剣を抜き、周囲を見回す。
だが、誰もいない。
伯爵は脂汗を滲ませながら、荒い呼吸を繰り返す。
「馬鹿な……施錠していたはず……!」
鬼ころしの体には、一切の傷がない。血も流れていない。ただ、首の骨を折ってある。
伯爵は椅子から立ち上がり、重い足取りで鬼ころしへと近づく。
そして――
鬼ころしの首に触れようとしたその瞬間、部屋の闇が揺れた。
伯爵は恐怖に目を見開く。
部下の男は即座に刃を構え、伯爵を守るように前に出て、呼び笛を吹いた。
……恐らく、即座に警備の用心棒がやってくるだろう。
影が、歪む。
闇よりもなお深い影。
そこより現れる、ひとつの闇――私が、奈落の牙の影を通って侵入したのだ。
あの獣、他にも芸がありそうだ。
「髑髏? 珍妙な仮面……何者だ?」
部下の男が誰何の声をあげるが、珍妙とはご挨拶だ。私自身の髑髏を加工した仮面だけれど、良くできていると思うのだが?
顔が隠せれば良いと思ったけど、要改良といったところか。
「……黄泉の魔女」
今、即興で考えたのだが、なかなかに私に合っているのではないだろうか?
「魔女――? 女か?」
……今の私は、拳闘士スタイルだ。要所を守る防具を付けているが、基本的には身体の線がでている装備だ。……アイツは1回多く殺そう。
バキィン!
扉が吹き飛び、武装した用心棒たちがなだれ込んでくる。
雇い主の部屋を躊躇いなく壊すとは、先ほどの笛の合図は、よほどの緊急事態を示すものだったらしい。
「魔女だ! 殺せッ!」
先頭の男が剣を振り上げる。
愚か。
私はすでに動いている。
魔力を脚に集中し、一瞬で踏み込む。
――直撃。
私の拳が男の顔面を殴り抜いた。
バキィッ!
衝撃が走り、男の頭が不自然にねじれる。血と歯が飛び散り、体ごと壁に叩きつけられた。
だが、それで終わりではない。
「囲め! 一斉に叩き斬れ!」
数人が剣を構え、一気に包囲する。
遅い。
私は床を蹴る。
一人目の男の剣が振り下ろされるが、私は刃を紙一重で避け、腕ごと掴む。
「なっ――」
バキィッ!
私の握力に耐えられず、男の腕が折れた。悲鳴を上げる暇もなく、私はそのまま腕を掴んだまま男を床へと叩きつける。
「ぐあああっ!!」
敵の叫びとともに、石畳に赤い飛沫が散る。
次の敵が短刀を構え、素早く突きを繰り出す。
私はその腕を掴み、肘関節を逆方向に折る。
「がっ……!」
叫びを上げる敵の腹に拳を打ち込み、そのまま背中まで貫く勢いで吹き飛ばす。
私は次の標的へと突撃する。
肘打ち。
横から迫る敵の鼻骨を砕く。
回し蹴り。
敵の顎を捉え、体を宙に浮かせる。
踵落とし。
落ちてくる敵の頭を床へと叩きつけ、脳天をめり込ませる。
「化け物め……!」
怯む者もいるが、まだ戦意を失ってはいない。
都合が良い。逃げられると厄介だ。
「大勢で、小娘ひとり殺せないの?」
私の挑発に、用心棒たちは激昂してさらに襲い掛かってくる。
ならば、私はそれを砕くだけだ。
剣を持った最後の敵が斬りかかる。
私は剣をかわし、逆に敵の手首を掴む。
「っ……やめ……」
バキィン!
握り潰す。
敵の指が奇妙な方向へ曲がる。剣が落ちる前に、私は手刀を振り下ろし、敵の喉元を潰した。
倒れる音が響く。
室内には、私と伯爵と、その部下の男だけが残った。
「馬鹿な……たった一人で……」
脂汗を滴らせ、伯爵が蒼白な顔で呟く。
私は髑髏の仮面越しに彼を見下ろし、冷たく微笑んで伯爵に一歩近づいた。
その瞬間、部下の男が私の前に躍り出る。
黒衣に身を包んだその男からは、魔力を感じる。
「ここまで好き勝手にやってくれたな、"魔女"」
低く、抑えた声。
右手には鋭く研がれた短剣。
ただの雑魚なら、今までのように拳を打ち込めばそれで終わった。
だが、この男は違う。
私は素早く距離を詰め、拳を振るう。
バキィッ!
拳が男の顎を打ち抜く。
しかし、手応えが鈍い。
「……さすがだ」
男は涼しい顔で立っている。
私と同じく、魔力強化を施しているのか。
男の反撃の一撃を避け、私はさらに踏み込み、拳を放つ。
バンッ!
男は防御の姿勢を取り、拳の衝撃を受け止めた。
「……今のは痛かったぞ」
男の表情に一瞬、微かな苛立ちが走る。
その隙を突く。
私はさらに魔力を練り、全身に込める。
今度こそ――。
「砕け」
私は拳を男の胸元へと突き込んだ。
ズドン!
轟音が響き、空気が震える。
男の体が僅かに後退する。
が、それだけだ。
「……本気か?」
男は微笑しながら、涼しげに短剣を構え直した。
私の拳は確かに当たっている。だが、相手もまた強化魔法を施している以上、決定打にはならない。
「じゃあ、次はこっちの番だ」
男が踏み込む。
短剣の刃が、私の腕をかすめた。
「チッ……」
私は素早く後退するが、刃の切っ先が肉を裂く感覚が残る。
刃まで魔力強化していれば、単純に元の性能差で刃の攻撃は通る。
傷口から鮮血が滴る。
「どうした? さっきまでの勢いは?」
男が嘲るように笑う。
私は無言で拳を握り直した。
魔力を拳に集中し――今度こそ、終わらせる。
私は跳躍し、男の頭上から拳を振り下ろした。
だが――
「遅い」
男の姿が一瞬、掻き消えた。
転移魔法!?
私の拳は空を裂く。
次の瞬間――
背中に熱い痛みが走った。
ズブリ――。
「ッ……!」
突き刺さる短剣。
私の背中を貫いたそれが、心臓を射抜いていることを本能が理解する。
「――チェックメイトだ」
男の囁きが耳元に響く。
力が抜ける。
意識が暗転していく。
世界が、闇に沈んだ。