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 重厚な扉が静かに閉じられた瞬間、室内の空気がさらに重く沈んだ。蝋燭の灯がわずかに揺れ、暗い影を床に落とす。


 長机の向こう、分厚い肘掛け椅子に収まっているのはガルシウス伯爵。その肉付きのいい体は、まるで椅子に沈み込んでいるかのようだった。


 かつては名門と讃えられた家柄の長であるはずが、今やその姿は堕落と搾取の象徴だった。

 豊かすぎる腹は衣服を押し広げ、二重にも三重にも重なった顎がスライムのように揺れる。指先に至るまで脂肪が乗り、丸々とした手はもはや貴族の優雅さとは程遠い。


 どれほどの贅沢をし、どれほどの民を搾取すれば、ここまで膨れ上がるのか――。


 その伯爵が、杯を持ち上げながら低く呟いた。


「……工事の進捗が遅れている、だと?」


 対面に跪く部下らしき黒衣の男は、慎重に言葉を選んだ。


「はい。現場から追加の労働力が必要との報告がありました。しかし、すでに王都だけでなく、近隣領地からも子供を攫っております。これ以上は……」

「目立ちすぎる、か」


 伯爵は鼻を鳴らし、杯を机に置いた。液体が波打ち、細かなしぶきが地図の端を濡らす。


「察しの悪い貴族どもならともかく、警邏騎士団が動き出しているのだ。……まったく、平民の子供が消えた程度で嗅ぎまわりおって……」


 部下の男はさらに声を潜める。


「実は……その警邏騎士団が、査問を申請してきました」


 伯爵の顔がわずかに引き締まる。


「……ほう?」

「それだけではありません。買収した官僚どもの対応が、あまりにも露骨すぎました。まるで"我々に何かある"と公言しているようなものです」


 伯爵は苛立たしげに鼻を鳴らし、机を強く叩いた。指が埋まるほどの脂肪を震わせながら、低く唸る。


「愚か者どもめ……金で動く豚に知恵を求めたのが間違いだったか」


 しばし沈黙が流れる。伯爵は地図を睨み、何度か指で叩く。


「計画を急ぐしかないな。だが、奴らの目を逸らす策も必要だ」

「その件ですが……」


 部下の男が低く言葉を続ける。


「雇ったお尋ね者どもを、盗賊団に仕立て上げて人々を襲わせるのはどうでしょう? 多少の被害が出れば、世間の目はそちらに向かいます」


 伯爵はしばらく考え込み、ゆっくりと杯を持ち上げる。


「……ふむ、悪くない。やりすぎれば騎士団が動くが、一時的には良策か……」

「はい。特に最近は流れ者の盗賊団が増えております。少しばかり手を貸せば、それらしく見せるのは容易でしょう」


 伯爵はにやりと笑う。


「よかろう。手配を進めろ。ただし、"やりすぎるな"。騎士団が……警邏はともかく、第3(最強)辺りが本気になれば、こちらの計画も水の泡だ」

「承知いたしました」


 部下の男が深く頷く。だが、ふと躊躇いがちに口を開いた。


「……そういえば、"鬼ころし"が休暇から戻っておりません」


 伯爵の表情が変わる。


「また女か?」

「ええ。しかし、予定よりも長引いております。連絡もありません」


 伯爵の瞳が細められる。


「まさか……」

「裏切り、あるいは……始末された可能性も」


 伯爵の肉厚な顔が強張る。


「……まさか、本当に裏切りか?」


 脂肪に埋もれた指が、机の上の杯を握りしめる。動揺を隠そうとするが、その目には明らかに焦燥の色が見える。


「今すぐ探らせろ。どこで何をしているのか――」


 コトリ……


 何かが落ちる音がした。

 それは、あまりにも小さな音だった。

 だが、二人の男は即座に気づいた。

 伯爵の杯を置いた音ではない。風が揺らした音でもない。

 この部屋の中で、何かが動いた音だ――と。


「……」


 伯爵と部下の男が息を潜める。

 次の瞬間、彼らの視界に――


 鬼ころしがいつの間にかそこにいた。


 扉は閉じたままだ。誰も開けていない。

 それなのに、鬼ころしは突如として、そこにいた。

 裸のまま、足元をふらつかせ、虚ろな目で立ち尽くしている。


「なっ……!」


 伯爵の脂肪に埋もれた瞳が、驚愕に見開かれる。

 鬼ころしが足元から崩れた。

 糸が切れたように、重い音を立てて倒れ伏す。


 ドサリ――。


「伯爵、下がってください」


 部下の男が短剣を抜き、周囲を見回す。


 だが、誰もいない。


 伯爵は脂汗を滲ませながら、荒い呼吸を繰り返す。


「馬鹿な……施錠していたはず……!」


 鬼ころしの体には、一切の傷がない。血も流れていない。ただ、首の骨を()()()()()


 伯爵は椅子から立ち上がり、重い足取りで鬼ころしへと近づく。


 そして――


 鬼ころしの首に触れようとしたその瞬間、部屋の闇が揺れた。


 伯爵は恐怖に目を見開く。


 部下の男は即座に刃を構え、伯爵を守るように前に出て、呼び笛を吹いた。

 ……恐らく、即座に警備の用心棒がやってくるだろう。


 影が、歪む。


 闇よりもなお深い影。


 そこより現れる、ひとつの闇――私が、奈落の牙の影を通って侵入したのだ。

 あの獣、他にも芸がありそうだ。


髑髏(どくろ)? 珍妙な仮面……何者だ?」


 部下の男が誰何(すいか)の声をあげるが、珍妙とはご挨拶だ。私自身の髑髏(どくろ)を加工した仮面だけれど、良くできていると思うのだが?

 顔が隠せれば良いと思ったけど、要改良といったところか。


「……黄泉の魔女」


 今、即興で考えたのだが、なかなかに私に合っているのではないだろうか?


「魔女――? 女か?」


 ……今の私は、拳闘士スタイルだ。要所を守る防具を付けているが、基本的には身体の線がでている装備だ。……アイツは1回多く殺そう。


 バキィン!


 扉が吹き飛び、武装した用心棒たちがなだれ込んでくる。

 雇い主の部屋を躊躇いなく壊すとは、先ほどの笛の合図は、よほどの緊急事態を示すものだったらしい。


「魔女だ! 殺せッ!」


 先頭の男が剣を振り上げる。

 愚か。

 私はすでに動いている。

 魔力を脚に集中し、一瞬で踏み込む。


 ――直撃。


 私の拳が男の顔面を殴り抜いた。


 バキィッ!


 衝撃が走り、男の頭が不自然にねじれる。血と歯が飛び散り、体ごと壁に叩きつけられた。

 だが、それで終わりではない。


「囲め! 一斉に叩き斬れ!」


 数人が剣を構え、一気に包囲する。


 遅い。


 私は床を蹴る。


 一人目の男の剣が振り下ろされるが、私は刃を紙一重で避け、腕ごと掴む。


「なっ――」


 バキィッ!


 私の握力に耐えられず、男の腕が折れた。悲鳴を上げる暇もなく、私はそのまま腕を掴んだまま男を床へと叩きつける。


「ぐあああっ!!」


 敵の叫びとともに、石畳に赤い飛沫が散る。

 次の敵が短刀を構え、素早く突きを繰り出す。

 私はその腕を掴み、肘関節を逆方向に折る。


「がっ……!」


 叫びを上げる敵の腹に拳を打ち込み、そのまま背中まで貫く勢いで吹き飛ばす。

 私は次の標的へと突撃する。


 肘打ち。


 横から迫る敵の鼻骨を砕く。


 回し蹴り。


 敵の顎を捉え、体を宙に浮かせる。


 踵落とし。


 落ちてくる敵の頭を床へと叩きつけ、脳天をめり込ませる。


「化け物め……!」


 怯む者もいるが、まだ戦意を失ってはいない。

 都合が良い。逃げられると厄介だ。


「大勢で、小娘ひとり殺せないの?」


 私の挑発に、用心棒たちは激昂してさらに襲い掛かってくる。

 ならば、私はそれを砕くだけだ。

 剣を持った最後の敵が斬りかかる。

 私は剣をかわし、逆に敵の手首を掴む。


「っ……やめ……」


 バキィン!


 握り潰す。

 敵の指が奇妙な方向へ曲がる。剣が落ちる前に、私は手刀を振り下ろし、敵の喉元を潰した。

 倒れる音が響く。

 室内には、私と伯爵と、その部下の男だけが残った。


「馬鹿な……たった一人で……」


 脂汗を滴らせ、伯爵が蒼白な顔で呟く。

 私は髑髏(どくろ)の仮面越しに彼を見下ろし、冷たく微笑んで伯爵に一歩近づいた。

 その瞬間、部下の男が私の前に躍り出る。

 黒衣に身を包んだその男からは、魔力を感じる。


「ここまで好き勝手にやってくれたな、"魔女"」


 低く、抑えた声。

 右手には鋭く研がれた短剣。

 ただの雑魚なら、今までのように拳を打ち込めばそれで終わった。

 だが、この男は違う。

 私は素早く距離を詰め、拳を振るう。


 バキィッ!


 拳が男の顎を打ち抜く。

 しかし、手応えが鈍い。


「……さすがだ」


 男は涼しい顔で立っている。

 私と同じく、魔力強化を施しているのか。

 男の反撃の一撃を避け、私はさらに踏み込み、拳を放つ。


 バンッ!


 男は防御の姿勢を取り、拳の衝撃を受け止めた。


「……今のは痛かったぞ」


 男の表情に一瞬、微かな苛立ちが走る。

 その隙を突く。

 私はさらに魔力を練り、全身に込める。


 今度こそ――。


「砕け」


 私は拳を男の胸元へと突き込んだ。


 ズドン!


 轟音が響き、空気が震える。

 男の体が僅かに後退する。

 が、それだけだ。


「……本気か?」


 男は微笑しながら、涼しげに短剣を構え直した。


 私の拳は確かに当たっている。だが、相手もまた強化魔法を施している以上、決定打にはならない。


「じゃあ、次はこっちの番だ」


 男が踏み込む。


 短剣の刃が、私の腕をかすめた。


「チッ……」


 私は素早く後退するが、刃の切っ先が肉を裂く感覚が残る。

 刃まで魔力強化していれば、単純に元の性能差で刃の攻撃は通る。

 傷口から鮮血が滴る。


「どうした? さっきまでの勢いは?」


 男が嘲るように笑う。


 私は無言で拳を握り直した。


 魔力を拳に集中し――今度こそ、終わらせる。


 私は跳躍し、男の頭上から拳を振り下ろした。


 だが――


「遅い」


 男の姿が一瞬、掻き消えた。


 転移魔法!?


 私の拳は空を裂く。


 次の瞬間――


 背中に熱い痛みが走った。


 ズブリ――。


「ッ……!」


 突き刺さる短剣。


 私の背中を貫いたそれが、心臓を射抜いていることを本能が理解する。


「――チェックメイトだ」


 男の囁きが耳元に響く。


 力が抜ける。


 意識が暗転していく。


 世界が、闇に沈んだ。


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