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ひとまず全8話。1、2話同時投稿後、1時間毎に投稿です。
「言うことを聞かないと、奈落の牙に食べられちゃうよ!」
広場を歩いていると、そんな母親の叱る声が耳に入ってきた。
小さな男の子が必死に母親の服を掴み、涙をぽろぽろ流しながら謝っている。
その様子を見て、周囲の人々が微笑ましそうにくすくすと笑いながら通り過ぎていった。
奈落の牙――王都に古くから伝わる都市伝説。
王都の影に潜み、人を喰らうという恐ろしい怪物の噂。
特に、子供を怖がらせるための脅し文句として使われることが多い。
――ただの迷信。誰も本気にはしていない……はずだった。
「奈落の牙、ね……」
私は小さく息をついて、足を止めた。
最近になって、この噂が妙な広がり方をしている。
今、私たち警邏騎士団が追っている連続誘拐事件と結びつけて話す人まで出始めていた。
「本当にそんな怪物がいるなら、とっくに騎士団が退治してるでしょうけど……」
独り言のように呟いて、私は苦笑した。
――私自身、人のことを言える立場じゃないのだけれど。
◆
「この路地で遊んでいた子が、突然いなくなったそうです」
後輩のリナが、不安そうな顔で報告してきた。
彼女はまだ若いけれど、真面目で熱心な頑張り屋さんだ。
警邏騎士団に入って二年目。
事件に対する熱意は人一倍あるが、まだ経験が浅い。
年齢相応の小柄な体格に、ぱっつん気味のショートヘアが特徴的な少女。
くるくると変わる表情は幼さが残り、特にこうして真剣な顔をしていると余計に可愛らしく見える。
「いつの話?」
「昨日の昼間です。何人かで遊んでいたら、ふっと消えたって……」
「目撃者は?」
「誰も何も見ていないみたいです。物音も、誰かが近づく気配すら感じなかったって……」
私は眉をひそめる。
これまでの事件と、まったく同じパターンだ。
平民の子供たちが何の痕跡も残さず消える。
目撃証言はゼロ。
そして――一度消えた者は、誰ひとり戻ってきていない。
「……これで十一人目、かしら」
だが、これは報告が上がった数に過ぎない。
貧民街の子供たちも含めれば、もっと多くの子供が消えている可能性が高い。
「セレナ先輩……これって、もしかして……」
リナが躊躇いながら言葉を続ける。
大きな瞳が揺らぎ、不安と好奇心が入り混じった表情を浮かべている。
「魔法使いの仕業ってこと、ありませんか?」
「転移魔法のことを言ってるの?」
私は路地の奥を見つめたまま言った。
「もしそんな高度な魔法を使える犯人なら、平民の子供を攫う理由がないわ」
リナは驚いた顔をする。
「え? どういうことですか?」
「転移魔法は高度な技術が必要なの。そんな魔法を扱えるほどの魔法使いなら、もっと別のことに力を使うでしょうね。たとえば――貴族を狙った身代金目的の誘拐や、もっと派手なテロ行為とか」
「確かに……平民の子供を狙っても、大したお金になりませんもんね」
リナは腕を組みながら納得したように頷いた。
真剣な顔をしていても、彼女の小柄な体と可愛らしい顔立ちのせいで、少し子供っぽく見える。
それでも、こうして真面目に考え、学ぼうとする姿勢は評価すべきだろう。
「そうでしょ? だから転移魔法説は現実的じゃないのよ」
目的が金儲けなら、だが。
――だが、こうしてひとつずつ可能性を潰していっても、核心には近づけない。
それが、この事件の厄介なところだった。
市民の証言も、いくつか不自然な部分がある。
そんな風に考えていると――
「そういえば、市民の間では“奈落の牙の仕業”だって噂が広まってますよね」
リナが言った。
「またその話?」
「意外と信じてる人、多いですよ。特にお母さんたち」
「……都市伝説よ。そんなものが本当にいるなら、もっと大騒ぎになってるわ」
「でもでも、奈落の牙が本当にいたらどうします?」
「私たちの仕事じゃなくなるわね」
「え?」
「王都の防衛を担当する第二騎士団が討伐に動くでしょうね。それだけよ」
リナは「なるほど」と頷いた。
警邏騎士団の役目は王都の治安維持。魔物の討伐が任務ではない。
でも、今はまだ私たちの管轄だ。
噂がどうであれ、この王都で何が起こっているのか――その答えを掴まなければならない。
手がかりは、ない。
それでも諦めるわけにはいかない。
「リナ、もう少し周辺を調べてみて」
「分かりました!」
リナの力強い返事を聞きながら、私は路地の奥を睨んだ。
――ここで何が起こったのか。そして、消えた子供たちはどこにいるのか――。
暗闇の中で手探りで情報を集め、整理していく中、ある貴族の名が浮かび上がってきた。
関与が疑われる、というほどのことではない。
だが、小さな繋がりが見つかった。
ようやく突破口が見えた時――捜査の中止命令が下った。