始まった日(前編)
天音美優、という人物を初めて認識したのは、高校二年生になって、初めて新しいクラスメイトと会った日だった。
「それじゃあ、一人ずつ簡単に自己紹介をしてもらう。出席番号一番の、天音から」
初老の担任教師にいわれて、黒板の前に俯きがちな様子で立った少女は、制服を校則の通りに着こなしていて、髪は肩より下くらいまで伸ばしたロングヘア、色素の薄い肌と、小さな顔が印象的だった。クラスのどこかから、「可愛い」と声が漏れる。
彼女は少し下を向いたまま、簡潔に自己紹介をした。
「天音美優です。帰宅部です。よろしく」
ぺこりと頭を下げると、耳にかかった髪がはらりと前に垂れる。そして、顔を上げるや否や、一直線に自分の席に戻ろうとした。それを担任が慌てて呼び止める。
「ちょっと待って、天音。簡単すぎるだろう。苦手なのは解るが、もう一言くらい何かないか?」
美優の動きがピタリと止まる。困ったように足元を見つめた末に、美優は「人見知りです」と呟いた。
「それは見ればわかる」と、教室のどこかから声が上がる。教室が笑いに包まれる。美優は、居心地悪そうに教室を見回した後、音もなく席に戻った。髪の間から覗く白い耳に赤みがさしていた。
「じゃあ、次」
苦笑しながら、担任は次の生徒に自己紹介するように指示した。
それから、自己紹介が続いていったが、僕の頭の中では、美優の自己紹介が、ずっと残っていた。自己紹介だけでなく、彼女の声も表情も、痛烈に印象に残っている。不思議な感覚だった。今まで感じたことのないような、言葉に表すことのできない感覚に、僕は困惑した。
「次、ええと山崎」
先生に呼ばれて我に返った。いつの間にか、クラスメイトのほとんどが自己紹介を終え、次は自分の番のようだ。僕は立ち上がって黒板の方へ向かいながら、頭の中で回る変な感覚を、緊張のせいだ、と握りつぶした。
それからは、しばらく美優のことなど気にも留めなかった。内気で教室で本ばかり読んでいる彼女と、僕が接点を持つことはなく、初めて会った日に生じた変な感覚も、すっかり忘れてしまっていた。
再びその感覚を意識したのは、五月の下旬のある日だった。
その日、中間テストが終わり、生徒たちがいつものごとく思い思いに昼休みを過ごしている中、僕は職員室へと急いでいた。中間テストまでに提出するように言われていた課題を、まだ提出していなかったのだ。
僕の通う学校は、三つの校舎があり、それぞれの校舎の間には、自動販売機とベンチがあり、そこで昼食をとっている生徒も多い。
職員室のある、一号棟に向かって走る僕の視界に、ベンチに座ってお弁当を食べる二人の女子が目に入った。一人は背の高い、ポニーテール。もう一人は、小柄な黒いロングヘア。天音美優だった。
その瞬間、僕は視界がひどく遅くなったような錯覚に陥った。ポニーテールの女子と顔を見合わせて微笑む美優の姿がコマ送りのように、脳裏に焼き付いていく。
いつも、教室で本とにらみ合ってばかりの彼女の、初めて見た笑顔は、急速にあの感覚を僕に思い起こさせた。
一号棟までそのまま走り抜けて、頬の熱さに気付いたとき、僕は初めて「好き」という感覚を理解した。それまで感じた好きとはわけが違った。それまでの好きという感覚は、優しいから好きだとか、可愛いから好きといったように、何か理由をはらんだものだった。しかし、今回は違う。理由などわからない。わからないまま、「好き」という感覚だけが心を侵食し、支配し始めたのだ。
ああ、手遅れかも。漠然とそう感じつつ、上の空のまま、僕は職員室の戸をたたいた。
その日から、何かにつけて、美優のことを気にかけるようになった。何気ないとき、いつの間にかふと目で追ってしまったり、彼女が友人と昼休みを過ごしている、ベンチの近くの自動販売機にわざわざ飲み物を買いに行ったり。しかし、そんなストーカーまがいのような行動を重ねても、話しかけることは一向にできなかった。
そんな、僕の変化はすぐにクラスメイト達の中で噂になっていった。「わかりやすい」と、笑われることもあった。ただ、幸か不幸か、美優本人が気づいている様子はなかったが。
実際のところ、わかりやすいというより余程腑抜けた顔をしていたのだろう。六月のある日、本格的に梅雨が始まった頃に、別のクラスの生徒である阪山健太郎は、教室に入って来るや否や、訝しげな眼を向けて、僕に問いかけた。
「お前、何かあったの?」
何と答えようか迷ったので、僕が黙っていると、近くにいたクラスメイトが「恋の病」とニヤニヤしながら言った。
余計なことを、と思い、クラスメイトを睨んだ後、僕は健太郎に向き合った。
「なんか用事?」
「いや特にないけど。無いと来ちゃいけないのか?」
あっけらかんとした様子で健太郎は言う。実に彼らしい。昔から、彼はそんな感じだった。
僕と健太郎は小学生時代からの同級生だった。仲良くなった経緯など、もはや記憶にはないけれど、十年近い時を共に過ごした親友だった。僕がこの高校を受験した理由の一つは、彼が受験すると公言していたからだった。
高校に進学して、彼とは同じクラスになっていなかったが、休憩時間に互いの教室へ遊びに行くことがしばしばあった。その時だって、お互い理由や用事があったから遊びに行ったわけではない。何となく、というやつだ。
「いけなくはないけど」
「で、どの子?可愛い?今教室にいるの?」
健太郎が、僕の前の席に座って、身を乗り出す。
「がっつきすぎだろ。鬱陶しい」
矢継ぎ早な質問に顔をしかめる僕とは対照的に、健太郎は楽しそうに歯を見せて笑う。
「だってさ、亮太のそういう話初めてじゃん。ちょっと嬉しくて」
「面白がるなら言わないよ」
「いいじゃん、教えてよ。というか、教えた方が身のためだぞ」
「何で」
呆れ顔を作ると、健太郎が僕の肩に手を置いて、にやりと微笑む。肩をつかむ力の強さと、いかにも悪だくみをしていそうな笑みを見て、僕は直感的に、こいつに話すのは危険だと感じた。しかし、そんな僕の思いは彼の次の言葉で、揺らぐこととなった。
「だって、お前一人だったら告白どころか、話しかけることすらままならないだろ?」
僕は押し黙った。健太郎の言っていることが図星だったからだ。
正直、自分から女の子にアプローチするなんて、どうやったらいいかわからなかった。向こうから話しかけてくれるなら楽なのだが、美優が業務連絡以外で自分から話しかけてくれるとは到底思えなかった。
「さあ、洗いざらい話したまえ。悪いようにはしないから」
「・・・・・・同じクラスの天音さん。今は教室にはいない」
観念して、僕は口を開いた。
「天音・・・・・・、聞いたことないな。下の名前は?」
下の名前を伝えると、健太郎はしばらく考え込んでから、ポンと手を打った。
「もしかして、チビで髪が長い子?」
健太郎が思い浮かべた女の子は、確かに美優の特徴と合っているが、小柄で髪の長い女子なんて、校内に何人もいるだろう。彼の言う女の子が、美優とは限らない。
「確かにそんな見た目だけど、それ本当に天音さん?」
「その子、うちのクラスの柳原と仲が良くてさ、ミユって呼ばれてた」
そういえば、天音の友達に一人だけ心当たりがあった。いつも、昼休みを一緒に過ごしている女子だ。彼女は僕と同じクラスではない。
「その・・・・・・ヤナギハラさんって背が高くて、ポニーテールだったりする?」
「そうだよ」
どうやら、互いに思い浮かべていたのは同じ人物だったようだ。納得したところで、教室の戸ががらりと開いた。手にライトブルーの小さなランチバッグを下げた、美優が教室に入ってくる。
「あの子だろ」
大声で言いながら、健太郎が美優を指さした。「声が大きい」と、言って僕は慌てて健太郎の口を塞いだ。
美優は足を止め、こちらをちらりと見て、不思議そうな表情を浮かべた。唐突に目が合ってどうしていいかわからず、僕がぎこちない愛想笑いを浮かべると、向こうも愛想笑いを返してくれた。しかし、すぐに表情を戻すと、踵を返して、自分の席に戻っていってしまった。
ため息をついて、健太郎の口から手を離すと、彼もまた、大きくため息をついた。
「こりゃ、大変そうだな」
のんきな口調で言った健太郎を、僕は睨みつけた。
「大変どころか、下手したらお前のせいで終わってたよ」
「いや、今の話しかけるチャンスだっただろ」
そういわれても、僕にはそんな風には思えなかった。経験の差だろうか、僕と健太郎の恋愛観は大きく違うようだ。やはり僕には、彼に頼るのは得策とは思えなくなってきていた。
「そうかもしれないけど・・・・・・。とにかく、力貸してほしいときは言うから、それまでは、勝手なことしないでくれよ」
「わかったよ。じゃあ頑張ってな」
僕の肩をポンと叩いて、健太郎は去っていった。
彼が教室を出ていくのを確認してから、僕は大きくため息をついて、机に突っ伏した。そうはいっても、一人でどうにかできる自信は皆無だった。でも、何もせず諦めるという選択肢はとうに消え失せていた。
顔を上げて、美優の方に視線を向けると、彼女の目線はずっと手元の文庫本に注がれていて、こちらを気に留める様子は微塵もなかった。
健太郎に話して一週間もたたないうちに、僕は音を上げていた。
「どうやって、話しかけたらいいんだ」
昼休みに、情けない声を上げ、机に突っ伏した僕を、二つの人影が冷ややかな目線で見降ろしていた。
一人は、「最初から俺に頼っとけばよかったものを」と、呟く健太郎だ。彼を呼び出したのは、僕だった。しかし、もう一人は僕が呼んだわけではない。切れ長の目が、透明なレンズの奥から覗いている。
「山崎が恋愛なんて珍しい」
彼女の名は、片岡千尋。健太郎と同じく、小学生時代からの同級生だった。いわゆる腐れ縁というやつで、僕とは特別仲が良いわけではない。口うるさい幼馴染といったかんじだった。
「珍しいよな。だから、俺らでサポートとしてやろうぜ」
「嫌、阪山が関わると間違いなく面倒臭いことになるし」
「俺ってそんなに信用無いのか」
僕にも、一度は協力を断られたことを、彼は内心では気にしていたようだった。がっくりと肩を落としてうなだれた健太郎を、何だかかわいそうに思った。しかし、そんな彼の様子は、千尋の眼中にないようで、彼女は健太郎を無視して、話を進めた。
「それで、天音さんだったよね、山崎が好きなのって」
「そうだけど、接点はあるの?」
「うん、一年生の時同じクラスだったから、仲が良かったわけじゃないけど、少しくらい話したことはあるよ」
どうやら、天音のことに関しては、健太郎よりも千尋の方が頼りになりそうだ。
「じゃあ、どうやって話しかけたらいいと思う?」
「うーん、天音さん静かだし、男子と話しているイメージもないからなあ」
眼鏡を指で押し上げて、千尋は考え込む。何かを考えるとき、眼鏡を触るのが彼女の癖だった。
「あ、いつも読書しているから、それを話題にしてみたら?『どんな本が好きなの』って話しかけてみるとか」
せっかくの千尋の提案だったが、僕にはあまりいい案には思えなかった。なぜなら、僕は教科書以外の活字に触れることが全くないからだ。毎日のように教室に小説を持ち込み、熱心に読んでいる美優とは対照的に、僕は流行っている少年漫画さえ読むことはない。そんな自分が、本を話題に、彼女と話すことなど、絶望的に思えた。
「うまくいくかな」
「さあね、不満ならあとは自分で考えて」
これ以上の意見を出すつもりはないらしく、千尋は教室を出て行ってしまった。
残された二人は、顔を突き合わせ、声をそろえていった。
「どうすんだよ、これ」
重なり合った声は、二人以外の誰の耳にも届くことなく、昼休みの喧騒に飲み込まれていった。
梅雨も深まり始め、いい加減雨空にも飽きてきた。晴れていたら、少しは話しかけやすいのに、と心の中でつぶやきながら、僕は小説を読んでいる天音のことを見ていた。
千尋にアドバイスをもらってから一週間が過ぎ、健太郎には最低でも今週中には話しかけるように、と宿題を課せられていた。彼によると、楽しい夏を過ごしたいならそろそろ動くべきだ、ということらしい。
ほとんどの生徒は部活に行ったり、帰宅したりしてしまったようだが、何人かは、教室に残っている。友人との会話に花を咲かせる者もいれば、ノートに向き合う者も、一心不乱に手元の文庫本に意識を注いでいる者もいる。
最近気づいたことだが、美優は水曜日の放課後だけ、教室に残っている。健太郎は「彼氏でも待ってるんじゃないの」と、冗談交じりに言っていたが、教室に男どころか、仲が良い柳原すら、迎えに来る様子はなかった。彼女は教室で誰かを待っているというわけではないらしい。
そして、この時間は人も少ないため、一番話しかけやすい時間だった。カモフラージュに開いていた教科書を閉じ、大きな音をたてないように席から立ち上がる。意を決して、一歩ずつ、彼女の方へと向かう。近づくごとに、心臓は激しく鼓動し、雨音が聞こえないくらいにうるさく鳴り響く。
前に立つのはなんだか気恥ずかしいので、後ろから話しかけることにした。
「天音さん」と、呼びかけると、彼女は少しびっくりしたように肩を上下させて、ゆっくりと振り向いた。
「何?」
小さな、少し上ずった声が彼女の口から発せられる。
「えっと、その小説、今度映画になるやつだよね。面白い?」
自分でも不自然に思えた。やっぱり、無理があるような、と思ったが、本以外のきっかけが思いつかなかった。もう、この際不自然でも、話しかけることができたら何でもよかった。
「え、映画化するの?」
美優がきょとんした顔で、首をかしげる。
「うん、いや、だって帯にもそう書いてあるし」
彼女の手元の文庫本を指さす。文庫本には帯が付けられたままで、帯には『待望の映画化決定!』という赤文字と共に主演を務めるのであろう、若手俳優の顔写真が印刷されていた。
「あ、気づかなかった」
帯を見て、天音は少し微笑んだ。しかし、すぐに表情を戻すと、「まだ半分くらいしか読んでいないけど、面白いよ」と、言うと席から立って、ぺこりと会釈すると、小走りに教室を出て行ってしまった。
しばらくその場に立ちすくんでいた僕だったが、失敗した、と自覚して肩を落とすと、先ほどまで机に向かって勉強していたクラスメイトが薄ら笑いを浮かべて、「ドンマイ」と、慰めてくれた。