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晴れ渡る日(後編)

 壁にかけられた時計は三時を示していた。

 エナジードリンクを飲んだわけでもないのに、意識がはっきりとしたまま、橙子は眠れないでいた。

 美優は入浴を済ませた後は、ずっと部屋に篭っていて、夕食の時も出てこなかった。母が、美優の部屋に食事を運んだが、戻ってきた食器の上には夕食の大半が残されたままだった。

 寝る前に、美優の部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。

 生きて帰ってきてくれればいい、と思っていたが、それは大きな間違いだった、と橙子は思った。もう、元通りの美優には会えないのではないか、一昨日までの美優は、もう死んでしまったのではないか。

 そんな暗い予測が頭の中を回り続け、いつまでも眠ることが出来ず、何度目かの寝返りをうった。

 カチャリ、とドアノブの音がした。ドアが少し開いて、その隙間から小柄な人影が体を滑り込ませてくる。

「美優?眠れないの?」

 美優は、何も言わずにドアを閉めると、橙子のベッドに入り込んでくる。

 美優は甘えるように橙子に抱きついてきた。その体は、小刻みに震えていた。

 大丈夫、そう言い聞かせながら、橙子は美優の頭を撫でた。

「お姉ちゃん、私・・・・・・わ、たし」

 そこまで言って、美優は言葉を止めた。橙子の胸に顔を埋める。

「初めては、好きな、人と・・・・・・亮太くんとが・・・・・・よかったのに・・・・・・。私・・・・・・」

 ケガサレチャッタ、と美優の口から発せられる。その言葉は橙子の視界を暗闇で包み、ナイフのように、橙子の心臓を抉る。

「知らない人に、ナイフで脅されて、連れていかれて、酷いことされて・・・・・・」

 全て吐き出して、何かが決壊したかのように、美優はわあわあと、声を上げて子供のように泣き出した。

「怖かった・・・・・・、怖かったよお」

 嗚咽を漏らし、泣きじゃくる美優を、橙子は潰れそうなくらい抱きしめた。

 抱きしめた妹の身体は、驚く程に華奢で、こんな細身で、恐怖に耐えていたかと思うと、橙子の全身に鳥肌が立ち、身体中を気分の悪い何かが駆け回る。

「ごめん、美優。怖かったよね。守ってやれなくてごめんね」

 美優が、橙子の胸に顔を押し付けたまま、嗚咽を漏らした。

 その夜、美優が泣き止んで寝付くまで、橙子はずっと彼女の事を抱きしめていた。

 少しでも、美優を安心させてやりたかった。不安で仕方ないであろう、美優を守ってやりたかった。

 朝になって、橙子が目を覚ますと、横に美優はいなかった。リビングに行っても、彼女の姿を見ることは出来なかった。

 それから、一ヵ月近く、橙子が美優の姿を見ることは、ほとんどなかった。母によると、食事、入浴、排泄以外の殆どの時間を眠って過ごしているらしかった。

「あの子、おかしくなってる。病院連れていった方がいいのかしら」と言って、母は心配していたが、橙子は状況をもう少し見ようと家族に提案した。

 母は、仕事を辞め、ほとんどの時間を家で過ごすようになった。辛抱強く美優に話しかけたりしていたようだが、あまり効果はないようだった。

 橙子も一日一回は、美優の部屋をノックするようにしたが、返事が返ってくることはなかった。

 スマートフォンでメッセージを送って、会話することを試みたが、返信が返ってくることはなかった。

 事態が好転したのは、事件から一ヶ月以上たった日だった。橙子が帰宅すると、リビングのソファに美優が座っていた。

 美優は橙子の顔を見ると、申し訳なさそうな顔で言った。

「いっぱい無視しちゃってごめんなさい」

 美優が頭を下げる。

「そんな事いいよ」

 橙子は美優の頭を上げさせて、美優を抱きしめた。

「苦しい、やめて」

 その嫌そうな言い方に橙子はさらに、きつく彼女を抱きしめる。

「いつもの美優だ」

 危険を感じたのか、美優が身をよじって逃れようとする。

「橙子、美優が本当に苦しそうだからやめなさい」

 母が冷ややかな目線を向けて言った。このまま続けていると母に叱られそうだ。

 仕方が無いので、美優を解放すると、彼女はサッと橙子から距離を取った。そして、何を思ったのか、また頭を下げる。

「心配かけてごめんなさい。明日から、また頑張るから」

「そっか。なら良かった」

 手を伸ばして、美優の頭をガシガシと撫でた。

「橙子、美優で遊ぶ暇があるなら夕飯手伝ってちょうだい」

「はーい」

 名残惜しいが、美優の頭から手を離す。

 美優は、髪を直しながら、自分の部屋へと戻って行った。

 エプロンをつけながら、キッチンに入って母に問いかける。

「急にどうしたの?あの子」

「山崎くんが来てくれたの。そしたら、元気になったみたい」

 山崎亮太。美優が付き合っている同級生の男の子だ。彼に会った途端に、元気になるとは、やはり愛の力は凄い。そう思う反面、一ヶ月以上あったのに、彼女の傷を癒せなかった自分の無力さに心底嫌気がさした。

 橙子の一ヶ月は、彼の一日に及ばないほど美優にとってちっぽけなものだったのだろうか。

 山崎くんにも美優にも、当たっても仕方が無いことなのに、自らの事を棚に上げて考えてしまいそうな自分に失望したくなる。

「橙子」

 母が、キッチンの入り口で突っ立っている橙子を呼ぶ。

「ハンバーグ作るの。たねは作ったから、四等分して形整えて」

「うん」

「どうしたの、暗い顔して」

 気の抜けた返事をした橙子の顔を母が覗き込む。

「美優に、何もしてやれなかった」

 母が、息を飲んだ。

「ごめんね、お姉ちゃん。いつも、美優の面倒見てくれるから、母さん、それが当たり前になってたね」

 母が私の頭にポンと手を置く。温もりが、じわりと伝わってくる。

「いつも、ありがとう。橙子。絶対、あなたの思いは美優に伝わっているわ。だから顔を上げて、胸を張りなさい」

「うん、ありがとう」

 調理台の上に置いてあった、ビニール手袋をはめて、ハンバーグのたねが入ったボウルに、手を突っ込む。

 こぼれ落ちそうになった涙を、ぐっと堪えて、母に向かって言う。

「美優の、大きいのにしないとね。あの子の大好物だもの」

「そうね」

 母はにこりと笑った。


***


 お姉ちゃん、と呼びかける声で我に返った。目の前に、ウエディングドレスドレスを身にまとった美優がたっていた。

「どう、綺麗?」

 美優が微笑みながら控えめな胸を張る。

 綺麗だった。世界一、なんて言葉を使ったらかえって安っぽく思われるかもしれないけれど、その言葉を自信を持って使っても許されるくらい、目の前の妹は綺麗だった。

 でも、素直に口にするのは何だか悔しくて、つい、軽口を混ぜてしまう。

「九十点かな。もう少し成長してれば完璧だったのに」

「うるさいな、お姉ちゃんだってそんなに大きくないでしょう」

 美優が顔を真っ赤にして反論する。不毛なやり取りに、式場のスタッフ達が思わず頬を緩ませる。

「美優よりはましだから。どれだけ詰めたの、それ」

 彼女の胸元を指さしていった所で、背後から手刀で頭を叩かれた。

「二人とも人前でそんな話しないの。はしたない」

 振り返ると、呆れ顔の母が立っていた。後ろには父もいる。

「美優、すごく綺麗よ」

「ああ、本当に綺麗だ」

 父と母は口々に感想を述べた。美優がそれを聞いて、微笑む。

「橙子、私達は先にチャペルに行きましょう」

「うん」

「ちょっと待って」

 立ち上がりかけた私を美優の声が止めた。三人の視線が、美優に集まる。

「お母さん、お父さん、お姉ちゃん。今まで本当にありがとう。お世話になりました」

 そう言って、美優はぎこちない動きでドレスの裾を上げ、カーテシーをした。

 そして、顔を上げた美優は目を見開いた。

「お姉ちゃん、泣くには早いよ」

「へ?」

 自分でも気づかないうちに、涙が零れ落ちていた。

「嬉し涙?」

 美優が小首を傾げる。

 違う。嬉しいんじゃない。不安なのだ。この子が、橙子の目の前から離れて言ってしまうのが。そばにいても、彼女を守れなかったのに、橙子の手の届かない場所で、もし彼女がまた、他人の悪意に傷つけられたらと思うと、どうしようもなく、怖くて不安になる。

 わかっている。頭の中ではわかっているのだ。もう、美優が橙子の助けを必要としていないことは。

 彼女には、もう、守ってくれる人がいる。橙子がどうやっても癒せなかったあの日の美優の傷を、癒してくれた彼が。それに彼は、私に約束してくれた。美優のことを幸せにすると。

 大丈夫、もう彼女は大丈夫だ。そう、心の中で言い聞かせても、涙はとめどなく溢れてくる。

「もう、やめてよお姉ちゃん。私、腫れた目で、結婚式出たくないんだから。そんなに泣かれると、こっちまで涙が出ちゃうよ」

「ごめん・・・・・・ごめんね美優、最後までダメな姉で」

「そんなことないよ」

「そんなことある。あんたのためって思って、いっつも空回りして。本当にダメダメな姉だった」

 手の甲で目元をゴシゴシ擦ると、化粧が落ちて、手が真っ黒になる。

「もう、仕方ないな」

 美優の手が、ふわりと私の頭を撫でた。変な感じがした。いつも、撫でるのは橙子の方なのに。今日は橙子が美優に頭を撫でられている。

「ありがとうね、お姉ちゃん。大丈夫、ちゃんと幸せになるから」

 止まりかけていた涙は、また溢れ出していた。全部、見透かされていた。まあ、当たり前かもしれない。だって、二十年以上姉妹をやってきたのだから。

 美優の手が止まり、ポンと私の頭を叩く。

「もう、行かなきゃ」

「うん」

「始まるまで、あと十分ある。お姉ちゃん、ちゃんと化粧直してね。そのまま式に出たら私、しばらく口聞かないから」

 子供っぽく、美優が頬を膨らませる。そして、ニコリと歯を見せて笑う。

 父に連れられて、その背中は遠ざかっていく。多分、他にかける言葉はあった。でも、それが一番しっくりきて、なんだか場違いな言葉を、美優の背中に投げかけた。

 いつまでも、貴方の姉でいさせて欲しいという傲慢な願いと、いつでも帰ってきていいんだよという家族としての思いやりを、密かに言葉に織り込んで。

「いってらっしゃい、美優」

 振り返って、美優はクスリと笑った。

「いってきます」

 胸を張って彼女はそう言った。

 美優が言ってしまったあと、「早く化粧を直しなさい」と言い残して、母も一足先にチャペルへ向かってしまった。

 部屋にひとり残された橙子は、窓の外を見る。真っ青な空に、桜色の花びらが舞っている。そういえば、この式場には桜の木があるらしい。「多分、今日なら満開だ」と根拠もなく笑った妹の勘は、当たったのかもしれない。

 橙子は、窓の近くまで行き、たちどまる。

 願わくば、彼女の未来が明るいものでありますように。彼女が、大好きな彼と、いつまでも笑っていられますように。

 晴れ渡る青空に一人、手を合わせて願う。

 そして、誰に言うでもなく、呟いた。

「なんて、素晴らしい日なんだろう」

 澄み切った青空の下で、橙子は一人、笑った。

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