晴れ渡る日(前編)
あっという間にこの日が来てしまったな、と純白のドレスを着せてもらっている妹を見ながら橙子は思った。思ってから、本当に親のようだと、心の中で笑う。自分が勝手に思っているだけで、美優の中では、ただのお節介な姉にすぎないというのに。
化粧をして、純白の衣装に身を包んだ、妹の姿はまるで人形のようだった。ぼんやりと、支度をしている美優の姿を眺める。元々、美優は色白だが、化粧のせいでいつもより彼女の顔は白く、美しくなっている。
彼女の白い肌のせいだろうか、不意に思い出して、頭がキリキリと痛くなる。あの日、青白い死相を顔面に貼り付けて、ボロボロになって帰ってきた美優の姿を。自分の頬を軽く叩くが、忘れ去ろうと頭の奥底にしまい込んだはずの記憶の蓋はすでに開いてしまい、ドロドロと真っ黒な得体の知れない何かが流れ込んでくる。
どうして、こんな日に、思い出す。
***
「あの子だって遊びたい時くらいあるでしょう。年頃なんだし」と、言って笑ったのは夜十時のことだった。
それから、三時間はたち、日付も変わってしまった。楽観的に笑っていられる時間はとうに過ぎ、恐怖と不安が橙子の中でグルグルと回り始める。
「・・・・・・してもらえると助かるわ。お願いします」
電話をかけていた母が受話器を置いて、大きなため息をついた。
「彼氏くんも知らないって?」
「ええ。本当にどこ行ったのかしら。あの子」
「朝になっても帰ってこなかったら、警察に行こう」
「そうね」
母は、こめかみを抑えながら、頼りない足取りで、ソファに座った。そして、顔を覆って静かに泣き始めた。
橙子は隣に座って母の背中をそっとさする。
「母さん、大丈夫だよ。あの子抜けてるから、電車乗り間違えたとか、電車で寝ちゃったとか。そうだ、どっかで寝てるんだよ。きっと」
「じゃあ、なんで電話に出ないの。なんで携帯の電源切ってるの。終電なんてとっくにないのよ」
母が橙子の肩を掴んで、泣きながら声を荒らげる。しかし、すぐに我に返って、橙子から手を離して、「ごめんなさい」と呟いた。
「ごめん、母さん。今のは、私が悪い」
不安と無力感で涙が出てくる。
緊急事態が起きているということは、頭ではしっかり理解していた。真面目な美優がこんな遅くまで遊び歩くとは到底思えない。いくらだらしない美優でも、外で眠ることなんて、あるはずがない。でも、それを信じたくなくて、楽観的なことを口に出して自分を誤魔化さずにはいられなかった。
今、美優がどこかで怖い目にあっているかと思うと、恐怖で胸が張り裂けそうだったのだ。
横で震えている母も同じだろう。橙子は彼女の肩に手を置き、話しかける。
「母さん、今日はもう休んだら?私は朝まで起きてる。何かあったら起こすから」
「でも」
「休んでおかないと。あと何日、こんな日が続くか分からないんだよ」
母が、大きく目を見開く。母には申し訳ないが、そろそろ最悪の可能性を考えて動くべきだと、橙子は判断した。
「そうよね」
取り乱すかと思ったが、意外にも母はあっさりと受け入れた。
「ありがとう、橙子。じゃあ母さん休んでるね」
「うん」
母は、寝室に向かうため、二階に上がって行った。
一人になった橙子は、携帯電話を握りしめた。
「どこにいるの、美優。怖くて死にそうだよ」
震える声で、一人呟いた。
朝になって、外を探していた父が帰ってきた。夜通し車で外を走り回っていたようだが、収穫はなかったようだった。
母も起きてきたが、あまり眠れなかったようだ。
父も母も死人のような、酷い顔をしている。恐らく、橙子自身もそうなのだろう。
「父さん、寝室で休んだら?どうせ仕事はいかないでしょ」
「お前も、寝てないだろう。橙子が休みなさい」
「私はさっきエナジードリンク飲んじゃったから、眠れない」
テーブルの上に置いた、空き缶を指さす。
「また、あんな体に悪いもの飲んで」
大学のレポートなどで徹夜をする時、橙子はエナジードリンクを愛飲していた。朝になって、母はいつもそのことを咎めるのだった。
「今はなりふり構ってる場合じゃないよ。私はその辺見て回って、ついでにコンビニで何か食べ物を買ってくる。何か欲しいものある?」
父も母も首を振った。
そう、と返事をして、部屋着のまま家を出る。
コンビニに向かう途中、歩いていると、制服姿の学生と何度もすれ違った。セーラー服を着た小柄な女の子を見る度、美優ではないかと、顔を凝視してしまう。
もう、この際、美優が帰ってきてくれればなんでも良かった。
ただ、生きて帰ってきてくれれば、それで。
コンビニでおにぎりを適当に買って帰ったが、誰も手をつけようとはしなかった。
橙子が出て行っている間に、父が警察に電話したらしかった。橙子が帰ってしばらくして、制服を着た男の警官が、家に尋ねてきた。母は、とても対応できそうになかったので、橙子が対応した。父は、橙子が帰ってきてすぐに、車で探しに出ていってしまっていた。
警官に事情を説明し、美優の写真を手渡すと、「他の交番で保護されていないか確認してみます」と言って、警官は帰っていった。
警官が帰ってから、しばらく母と二人、一言も交わさずに過ごした。二人とも、無言でスマートフォンを握りしめて、何か状況が変わるのをただ、じっと待っていた。
状況を変えたのは、固定電話の音だった。母がビクリと肩を震わせ、縋るように電話に駆け寄る。
「もしもし、天音です。や、山崎くん。──え?いた?本当に?どこ?──わかった。すぐに向かうわ」
橙子は、母に駆け寄った。
「見つかったって、美優」
母の目から大粒の涙が零れた。
「良かった・・・・・・よがっだあ」
橙子は泣きながら、母に抱きついた。
落ち着いてから、父に連絡をして、家に戻ってきてもらった。
母は、父の運転する車で、美優を迎えに行った。橙子は自分も一緒に行くと言いはったのだが、「橙子は家にいなさい。昨日から寝てないんだから。ぶっ倒れたらどうするんだ」と、父に言われたため、渋々家に、一人残った。
部屋のベッドに身体を横たえて、目を瞑ってみるが、眠れる気はしなかった。
玄関のドアが開く音で覚醒した。少し、微睡んでいたようだった。
ドアの音は、おそらく美優が戻ってきたのだろう。ベッドから飛び起きて、橙子は部屋を飛び出した。階段をドタドタと音を立てながら駆け下りる。
帰ってきた妹を抱きしめようと思った。
思っていたのに。
「みっ・・・・・・」
階段を降りたところで、橙子の動きも、声も止まっていた。
あの子、誰だ。
母に連れられて入ってきた少女の顔を見て、思った。それが美優だと頭で理解するまでひどく長い時間がかかった。
妹は、酷い顔をしていた。目の下にできた真っ黒な隈、青白い顔、羽織った男子の学ランの下では、ボロボロのセーラー服から肌が露出している。
ヒュッとどこかから音がする。それが、橙子自身の息の音だと気づく。呼吸ができない、そんな感覚に陥るほど、重苦しい空気が家の中を支配していた。
美優は凍りついている橙子に気づいて、チラリと目を向けた。しかし、すぐに俯いて、「心配かけてごめんなさい」と、消え入りそうな声で言った。そのまま、橙子の目の前を通り過ぎ、風呂場の方へ向かっていく。
「美優、待って。お風呂沸かすから」
母が呼びかける。
「いらない。シャワーでいい」
そういって、美優は風呂場へと消えていってしまった。
その背中が見えなくなると、母は頼りない足取りでリビングへと入っていった。私も、母の背中を追いかけてリビングに入る。
「何よ・・・・・・あれ。一体何があったの」
「わからないって美優も最初は言ってた。でも、スマートフォン見てたら急に震え始めて、それで・・・・・・」
「それで、何?」
「お風呂・・・・・・、お風呂入りたいって、体流さないとって・・・・・・だから」
母は項垂れて、それ以上何も言わなかった。それだけで、橙子にも何があったのか想像はついた。
「警察行った方がいいのかな」
私はポツリと呟いた。
「いってどうするのよ。泣き寝入りするのがオチでしょう。それなら、もうなかったことにした方が」
「でも、あんなに傷ついているのに」
「だからでしょ」
母が声を荒らげた。
「あんなに傷ついてるからこそ、そっとしておくべきでしょう。どうせ、犯人が見つかったところで、そいつが死刑になる訳じゃないのよ。ならいいじゃない。どうでも」
「でも」
「でもじゃない。警察行って、事情聞かれて、裁判になって。その度に何回も何回も思い出させられるのよ。そんなの辛いだけでしょう」
母の悲痛な声がリビングに響いた。その声に気圧されて、橙子は何も言えなかった。
「ちょっと落ち着け」
いつの間にか、リビングに入って来ていた父が、ポンと母の肩に手を置いた。
「美優に任せよう。あの子がもう忘れたいと言ったら、俺達も忘れる。あの子が闘うと言ったら、俺達も全力で闘う。そうするべきじゃないか?」
「そうよね、私達が決める問題じゃないわね」
「橙子も、それでいいかい」
「わかった」
何一つ納得はいかないけれど、橙子は頷いて、父の意見に賛同した。
母が言った、死刑になるわけじゃない、という言葉が、胸の中に小さな塊になってつっかえていた。
彼女を非難できない。橙子だって同じだから。もし、目の前にそいつが現れたら。その時、手にナイフを持っていたら。迷わず刺し殺してしまうだろう。
それが美優のためになるかどうかは、わからない。でも、妹を傷つけられたことが許せない。
自分の中で驚くほどのスピードで膨らみ始める黒いモヤに、橙子は恐怖心を覚えた。そんなことをしたって、優しい美優が、喜ぶはずもないというのに。
狂い始めた自分を抑制するため、橙子は自分の頬を思いっきり叩いた。
父と母が、驚いたような顔で、こちらを見つめた。
おかしくなったと思われただろうか。しかし、そうでもしなければ、自分の中で膨らみ続け、橙子を支配しようとする悪意に、負けてしまいそうだった。
両親が見つめる中、黙ってリビングを出て、自分の部屋に戻った。
もう、何も考えたくない。これが悪い夢で、目が覚めたら、いつもの様に寝ぼけた美優の頬を突っついて、母に咎められて、新聞を読む父が堪えきれずに笑って──。そんな日常が何事も無かったかのように訪れることを信じて、橙子はぎゅっと目をつむった。