イブイブの日
「お邪魔します。あ、お義母さんこれよかったら」
僕は駅前で買った焼き菓子の詰め合わせをお義母さんに手渡した。
「悪いわね、気を使わなくてもよかったのに。でも、ありがとう。食後に食べましょう」
「ええ」
「美優なら自分の部屋にいると思うわ。夕飯まではまだ時間があるし、適当にくつろいでいて」
「はい、お父さんはどちらに?」
「リビングにいるわよ」
「わかりました」
僕はお義母さんに連れられてリビングに足を踏み入れた。
リビングに入ると、食卓の椅子に腰かけてお義父さんが新聞を読んでいた。テーブルの上では紅茶が湯気を立てている。お義父さんは、僕の方にちらりと目を向けると眼鏡を外し、新聞を食卓に置いた。
「やあ、いらっしゃい。亮太くん」
人のよさそうな笑顔でお義父さんは笑った。彼に会うのは、結婚の挨拶の時以来だった。
「ご無沙汰してます、今日はお世話になります」
「いいんだよ、そんな形式ばらなくても。座ったらどうだ」
お義父さんが自分の正面の椅子を指さす。
進められるがままにお義父さんの向かいに腰かけた。お義母さんが麦茶を運んできてくれたので。礼を言って、一口頂く。
「どうかな、娘は迷惑かけていないかな」
「迷惑だなんてそんな。家のこともほとんどやってもらえて、助かってます」
美優と婚約してすぐに、僕達は同棲を始めた。最初は僕のアパートで、しばらくしてからは二人で住むには少し狭い、賃貸マンションの一室で暮らし始めた。
同棲を始めて以来、家事のほとんどを美優がこなすようになった。僕も、休みの日には手伝うが、それでも大半は彼女に任せてしまっていた。
「良かった、料理とか教えた甲斐があったわ」
お義母さんが嬉しそうに言う。
「下手だったもんなあ」
お義父さんが懐かしむようにしみじみといった。しかし、僕には美優が料理で失敗した記憶がない。毎日、美味しい料理を振舞ってくれる。
「下手だったんですか?」
「今は普通くらいにはなってるけどね、最初はひどかったものよ。多分、亮太さんに格好つけたかったんでしょ。必死に私に教えてくれって泣きついてきたのよ」
「きつかったなあ。毎日美優の失敗作を食べさせられたの」
お義父さんが顔をしかめる。
「余計なこと言わないで」
声の方向を見ると、美優がリビングの入口に立っていた。後ろには姉の橙子さんが立っている。
本当のことでしょ、と笑いながらお義母さんがキッチンへと消えていった。
「夕飯手伝うよ」
そういって美優もキッチンへと入っていく。
「いらっしゃい、亮太」
橙子さんがお義父さんの隣の椅子に腰かけながら言った。
「明後日の準備終わった?」
明後日は、僕と美優の結婚式が行われる。とはいっても、身内だけで挙式のみを行うという、簡素なものだが。
その代わり、式場は美優が望む場所を予約した。なんでも、式場内に桜の木があるらしい。パンフレットを手に、「とってもロマンチック」と笑う彼女は今までになく女の子らしかった。
「はい、といっても僕は準備することは特にないんですけどね」
「旅行の準備も終わったの?」
「はい、滞りなく」
挙式のあとは、そのまま新婚旅行に出かける予定になっている。行き先は北海道だ。函館、小樽、登別、札幌とレンタカーで巡る予定だった。
「そう、ならよかった」
「そういえば、函館のホテル用意してくださったんですね。ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
「夜景がきれいらしいから、楽しんできな」
「はい」
「それにしても、もう明後日なんだね。楽しみだな美優のウエディングドレス姿」
楽しそうな様子で橙子さんが言う。
「なんだか、親みたいですね」
「まあ、橙子は昔から美優を溺愛してたからなあ。おかげで、美優の世話はほとんどやってくれて助かったんだよ」
「つまり、私の娘みたいなものよ」
どこか得意げな様子で橙子さんが胸を張る。
「私はお姉ちゃんの子供になった覚えはありません」
キッチンからお皿を運びながら美優は言った。
「つれないなあ」
楽しそうに橙子さんは言って、美優の頭を撫でまわした。
美優はお皿を食卓に置くと、心底嫌そうな顔で、その手を振り払った。
***
「お風呂あがりました。お先でした」
「はーい。あ、亮太さん、布団は美優の部屋に引こうと思うけどそれでいい?」
「はい、大丈夫です。僕やりますよ」
「悪いわね、二回まで運んでもらえる?」
「分かりました」
階段の下に、布団が積まれていた。それを持って、二階に上がる。一番奥の部屋に入り、ベッドの横に布団を敷いた。
「ありがとう。助かったわ」
「いえいえ」
「一仕事終えたし、お茶にしましょうか」
「いいですね」
「美優と橙子も呼びましょうか」
美優の部屋を出て、お義母さんは隣の部屋の戸をノックした。中からどうぞと声がした。
「亮太さんが持ってきてくれたお菓子があるから、お茶に・・・・・・」
「しー」
橙子さんは、口元に人差し指を当てて、お義母さんの言葉を遮った。
「娘が寝てるから」
ベッドの上で美優がスヤスヤと寝息を立てている。
「まったくこの子は」
お義母さんが頭痛を堪えるように、こめかみを抑えた。
同棲を始めてわかったことだが、彼女は結構だらしない。というより、睡眠時間が人より長い。朝はなかなか起きてこないし、夜はいつの間にかソファの上や、ひどい時はフローリングの上で居眠りしていることがある。
橙子さんが起こそうとして、美優の頬をつついたが、起きる気配はない。
「いいんじゃないですか?気持ちよさそうに寝てるし」
「あんまり甘やかすとろくなことがないよ」
じろりと橙子さんが鋭い目を向ける。
「承知してます」
「まあいいや。ところで、お茶よりお酒飲もうよ、いい肴があるの」
***
「結婚式イブイブ、ということで乾杯」
カチリとグラスが音を立てる。中身は国産の白ワインらしい。口に含むと、ブドウの香りと酸味が広がった。
「普段ワインはあまり飲まないんですけど、美味しいですね」
「美味しいでしょ。私のお気に入りなの」
「よく家で飲まれるんですか?」
「たまに、一人でね。親は最近は全く飲まないし、美優もなかなか付き合ってくれないから」
「そうですか」
橙子さんは早くもグラスを空にして二杯目を注いでいる。結構、お酒に強いようだ。
そういえば、彼女はいい肴があると言っていたが、テーブルの上には、ワインとグラスしか置かれていない。
「ところで、いい肴って何ですか」
「これだよ」
橙子さんは、横に置いていたピンクの本を指さした。どうやら、アルバムのようだ。
「美優の小さい頃の写真、見たいでしょ」
「ぜひ見たいです」
アルバムを開くと、小学生くらいの美優が恥ずかしそうな顔で、カメラにピースサインを向けていた。同じような写真がたくさんある。
しかし、不思議なことに、美優と両親の写真はあっても、姉妹の写真はほとんどない。
「橙子さん、あまり写ってないですね」
「そりゃあ、この写真ほとんど私が撮ったからね」
「橙子さんが・・・・・・」
確かに、それなら彼女の写真が極端に少ないのは納得できる。
「写真がお好きなんですか」
橙子さんは黙って首を横に振った。
「親は娘の写真を撮るものでしょ」
「またそれですか」
僕は苦笑する。しかし、橙子さんは笑ってはいなかった。
「うちの親は二人とも働き者でね。母さんも美優の事件以来、仕事をやめちゃったけど、それまでは働いてたのよ」
「そうなんですか」
あまり、そういう話を美優から聞いたことはなかった。それに、お義母さんは専業主婦なのだと思い込んでいた。
「もちろん、美優が小さい頃は家庭優先だったけどね。あの子が大きくなるにつれて、母さんも父さんも出世して忙しくなっていって、私と美優と二人で過ごす時間が増えていったの」
「それで、橙子さんが写真を?」
「亮太も末っ子だから何となくわかると思うけど、一人目は写真撮りまくるのに、二人目になると、段々減っていっちゃうのよ」
「たしかにそうですね」
天音家と山崎家だけに限らず、多くの家庭において、同様の現象は起こっているだろう。
「私は、親が自分の写真撮って、アルバムに残してくれるのうれしかったから、それを美優がやってもらえないのはかわいそうだと思ったの。だから、親にせがんでデジカメ買ってもらって、毎日のように撮ってた」
橙子さんが写真の中の美優を撫でる。
「写真だけじゃなくて、親が忙しいときは私が親の代わりになれるように努めた。おかげで、家のこともほとんどできるようになったわ。その代わり、ほとんどやらせなかったせいで美優の料理の腕は壊滅的になっちゃったけどね」
「どうして、そこまで」
「不思議?」
「不思議とまでは言いませんけど、普通の姉妹とは少し違うかなと。少なくとも、僕は自分の姉にそんなに優しくしたことはありません」
どちらかと言えば、山崎家の兄弟は正反対だ。些細なことでいがみ合うし、常にお互いをからかいあっている。助け合ったり、お互いの面倒を見たりということからは無縁だ。無論、姉から可愛がられることも物心ついてからは全くと言っていいほどない。
「なるほどね。あの子さあ、内気な性格のせいで友達あんまりいないでしょ。その癖してさみしがり屋なのよ。だから、あの子がさみしくないようにと思ってね」
確かに、僕は彼女の友人をあまり多くは知らない。むしろ、柳原綾くらいしか思いつかないほどだ。しかし、彼女が単独行動を好む人種とは到底思えない。一緒にいれば分かるが、彼女は人並みに、時間を誰かと一緒に過ごすことを好んでいる。
しかし、一人を好まない人間だからといって、自分から人と積極的に仲良くなれるほど器用な人間というわけではない。
彼女は極度の人見知りで、僕も最初は話しかけることすら苦労したものだ。
そんな彼女のことを娘と呼称するほど溺愛している橙子さんが、彼女の寂しがり屋の性格を見過ごすはずもないだろう。
一人にしないよう、ずっと近くで見てきたのだ。
確かに、両親よりも彼女の親なのかもしれない、と僕は思った。
橙子さんはグラスを傾けて、中身を一気に流し込んだ。
「そういえばさ、結婚の挨拶に来た時アレやらなかったよね」
「アレ・・・・・・とは?」
僕は小首をかしげる。
「結婚の挨拶といえば、恒例の奴があるでしょう」
「ああ、そういえばやってないですね」
「わかった?じゃあどうぞ」
「え?なんで橙子さんに」
「さっきから言ってるじゃない。私の娘みたいなものだって」
「はあ」
僕はしぶしぶ頷いて、橙子さんの方を向く。
「娘さんを僕に下さい」
「駄目だ」
「えっ」
「冗談だよ」
橙子さんが頬を緩ませる。しかし、すぐに真剣な顔つきに戻った。
「許す。ただし、条件がある」
「なんですか」
「美優を幸せにしなかったら、ぶっ飛ばす」
橙子さんの真剣なまなざしに、心臓がどくりと音を立てた。
「わかりました」
ならよし、といって橙子さんは笑った。
その表情は、彼女の娘にそっくりだった。