『胡桃の中の鳥』亭 4
リオンとセブンアップの話にいつの間にか吸い込まれ、エイジは横から伸びてきた手に自分の目の前のジョッキが取り上げられてから初めて、自分の横へと女給が来ていたことに気が付いた。
「追加でエールを3つ頼む。で、だな。そのとき、コロノアの魔法研究所の者たちによって封印されたと発表されていた、炎の古龍ファンゾイがなぜか突然城壁の上に姿を現し……」
ふんふんと話を聞きながら、自分の真横に立って下げものをテーブルの端の方に集めてくれている女給をエイジはちらりと見上げる。そして、そのまま目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。
「アベ、アベちゃん!?」
思わずエイジは立ち上がり、半歩の距離でその女給と向かい合う。
突然大声を上げられた女給は、ビクリと身をすくませて、大きく目を開けてエイジを見上げる。
「え……」
「え、って、ほら俺、エイジエイジ」と自分を指さし、エイジはそこからさらに言い募る
「ええ? アベちゃんも来てたんだこっち? うお、マジか。マジ? すごい、すごいね!」
詰め寄らんとするエイジから上半身を斜めにして遠ざけて、女給の短い黒髪が片目にかかった。アベちゃんと呼ばれた女給は、身を隠そうとするようにお盆を胸に抱え直す。
「あ、あの…?」
「俺らは、あ、俺らって、ここにはいないけどソウマもこっち来てて、で、いまはあいつと冒険者になったところ。え、アベちゃんはここで働いてんの? 俺らも、もうすぐここに泊まることになっててさ」
小柄な体をすくませたまま、女給はエイジを見上げ、一歩、二歩と小さく後ずさる。
さらに言葉を繋げようとしていたエイジは、そこでやっと相手の小鹿のように黒目勝ちの瞳が自分のことを怖がっていることに気付き、意思の疎通が一つもうまく行っていないことへ思い至った。
しかし相手のその怯えが混じった表情でさえも、自分がよく知っている人のものとまったく一致している。別人かもしれないという逡巡はまるで訪れずに、むしろこうやって話しかけ、相手のことを見続けるほど、相手が自分が知る誰であるかについての確信が深まるほどだった。
「あれ、どした? 分かるよね俺のこと。エイジ。髪の色違うけど。てか間違いなくアベちゃんだよね?」
「……シオ、です」
「シオ?」
「……」
「え、でも」
様子を見ていたリオンがそこで口を挟んだ。
「どうした、エイジ。その子はお前の知り合いなのか、それともそうじゃないのかが、分からん」
「あ、えっと、俺と同じ場所? から来た子っす。同級の。アベちゃん」
「ふむ。女給さん。俺たちはこの町の衛兵だから、怯えないでいい。ところでな、こいつはこう言ってるんだが、あんたに覚えはあるか?」
「人違い、と、思います。あたしはシオなので」
「えー、いやいや…」と口を開くエイジに向かってリオンは手の平を向けて抑えて、「まあ待て。どうも端から見てて噛み合っていないように見える」と落ち着かせる。
それからテーブルに座ったまま二人を順に見上げた。
そういえば、セブンアップが『新入りの女給が入ってから店が混みだした』と言っていたか、とリオンは思い出す。
そういった浮ついた話はいつも町のあちらこちらで上がっては消えるので、店に着いてからはすっかり忘れていた。衛兵をやっているリオンの耳にはどこからともなくよく入ってくるものなのだ。
改めてその女給を見ると、なるほど肩に届かないくらいの短さだがやけに艶を放っている黒髪で、整った小さな顔と大きな瞳、華奢で小柄な体。随分年若く見えるのでリオンにとったらまだまだ少女にしか見えないが、年若いルーキーたちにとったら芽生えたての庇護欲がくすぐられるものなのかもしれなかった。
しかしな、とリオンは考える。
「エイジも、こういった女のひっかけ方をするようなタイプじゃなさそうなんだよな。でもこのシオという娘もほんとに何のことだか思い当っていなそうだ。エイジ、他人の空似なんじゃあないのか」
「いや絶対アベちゃんですって! 一個一個の表情も、髪も身長も、ほくろまで一緒ですもん。俺結構仲良かったし」
「まあとにかく、落ち着け。怖がってるから。すまんな、シオさん。ちなみに出身はどこか、聞いてもいいか?」
「え、とウェンドゴーの町、です」
「はあそりゃずいぶんとまた遠くから。エイジ、どうだ」
「いやいやいや。あれ、こっちに来たのは、10日前とかじゃない? ニホンじゃないの? ほら、ホクソウ高校の」
エイジは周りにリオンやほかの客たちがいるのも構わず、元の世界の固有名詞を口にしてしまう。そうしてでも、いまここでなぜか自分に向かってシオと名乗っている女の子と、何とか話を通じさせたかった。
エイジにとっては、アベリョウコはただのクラスメートや友人といった間柄ではなかった。
高校入学の頃から想いを少しずつ積み重ね、それとともに少しずつ、ぎこちなくでも仲良くなっていき、そしてそのことがさらに自分自身の想いを募らせて、結局最後に不慮の告白という若気の至りに至った結果、見事に玉砕したという忘れられない相手なのだ。
その後あまり話さなくなってからも、彼女のことはエイジの心の奥にずっと残っていた。廊下ですれ違ったりするたびに、胸の内でざわめきが高まっては静まっていくというのを最近になってまでも繰り返している相手だったのだ。
エイジがニホンやホクソウという共通するはずの単語を言ったときも、シオと名乗る女給の大きな瞳や所作にはこれといった反応は見られず、三人の前で気弱そうに眼をさまよわせているだけだった。
エイジはそれを見て余計に言葉を積もうとしたが、その前にセブンアップがゆったりとした調子で口を開いた。
「ウェンドゴーといったら、3年おきの闘技大会が有名だな。あとは、何と言っても優勝常連の冒険者ギルドのギルド長だ。あの人は強かった。彼はまだ現役でギルド長も、大会参加もされてるのか?」
「え……はい、たぶん……」
「赤髪の、ドゥセと言ったか」
「はあ……。あの、もう私は行っても」
話を切り上げたがるシオに向かってエイジは思わず声を上げる。
「いや待って、でも絶対」
シオは盆を抱えながら目だけでエイジを見上げて、彼女のその表情に今さらながらにエイジは動揺する。
教室で声の大きいタイプの男子生徒が彼女の近くの席に座り込んでぎゃんぎゃんと話しかけてきたときや、先輩らしき男子生徒が教室の入り口に立ち彼女のことを呼び出したとき。そういったときに彼女がしていた表情と、まったく同じだった。
当時そういう彼女の表情を見ていたエイジが、自分は絶対に怯えられることがないようにと注意し続けてきた、エイジにとったら見てはいけない、させてはいけないあの表情。しかし、自分の中で募った気持ちがボロボロと思わず出てしまったときに、結局ぎゃんぎゃんと言えるほど言葉を積んでしまったあのときに、自分が彼女にさせてしまったあの表情。
現状17年の人生における断トツ一番の失敗だったから、やっぱりこの顔この表情のことは間違えようがない、とエイジは確信する。そしてそれと同時に、自分は人生一番の失敗をもう一度やってるのか、と愕然としてしまう。
エイジの言葉が行き先を失い、口が小さく開閉され、そして途方にくれたように噤まれた。
シオは厨房の方へと一歩、二歩と後退りした。
リオンの、エイジを落ち着けようとするような声がする。
「エイジ、まあもうやめとけ。たとえ本当だとしても今はこれじゃ埒があかんだろう」
その声はエイジの頭に入ってくるが意味をなさない。
エイジの中で伝えたいことが山ほどあるのに、またその気持ちだけが空回っていた。自分自身でよく思うところであったが、言葉を使った表現が苦手な自分の悪い癖がまた出ている、とエイジは悲しくなる。
こういうときソウマだったら、と思う。きっと頭の中では冷静に相手と自分を見て、話がどこまで通じるかを考えて……
は、とエイジは顔を上げる。
「ねえ! ねえごめん。視界の右上に、点、ない?」
今にも振り向いてカウンターへとかけ去ろうとしていたシオは、目を見開いてエイジを見上げた。彼女がこの卓に来て初めて見た大きな表情の変化。怯えている以外の表情だ。
しかし彼女は何も言葉は発さないまま、驚いた表情でエイジを見つめている。
エイジは自分に落ち着け、落ち着けと言い聞かせながら言葉をゆっくりと足していく。
「点、ある? あったらそれは、別にアベちゃんの、えっとシオさんの錯覚とか目の病気じゃなくって、俺らが前に一緒だった証拠で。えっとね」
エイジは人差し指をたてる。
「証拠に、それを押してみて。目で点を追うんじゃなくて、ほら、目線はこの指を見たまま、頭の中で『押した!』ってやってみんの」
シオはエイジと人差し指をしばらく警戒した表情で見比べる。エイジは相手に落ち着いてもらうために自分自身を落ち着かせ続けながらも、笑顔を見せて「だいじょぶだいじょぶ。一回やってみて? 試しに」と言った。
ふ、とエイジの顔から人差し指へとシオが焦点を移した。
2秒ほどの沈黙。
突然シオは、はっ! と声にならない声を上げ、口を押えながら後ろによろめき、酒場の床に尻もちをつく。
後ろにあったテーブルの椅子の足に、倒れ込んだシオの背中が当たった。
その椅子に座って仲間たちと談笑していた戦士風の男が、「ああ?」と言って振り向く。
「え、シオちゃん!?」
自分と背中合わせになりながらシオが床に座り込んでいることに気付いて、男は目を剥いた。
「おい、おいおいおい、お前、シオちゃんになぁにをしやがった?」
そしてシオの前で気障に指を上げて立っているエイジに向かって大声をあげる。その卓にいた一団と、周辺の酔客たちの視線とがシオとエイジに向けて集まっていく。シオはその真ん中にいながら、それでもしゃがんで中空を見つめたままだ。
「ああ。すまんな。どうもこいつらが同郷の知り合い? らしくてな。騒がしくしてすまんが、彼女に危害を加えないことに関しては俺が責任を取ろう」
と、リオンがエイジの向こう側から戦士に声をかけた。ほかの卓からも自分の顔が見えるようにだろう、中腰でテーブルに少し乗り出すような体勢を取って、その男に向かって軽く手を上げて見せる。
「まあ、何を話してるのかはさっきから俺もよく分からんのだがな。大事はないはずだ」
卓のそこかしこから「うお。げ……」「衛兵隊長だ」「セブンアップもいる」と小さな声があがる。
「……え、と、いや俺はシオちゃんが悪いことされてんじゃないなら、いいんだけどよ。隊長さんがそう言うんなら、ここはまあ」
男は奥にいるリオンとセブンアップの顔を見て勢いをすぼめていき、最後にもう一度シオとエイジを見たあとは、結局自分の宴席の方へと向き直った。
エイジは尻もちをついたままで恐らくウィンドウを見上げ続けてる様子のシオの元へとゆっくり歩き、手を伸ばして立ちあがらせる。そのまま、声を抑えて話しかけた。
「これって多分、一緒んとこから来た証拠になる、よね? あ、ちなみに点をもう一回押したら消せるから。で、俺らはもうほかのこととかも色々試してるから。アベちゃんのやつもソウマなら読めるし、いくつかは説明もできる。力に、なれると思う」
エイジの言葉の途中からシオはエイジの顔の方に向いた。呆然としていた顔も少し持ち直して見える。
エイジは意識してゆっくりと言葉を続ける。
「これからこうしていこうとかはまだ分かんないんだけど、例えばそうだな、今日仕事終わった後とか、少し話せそう?」
シオはエイジを見上げていた目線を下げ、ゆっくりとうつむく。ちょっと間を開けて、最後にそのまま首を振った。
「今日は……」
「そか。えーと一回いつか話したいと思うんだけどどう? あ、ちなみに俺たちは三日後からここの屋上の倉庫に泊まるけど、できたらその前に」
「あし、た?」
「明日ね。昼? 夜?」
「七半、くらい」
「七半。ん、オケオケ。ソウマと、一緒に来るね?」
シオは黙ってうつむいたまま、一瞬だけ視線をエイジに向ける。アベちゃんの表情に慣れていたエイジは特に気にせず、一回笑って見せる。
「たぶんソウマのこと見たら、びっくりするよ」
シオは小さく頷いて、まだショックを受けてるような所作ではあるが改めて一歩ずつそこから下がっていって、厨房へと戻った。
エイジはそれを見送ってから、ふー、と大きく息を付き、リオン達の方に向き直る。
「あー。あーびっくりした。いやなんか、ほんとすんませんでした」と頭を下げる。
「ん、ああ。結局お前の知り合いだったのか何だったのか、俺たちにはよく分からなかったがな」
「俺は知り合いだって断言出来るんですけど、いやーなんか、なんか調子狂ったなー」
「あの子はウェンドゴーの出身じゃないのか。だったらお前と違うだろう。というか、町人全員把握してるわけじゃないが、最近ああいった女の子が新しくこの町に入ったというのは記憶にないぞ」
「あー。それは、何というか……何だろう」
しばらく黙って様子を見ていたセブンアップがおもむろに口を開いた。
「ウェンドゴー出身というのは、どうだろう。向こうがちゃんと答えた訳ではないから分からないが」
「ん? 何のことだ」
「ウェンドゴーのドゥセって戦士は、周辺で知らない者はいない英雄だ。大会を開く祭りの年などは、町中で似絵を見かける。だが、奴は赤髪のギルド長ではないぞ」
リオンとエイジがきょとんとセブンアップを見る。
「ドゥセは獅子のような白髪の、そこの領主だ」
「……はー」
エイジは嘆息する。先ほどセブンアップがかの町の話を挟んできたときは、また何周目かの、エイジにもやっと慣れてきたところであるいつものマイペースなトークだと思いこんでいたのだ。
「ったくお前は。用心棒に加えて衛兵もやってみるか?」
「ふん。いらんな」
やっぱり出身はウェンドゴーってところではなさそうってことかな、とエイジは考える。
エイジにとったら彼女が『アベちゃんであること』は確信できていたが、当の本人はそれを完全に否定した上『ウェンドゴーのシオ』と名乗っていた。まあ自分とソラマメも町に入るとき同じようなことをしたし、転生した身の上からしたら当然のことかもしれないが、なぜ彼女が自分にまで出自を偽り、知り合いじゃないふりをするのかについてがエイジには分からなかった。
とりあえず、ソラマメと話そう。エールを飲んで息を付いたあと、エイジは改めて二人にお礼とお詫びをする。
「いやほんと、リオンさんセブンアップさん、いきなりなんかゴタゴタしちゃってすみませんでした。でも、色々知りたかったこといっぱい聞けたし、最後はこっちにとってはでかい事件が起きたけど、まあこれは自分らで何とかするんで、えーとまあ、まとまらないけど、ありがとうございました」
「ふふ。ああ構わんぞ」
「ん、お開きか?」
いつもの抑揚の少ないしゃべり方だが、セブンアップが少し惜しんでくれているような雰囲気を感じてエイジは笑いながら「いやお二人はこのままどうぞ。ちょっとソラマメも気になるし、自分だけ今日のところは帰るんで」と言う。
二人から昔の話を聞いていた途中だったが、いまさら仕切り直しても頭に入ってくる気がしない。それにアベちゃんにとったら、自分が今日の今日でこのまま席に残っていると、精神衛生上よくないような気もした。無駄なプレッシャーは与えたくないし、自分でも色々情報が整理したい。
二人はこのまま飲み続けるということになって、エイジは袋屋までの道順を聞いてから席を立った。お代は出させてもらえなかったので、それについても深くお礼を言う。
「ではでは。ほんと今日は、ありがとうございました!」
「おう、また飲もう」
「うむ。ソラマメも連れて来いよ」
「うぃっす! それでは」
エイジはテーブルの間を縫って出口へと向かい、押戸を開けた。アベちゃんと目が合ったら軽く手を振ろうか控えといた方がいいかと迷ったが、そのときホールには、女将しかいないようだった。




