プロローグ
日曜日の昼下がり。
黒髪ストレートヘアの少女がソファに寝転がってスマホをつつくのを尻目に、俺は黙々と洗濯物を畳んでいた。
男物の衣類だけを畳み終えて立ち上がろうとすると、
「私のも畳んでおいて」
と少女はこっちを見ることもなく言った。
いつもなら自分で畳むと言うのに
俺は少し躊躇いながらも少女の衣類を畳み、一箇所に積んでおく。
「ありがとー」
相変わらずスマホと対面したままの少女に苛立つが、ため息を一つすると気が抜けてしまう。
少女がこの狭いアパートに転がり込んで来てから、一週間になる。
学生のはずなのに学校には通わず、家事や仕事をするでもない。
四六時中スマホと向き合い、挙句の果てには「通信費よろしくね」である
なぜこんな事になったのか。
それは、少女が俺の妻という「設定」にあるからだった。因みに、俺は少女の名前さえ知らない。
出会った日の話を、少しだけしよう。
昼は大学に通い、夜はバイトで学費を稼ぐ俺は、その日も遅くに自転車で自宅へ向かっていた。
登り坂でもないのにペダルが重く感じられるのは、力仕事の後だからだろう。そう思っていた。
自宅の近くの交番の前を通った時、突然ホイッスルを鳴らされた。
何事かと振り返ると、いつの間にか荷台にセーラー服を纏う少女が乗っていた。
少女はその小さな頭を悪戯っぽい表情をしてかしげている。
「ペダルが重かったのはお前のせいか」
ため息をつく俺に、少女は怒りに変えた表情を向ける。
デリカシーが皆無ね、最低
とでも言いたげな表情だ。
俺を呼び止めた警官はすぐに駆け寄った。日焼けしたいかつい顔が、どことなくベテランらしさを物語っている。
「君たち、二人乗りは違法だろう!」と警官は怒鳴った。
少女は荷台からふわりと降りると、さっきの表情からにこやかな物へ替えて、警官の顔をのぞき込んで言った。
「なら、『法に違反しない』そういう設定なら問題ないんですね」
そう言うと少女は、高い位置で指をパチンと鳴らす。
そしてこう放った。
「二人乗りは法に触れません」
「そんな訳なかろう!ふざけるな!」
警官は無線で何かを指示し、しばらくして若い警官が駆けつけた。
「こいつら、自転車の二人乗りをやっておきながら違法では無いと馬鹿な事を言っているんだ。」
警官は、若手にそう説明した。
自分は違法でないとは言ってない、とは決して言える雰囲気ではない。
しかし、その雰囲気は余りにもあっさりと壊される。
「何言ってるんですか。二人乗りは確かに危ないですけど、それを取り締まる法律なんてありませんよ」
と言ったのは若手警官である。
「お前まで何言ってんだ?」警官は困惑状態だ。
「いや、だから二人乗りは法には触れませんけど。自分、何か間違ってます?」
警官は黙り込んだ。状況が理解出来ないのは無理もない。俺も同じなのだ。
「……わかった、もう行け」
警官はさっきまで声とは比較にならない程小さな声で言うと、手で追い払うようなジェスチャーをした。
俺が自転車に跨ると、少女は当然かのように荷台に乗った。
「驚いた?」
職質を受けた場所から少し離れた公園で、少女はブランコを漕ぎながらどこか自慢げに訊いた。
「驚く、というか何が起こったのか理解ができないんだが」
思考が仕事をしないのは、久しぶりに乗ったブランコが脳を揺らすからかも知れない。
「難しく考えるからだよ。法律の設定を一瞬変えただけ」
法律を変えたということだろうか。そんなことが国会さえ無視して、この少女一人にできるというのなら、それはかなり危険ではなかろうか。
考えてもよく分からないので、話題を変えてみる。
「君、高校生だよね?こんな時間に出歩いて大丈夫なの?」
公園の時計をちらと見ると、12時を既に越していた。
「初期設定では高校生だけど。なにか不満?」
風貌こそ高校生だがその口調は大人らしさが強い気がする。
「よく分からないけど、設定?が変えられるから問題無いわけだな」
それなら、俺は関係ない
そもそも少女がなぜだか勝手に自転車に乗ってきた訳だから、俺に責任はない。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
俺はブランコを降りて自転車に乗る。
「ちょっと!」
少女は咄嗟に立ち上がり、荷台を両手で押さえる。
「ここで帰られたら、何の為にあんたの自転車に乗ったのよ!」
はぁ?
これはかなり面倒臭いやつに絡まれたとこの時思う。
「連れて帰って。」
少女は俯きながら言うが、仮にも女子高生が初対面の大学生に言うことではない。
「あのな、こればかりは法律うんぬんで解決できる問題ではないんだ。早く帰りなさいとは言わないから、帰らせてくれ。」
それでも少女は、手を離すどころか力を込めている。
「なら……」
少女は俯いたままゆっくりと口を開く
「あなたが私と『結婚している』そういう設定なら、問題無いわけね」
なっ……。
これには返す言葉が無かった。
驚きというか、呆れに近い。
というか謎すぎる。
「勝手にしろ」
気づけば、こんな返事をしていた。
こうして、奇妙な同棲生活は始まってしまった。