ランカスター商店の若き当主
閑話 ランカスター商店の若き当主
ランカスター商店は、材木の行商をしていたジェフトット・ランカスターがブルーレンで開いた商店だった。後ろ盾もなく始めた商店だったが、ジェフトットの誠実な人柄もあり、堅実に商売を拡大していった。
その数年後、街に住む同じ妖精猫族の娘と結婚したジェフトットは子宝を授かった。母親譲りの黒い瞳が印象的な息子はバフトットと名づけられた。
「父さん。どうして支店をおかないのですか?」
この質問はバフトットが12歳の時のものだ。唐突に商会の経営に関する質問をされ、ジェフトットは戸惑ったが、生真面目な彼は丁寧に支店を持たない理由を説明した。
「支店を任せるに値する人材がまだいないんだ。それに莫大な金もかかる。もちろん将来的には出したいが、もっとこの街で商会を成長させてからの話だ」
その説明を聞いても、バフトットは引き下がらなかった。
「父さん、それでは行商人だけでも雇いましょう。その方達にはうちの商品を安く卸す代わりに、各地を行商してもらいつつ、相場や噂話などを集めてもらうのです」
現場一筋のジェフトットには、バフトットの提案の意味がよくわからなかった。しかし専属の行商人を作って交易させるという話は、大商会がやっていると聞いたことがある。結局は息子の提案を受けることにしてみた。
しばらくすると、ランカスター商店には各地の相場や作物の取れ具合、さらには政治状況の情報などががつぶさに届くようになった。それにより交渉の際に下手を踏むことが少なくなり、利益が倍増した。ジェフトットは情報の重要さに気が付き、バフトットの提案の意図に驚いた。
このことがあってから、ジェフトットはバフトットに才能があると考えるようになった。そして15歳になった年、コーカサス王都に支店をつくりバフトットに支店長を任せることにした。
バフトットは王都でも成功した。数年たらずで、ブルーレンの本店と遜色ない売り上げを出すようになったのである。
この成功によりジェフトットは息子の商才を確信した。そして20歳となったのを機に、ジェフトットは当主の座をバフトットに譲ってしまい、自身は売買人として現場で力を振るうことにした。
バフトットは当主にはなると、多くの街に支店を作り、各地から定期的に報告書を届ける仕組みを構築した。この情報網と行動力溢れる商才により、バフトットはさらに多くの成功を得ていった。
そんなある日、不思議な小麦取引をしている黒髪の男の噂がバフトットの耳に入った。その噂はオセチアの報告集の片隅に書かれていた。
その男が不思議だと思われたのは、十日もの間、買った小麦を宿に持ち帰り続けていたからだ。どこにも売りに出ずに、宿に小麦を蓄え続けている変人がいると住人が噂しているという。
バフトットも確かに変な男だと思った。しかし同時に取るに足らない噂話の一つだろうとも感じた。それよりも重要なのは、戦線の拡大と小麦峠の封鎖によるコーカサス国方面への相場の影響だ。そう考えて、別の書類に目を移した。
「そういえばバフ。今日やってきた小麦売りが言っていたが、どうやらコーカサス軍がミクリアに攻め込んだようだ」
「本当ですか?」
父親であるジェフトットがそんなことを言ってきた。その情報は報告集に書かれていなかった。どうやら急に始まったようだ。バラン国が攻められたとなると、食料品を中心に相場が高騰するだろう……
いや、そうじゃない――バフトットの頭に、何かが引っかかった。
「待って下さい。小麦売り? それはもしかして、オセチアからやってきた黒髪の男でしたか?」
「そうだ。小麦峠も封鎖されたからブルーレンまでやってきたそうだ……何か知っているのか」
もしかすると、それは報告集にあった不思議な小麦売りかもしれない。そう思ったバフトットが詳しい取引内容を質問する。
「少し噂話を聞いておりまして。どれくらいの量を売りにきましたか?」
「馬車で持ち込んできた3袋だ。ミクリアでの戦争の話を教えてくれたので、銀貨30枚で取引した」
おかしい――バフトットはなぜかそう感じた。しばらく考えて、その違和感を言葉にすることに成功した。
「どうして……3袋しか売らなかったのでしょう」
「しか? 馬車にある小麦はそれで全部だったぞ」
「違うのです。私が仕入れたオセチアでの不思議な小麦売りは、毎日1袋以上買い続けていたし、さらに一度に15袋も買った日がありました。しかもそれは小麦峠が封鎖された次の日です。つまり彼は、小麦の在庫を多く抱えていたはずです」
「ブルーレンに来る途中で売ってきたんだろ」
「いえ、それは無いでしょう。オセチアからブルーレンの間にある農村は、オセチアほどではないにしても豊作だった。どこで売ろうが安く買い叩かれてしまいます。それならばまだ、ブルーレンで売ったほうがましです」
ジェフトットはまた息子が面倒なことを言い始めたかと、辟易するように言い捨てた。
「それじゃあ、色々な商店に少しずつ売りつけにいったんだろう」
「そうかもしれませんね。あまり意味があるとは思いませんが……」
「まったく、どうしてそんな小麦売りのことを気にするんだ? 金貨一枚にも満たないような取引だぞ?」
「いえ……別に」
結局バフトットは最後まで、その男の行った小麦売買が腑に落ちなかった。
◆
次の日の朝。コーカサスの支店からもミクリアへの侵攻が始まったことが知らされてきた。それは大きな知らせだったのだが、それよりも奇妙な知らせがバフトットのもとに届けられた。それは西市場の石碑に、奇妙な穴が空いたというものだった。
その話を聞いた瞬間、バフトットは支店からの報告書を放り出して、西市場に駆け出していった。
「これは……」
バフトットは人ごみを掻き分け、西市場の中心へと向かった。そしてそこで見たのは石碑に開く奇妙な穴だった。突然現れた不気味な穴を気味悪がる群集を押しのけ、バフトットは何のためらいも無く、その穴へと身体を放り込んだ。
「人が出てきたぞ!」
「なんなんだ、これは」
「いや、あれは……」
穴を抜けた先でバフトットが周囲を見渡すと、そこにはやはり多くの群衆がいた。しかし、先程まで居た西市場とは少し違う。
「バフトットの旦那じゃないか。どうしてその穴から?」
知り合いの商人の一人が声をかけてきた。その商人はいつも東市場で市を開いている男だ。瞬間、ここは東市場なのだと理解したバフトットは、驚愕して通ったばかりの穴に振り向いた。そこにはさっきまで居たはずの西市場の人々が覗き見えていた。
バフトットは理解した。これは遠い地点を繋げている穴なのだと。信じられないような現象だが、これでこの街の商売は大きく変わる。そうすぐに確信した。
しかし、いったい誰がこんなものを――
「……誰が?」
これはだれかが人為的に起こした現象なのか? いやそもそも、なぜこれを誰かが作ったと考えたんだ?
そう自問したとき、バフトットは昨夜からの疑問がすうっと解けていくのを感じた。
「そうか……」
彼はすぐにジェフトットをつれ、ある人物の家に向かった。それは先日街にやってきたばかりの、黒髪の小麦売りの家だった。
◆
「ミクリアの小麦商と取引しているときに『ミクリアが戦場になるから小麦を買い占めようとしている。だから在庫をすべて売ってもらえないか』と持ち掛けられたのです。結局私はその提案を受け、ミクリアに保管していたすべての小麦を売った後、ブルーレンに逃げてきたわけです」
「なるほど……」
噂の黒髪の男――リョウはそう語った。この話を聞いて、バフトットの予想は確信に変わった。
この男は小麦を毎日数袋ずつ買い込んでいた。さらに小麦峠が封鎖された後に15袋も小麦を買い付けている。そして今の話では、それらをすべてミクリアで売りはらっている。封鎖され小麦峠を越えることなど、不可能にも関わらずだ。
では、どうやってオセチアからミクリアへ移動していたのか。それは今朝の穴がすべての疑問を解決してくれる。
この男、離れた地点をつなぐ魔法が使えるのだ。
その答えに、バフトットは心の底から震えが湧いてきた。なぜならそのような魔法があれば、交易の常識が根底から覆ってしまうのだから。
バフトットは溢れ出る笑みを抑えきれずに、言った。
「やはりあなたが、市場の穴を開けた魔法使いなのですね」