誰も悪くなんてないの(おかあさまside)
「文音さん」
呼び声に、びくりと彼女は肩を震わせおそるおそるといった調子でこちらを振り返る。
「…なにか」
つんとした態度にこちらを見下しているかのような高慢な様子は身を守る鎧だ。なにせ、彼女は私と同じ「人間」。加えて、私のように自ら飛び込んできた者でなく政略から放り込まれた世にいう「生贄」とも呼ばれる立場の人であったから、その心情も多少は慮れるというものだ。
「文音さん。貴女、郡くんを愛せないのでしょう?」
びくり、と今度は大袈裟に肩がはねた。
「な、にを―」
「ああ、別に責めているわけではありませんの。ただ、正直に教えて頂きたいだけなのです。私のように自ら望んで嫁いだ者ならともかく、貴女は政略で結びつけられた身。血が薄い惣火ならと耐えられていたところもあるでしょう。完全な獣の姿になってしまう息子をうまく愛せなくても、誰も責めたりしませんわ」
「でも…」
ふらふらと視線を泳がせる文音の手を取り、目を合わせて笑む。できるだけ優しく、心を開いてくれることを祈りながら。
「だって、違うって恐ろしいことですもの」
そう。
同じ人間たちで固まって過ごしてきた、―特に末端とはいえ人間至上主義を掲げる教会が抱える貴族に名を連ねる家の人間である文音には婚姻ですら苦痛であったことだろう。それでも、分かり合おうと努力し、子を成すに至った。けれど、「人間ではない」外見に変わってしまう息子を、実の子とはいえ愛することは彼女にとってはひどく難しかったのだ。
「わたし、―わたし、こんな風に変わってしまう獣人を、見たことなんてなかったんですの」
「ええ」
「郡は血を分けた子。かわいいかわいい息子だと、頭ではわかっているの。でも、…どうしても、狐の姿のあの子を愛してあげられない―!」
ぼろぼろと涙を流す文音は苦しんでいた。
息子を愛したい気持ちはあるのに、一日のほとんどを文音にとっては異形の姿の「獣の姿」で過ごす郡を、どうしても愛してあげられない。もともと生真面目なきらいのある文音にとっては母親であるにもかかわらず実の息子を母親らしく愛してやれないという今の状態は想像以上のストレスになっていた。
「文音さん」
泣きじゃくる文音に、彼女は優しく声をかけた。
「…文音さん。しばらく郡くんを、ウチに預けてみないかしら?」
「…郡、を?」
「ええ。本家には貴女のように獣姿になってしまう獣人に抵抗を抱いてしまう人が多いし」
「…あなたの家はそうではないと?」
「ええ。御義父様は軍の方だもの」
軍で功績をあげる獣人は、その多くが血が薄まりすぎて大型の獣と化せるようになった獣人である。そのような人物が家長を務める家なのだ。家人が獣化したからといって取り乱すような者などいはしない。
「他所にやってしまうわけではないのよ。環境があまりよくないから相応しい分家に預けるの。貴女も頑張りすぎているようだから、一度郡くんから離れて休んでみたほうがいいと思うの」
「あなたは、…郡を愛せる?」
「ええ」
でも、と言って彼女は寂し気に瞳を伏せた。
「どうして愛せないのかを分かってあげられなかったから、ずいぶん長い間、苦労したわ」
「そう…」
文音は、一呼吸おいてから、勢いよく頭を下げた。
「郡を、…よろしくお願いします」
次に会う時には、―きっと。