下
「…………う」
目を覚ます。
この部屋に入った翌日の目覚めは、真紅のソファの上でのことだった。いくら心地よいソファだからと言っても、ベッドほどではない。関節に幾分かの倦怠感を感じる目覚めだ。
俺がベッドを使わなかったのは、何か主義があるというわけではない。ただ、この部屋にあるベッドはシングルの物で、この部屋には二人の人間がどういうわけか存在していたことが悪いのだ。
昨晩、シングルベッドはどちらが使うかについて話した。
彼女曰く、
「僕は一緒でも構わないけどね」
などとほざいていた。
勿論、その言葉は俺への好意や信頼によるものではなく、自身への無頓着によるものだということは言うまでもないだろう。
彼女が食事を譲る時も感じていたことだが、彼女の自身に対する執着はとても薄い。生死の境があいまい、そんな印象を受けている。
まあ、そんなことを理解したからと言って、俺はこの少女のことを理解しきってはいない。
未だに――一晩たった今でも、彼女の言葉の真意は掴み取れないままだ。もしかしたら、俺の残った命の間にそれを知ることはできないかもしれないが。
しかし、それもなんだか気に食わない話ではあるが。
そんなことを、食事をしながら考えていた。
彼女はというと、本にまみれながらシングルベッドを占領して眠りについていた。起きた時には空腹だろうから食事は半分程度残しておくことにする。俺は満腹にならないが、こんな状況となってはどうでもいいことだ。
それから数十分経つと彼女は起き上がり、無言で俺と相対するようにテーブルに添えられている椅子に座り込んだ。
「おはよう」
「……うん」
小さい声で返答しつつ、彼女は窓の外へと目を向ける。窓枠からは外の光が差し込んでいて大まかな時刻がわかるようになっている。おそらく、午前の十一時付近だと思われる。
そして、窓が教えてくれることは時間だけではない。
窓枠は空間の一部だけを切り取って部屋の内部へと伝える。しかし、あまりに大きな存在は中々フレームアウトしようとはしない。
明るい日光に照らされる赤いドラゴンは窓の向こうで空を眺めていた。
この部屋にいるといやでも目に映ることがあるドラゴン。それでおて、何度見たところで俺の感情に湧き上がってくるものは形容しがたいものだけだった。
恐れや怒りも湧かない。
血染めされた鱗はルビーの輝きと何ら変わらないようにも見える。大空を砕き割るような牙も純銀のナイフと同じように感じられる。
それでも、理解できないということは分かる。だからなのか、俺はあれを眺めるのは好きではなかった。
だから、その代わりにドラゴンに視線を伸ばす少女を見ることにした。
そこから少女の何かを見出しいたかったのだ。
少女は、見とれていた。
何か美しいものを見ているような、そんな風に見えた。
そして、少女の瞳は俺とは全く違うものを捉えているということも、本能的に理解してしまっていた。
相容れない、とも。
だからこそだろうか、その断絶にくじけず、俺は彼女を理解したいと一層思った。そして、意識を何かに惹かれ続けている少女に向かって俺は問いかけていた。
「なあ、あいつ――あのドラゴン、どう思う」
「……どう、ってなにかな」
俺が声をかけた途端、彼女の瞳は眠気に曇らされ、とろんとしたおぼろげな光を灯すように戻っていた。
そして、その曇った声で問い返される。
「なんというか、お前は俺と違うものを見ていた気がしてならない。だから……ちょっと、な。気になったんだ」
「はぁ」
わかったようなわかっていないような、そんなことを思っているに違いない――――そんな表情を浮かべていたのだった。
そんな俺の問いかけに彼女は反応を迷っているようだった。そして、返答の代わりにテーブルに置いたままだった食いかけの食事に手を伸ばす。
ので、その皿を取り上げた。
「質問に答えてほしい」
自分でも、自分を何がそこまで掻き立てているのかが理解できなかった。それでも、その衝動を抑える気にはなれなかった。
何かの感情に取りつかれている俺に対して、少女は批判的な目で少しの間俺を眺めて、そして口を開いた。
「………………、おじさんはどんな風に思う? 僕に聞く以上、自分の意見も何かしらあるんだろう。それを明かしてくれ」
「そうだな。何か、理解できないものって感じだ。きれいなものに例えるのは癪だけど、北極星みたいだ。だからこそ違和感ばかり生まれる」
「……詩的だね」
まともに取り合わず、そう返される。
「あんなドラゴンなんてファンタジーな存在だからな。それくらい、仕方ない」
それをさせるだけのものだ。この世界で唯一、一つ一つに分割したうえですらあれが何者なのかを理解することができない。
そんな自らの平凡をさらすような言葉を彼女は軽く頷いて答えた。肯定か、それとも聞いていないのかはわからなかった。
少女は言う。
「ナイフとか、拳銃と変わらないよ。あんなやつ」
少女の瞳の色は再び変化して、ドラゴンに何かの輝きを見出しているような、そんな瞳に舞い戻っていた。
そして続ける。
「死ねるなら、何でも」
短い言葉。しかし、そこには少女の複雑な思いが込められているのだろう――――そんなことを、理由もなく感じてしまった。
十年は年齢が違うであろう少女に、だ。
「お前、死にたいのか」
言葉が漏れ出してしまった。
俺の中の、この部屋に来るまでは間違いなく存在していなかったような思いがそうさせているのを感じていた。
少女を覗き見る。
空虚な印象だった少女の姿が、ふと、切り替わったように見えた。そして、メッキがはがれだすように彼女は弱弱しく思えるようになってきた。
少女は口にする。
「わかんない」
その言葉が何らかの引き金になってしまったように思えた。部屋の空気は、朝の光を吐き出し始め、曇天のそれが混ざり始めていた。
「僕はさ」
少女は外の――――ドラゴンを眺めながら、語り始めたようだった。そこに口をはさむすべはないように見えて、俺にはその様子を見守ることしかできない。
「きっと今の時代の、結構貧しい家庭に生まれたんだ。明日どうなるかはわかるけど、半年後とかになると生きてるかわからない感じの」
言葉は流暢にこぼれてきた。しかし、それは嬉々として語っているようには間違いなく見えない。まるで他人事のように少女は語る。
「それでも両親たちは苦しそうじゃなかった。父さんは言葉少なげだけど、人を気遣ったりできる人だった。母さんはとにかく優しい人だった。だから、二人の作る家庭はとても暖かかったんだ――――僕の誇りだね」
漏れ出した感情は空間に染み渡るために言語化されているようだった。迷いはなく、感情の高ぶりに声を震わせて、年相応の少女となった彼女は語り続ける。
それに比例するように、俺の中で何かを考えようとする心が沸き上がってきているのを感じていた。
少女は続ける。
「父さんは僕が自分のことを「僕」って呼ぶのを好きだったみたいで、わざと僕って言ってみると頭をなででくれたよ。思えばそのせいで僕って言い続けたのかもしれないし、今でも自然に口に出るんだ。」
「母さんも僕が男の子みたいな女の子でも受け入れてくれたよ。むしろ、母さんのほうが乗り気で、キャッチボールに誘ってくれたりね――別に僕は男らしくなろうとしてたわけじゃなかったんだけども。それでも、そんな気遣いがうれしかった。」
そこまで言いきって、少女の表情を伺うと、初めて彼女の顔に生気がともったように感じられた。
昔を思い返して、ここではないどこかを見ているようだった。
「子供心にさ、そんな時間がずっと続く気がしてた。おじさんにもないかな? 子供のころ、自分がずっと子供でいるような感覚。ずっと、守られていられそうな気が、しなかったかな?」
その問いかけは、返答を求めていないように聞こえて、沈黙で答える。
「要するに、現実を知らなかったという話なんだけどね」
目を伏せて少女は言う。他人事のような口調と裏腹に、彼女の体は震えていて、底冷えする経験がフラッシュバックしているように見えた。
それでも、彼女の語ることはまだ、明るいものだった。
「両親は僕に色々な、親というだけでは与えきれないものをいっぱい渡してくれた。世界中を探しても、贔屓目なしに彼ら以上の親はいないよ」
そして、少女は言う。
「そんな両親が、死んだ」
スイッチが軽く切り替わるように、彼女の語調に冷たい凶器のような鋭さが伴う。つい耳をふさいでしまいたいような雰囲気があふれ出した。
けれどもそれではいけない、そう直感がささやいていた。あるいはそういうことにしたかった。強引に言葉を作り出して、投げかけた。
「何が、あった」
少女がこちらを向いた。一転して、冷やかな瞳をしていた。
「強盗が家に押し入って、そのまま」
彼女の口調は穏やかに聞こえて、内心穏やかではないのは分かっていた。苛立ちが隠しきれていないことを肌で感じられる。
「幸せだったあの世界が突然終わるなんて思ってなかった。それも、貧乏な家に強盗殺人なんてものは無縁だと思ってたんだ」
「いや、貧乏とかそういうのは関係ないね。ともかく、そんな終わり方なんて、フィクションだと思ってた――――フィクションで、良かったのに」
俯きながら少女は、絞り出すように口にした。
「もう僕には生きていく意味も、自身もないよ。けど、現実に殺されるのだけは許せない。死ぬなら、化け物に殺されてやる」
「……お願い、おじさん」
続けて、
「僕の死ぬところを見届けてよ」
目の前の少女はそう言って、曖昧に笑う。
俺は彼女にどんな感情を抱くべきかわからなかった。
簡単に返答することはできなかった。唇が震え、何かを発することを拒否しているようだ。今まで自分の考えていたことが「浅い」のだと言われたようだった。
ただ、逃げ道はあった。
そのことが彼女を救うのなら。
けれど、しかし。
「……っ、そんなの」
言葉は続けられなかった。
少女から逃げるように、背を向けてしまった。
そのことに少女はどんな表情を浮かべているだろうか、想像に難くなかった。その事実が俺の気持ちを一層落ち着かせないものとさせている。
それでも俺は、振り返れない。
外から差し込む光で、俺は目を覚ました。
少女との会話に気力をそがれたのか、気が付くと夜になっていた。どうしようもないことを無駄に考えていたような気はする。ともかく、昨日はそのまま寝ることにしてしまった。
時間だけが過ぎていくことを嫌でも感じさせられた一日だった。
少女のほうがどうしてるかは気にしないことにした。気にしてしまうと、自分の浅さを嫌でも感じて染みそうだったから。
洗面などを済まして食事に移る。冷蔵庫は昨日と同じく、音とともに光を放ち続けていた。
気付けのためにコーヒーを注ごうと、キッチンに向かい、食器類を用意して、いざ湯を注ごうとしていた時のことだった。
軽い音が足元に響いた。なんということもなく、俺がコーヒーを淹れようとして持ち上げたコップを落としてしまったのである。
「……ん」
湯を注いでいなかったことは不幸中の幸いだったと言えよう。挽かれたコーヒー豆の粉末はカーペットを焦げてしまったかのように汚した。
まあ、どうせ明日には離れる部屋だ。そう思い、拾い上げようとコップの取っ手に手を伸ばす。金属製のそれを俺は掴もうとして――――また、指先から遠ざかってしまった。
コップの取っ手が濡れているのかと思ったが、それは違った。なぜコップを拾えないのか、その答えは手元を見てすぐに分かった。
俺の右腕が、震えていた。
自覚するとそれは顕著に反応し始める。落ち着けようと心を静めればするほど、全くの逆効果となってしまった。
左腕で押さえつけるように右腕を握るが、あまり効果はないようだった。
原因はわかっていた。
「おじさん」
体中の皮膚が硬直するような、気味の悪い感覚が身を襲った。
背後から少女の声がした。振り向かずとも、少女は俺のすぐ真後ろに立っていることがわかった。
いつから起きていたのか、そんなことはどうでもよかった。
「怖いの?」
見透かしているように、俺には思えた。
「だから、言ってるよね。僕が死ぬんだって、おじさんは死なないんだって」
嘲るような、そんな印象がその口調には込められていたように思えた――――そして、それを感じた途端に俺の体は跳ね上がるように動いた。自分でも思い返したくないような、へどの出るような思いを少女にぶつけた。
鈍い音が、部屋に響いた。手が触れた感触が、あんなにも気味の悪いように思えた少女だったのに、存外温かく、柔らかかった。手にこびり付くような錯覚がとても気持ち悪い。
少女は無機質な床に倒れこむ。
長い黒髪は制御を失って、床を黒く染める墨のように部屋に広がって解き放たれた。
「痛っ――」
「何なんだよ、お前は」
年端もいかない少女に、とか、そんなことは考えから外れていた。振り上げた手に後悔の念が湧くこともなかった。
「人の代わりに死ぬとか、死ぬところを見届けろとか――――訳が分からない」
一晩を経て、減るどころか肥大化していった胸の中の物を吐き出すように、俺は言葉を出していった。
「そ、そんなことを言われても…………そのままだよ」
「俺はっ、俺は……立派な人間というわけでもない。適当に生き続けて、流されていったからここへ行きついたんだ」
語れるようなことも、言いわけできることも特にない。そういった、当然の結果が現れただけのなのだ。
「だからこそ、ここで死ぬことは……納得できる」
むしろ、ここで死ななければおかしいとさえ俺には思えていた。何もしてこなかったのに、理不尽に報われてしまうなんて、許されてはならない。
死ぬ直前までそんなことを思い続けられるとは思えないが、少なくとも今はそう思えた。
そうすれば俺の人生だって、少しは真っ当と言える、とも。
それに、
「それに……俺には、「人の死」なんて背負って生きていけない」
「背負う、なんてそんな」
床に倒れながら、少女はそう答える。
けれど口をはさませる気にはなれなかった。どうせ浅いというのならば、滑稽でもいいから自分の言い分を投げかけつづけるべきと思った。
「お前のことはよく知らない。そして、知る時間も残されてない。だけど、そんなお前でも、代わりに死んでもらって俺が生きるなんて考えられないっ」
格好をつけたいわけじゃなかった。ただ、ありのままを言いたいだけだ。
「……一生引きずるんだぞ。俺には、そんなの……無理だから」
十数歳も年齢が離れている相手に言うにはとても情けない内容だと、自分でも気づいていた。けれどもそれが俺の器なのだと、同時に思っていた。
どうしても救えないことは、こうして吐露すれば何かが変わると思っているところだろう。
けれども、せずにはいられなかった。
彼女が俺のことを大きく見立てて、何かを託そうと――――死にざまを見届けてもらおうと――するのにはとても耐えられない。
少女を見る。
少し戸惑っているようで、先ほどまでの嘲りも見えなかった。床に倒れこんでる、というのもあるのかやや年相応にすら見えていた。
少女は少し考えて、口を開いた。
「……そんなの、僕に関係ない」
ぼそりと、そうつぶやいた。
「そうかよ」
やや期待していたことがあった。もしかしたら、俺の心をさらけ出せば少女も考えを改めて、生きようとしてくれるのではないか、と。
けれども俺程度ではそれができなかったようだ。
俺が、所詮出会って二日目の関係だから仕方がない、そう思いなおしたところ。
少女が再び口を開く。
「けど、おじさんの言うこと、わかるよ」
少しだけね、と少女は忘れていたかのように付け足して続ける。視線が上を向いて、目元を覆っていた黒髪が払われて、目があった。
少女の瞳は、今まで見たような冷血だったり、朧なものとは違っていた。そんな細かいことにも俺は少しだけ嬉しくなっていた。
「僕も、父さんと母さんに置いてかれたから」
わかる、少女は小さくそう言った。
結局二日目の今日も、俺とこの少女は初めて出会った時と何ら変わらない結論にたどり着いてしまった。
しかし、二人の間の距離は縮まったと信じたい。
少なくとも、手を取って立ち上がらせてあげるくらいの関係には。
外界との唯一の繋がりである窓からは、黒い空とドラゴンの姿が覗いていた。
この部屋に来て三日目。つまり、明日がドラゴンに人が食われる当日ということになる。
ドラゴンをこの数日間で何度か見ていたが、動くことすらほとんどしていなかった。もちろん学者が調べ上げてしまって、その上で理解ができないものであるあれを解析しようとは思っていない。
ただ、自分を殺す相手を眺めて、何かを考えたかったのだ。
けれども、ドラゴンをいくら見ていても無機質なこの部屋の壁を眺めているのと大して変わらなかった。それだけの隔てりが確かにあるのだ。
そんな葛藤も、明日で終わるのだ。
「おじさん、夕ご飯届いてたよ」
振り向くと、少女が二つのソファに挟まれているテーブルに、件の夕ご飯のお盆をおいていた。
ここ数日で少女の雰囲気も随分柔らかくなったように見えた。こんな状況なのに、 とも思うが彼女も思うところがあったのだと思う。
そう言えば、と思い口に出す。
「お前、ここに来てすぐの時は自分からは食べようとしなかったのにな」
そのことで多少言い争いになったのもずいぶん昔に思えた。命の有無について考えさせられる数日間は俺の感覚を狂わせていたらしい。
「まあ、空腹には勝てないよね」
からかうつもりがまともに受け取られて、なんとなく気を落としかける。こういう一つ一つに彼女の異質さを感じる。
「それにさ」
「ほかに何かあるのか」
ちょっとね、と少女は呟いた。
少女に対面するようにソファに座る。一見穏やかなこんな時間も、明日にはなくなってしまうと思うと寂しいものがあった。
テーブルに乗せられたお盆の上には、今日の夕飯であろう――牛丼があった。
成人男性一人分、というにはやや足りないようにも見える。一般的な「並」という分量であろう……その程度だった。
箸は一つしかないが、それはたいした問題じゃなかった。そんなことはこの数日間でいくらでもあった。
だからこの牛丼を分けるのは簡単なことなのだが、
「そんなに腹が減ってるなら、分けなくてもいい。全部やるよ」
「……そう? ありがとう」
少女を見ると、俺が提案する前に既に箸を握っていて、言うまでもない、と言わんばかりの表情で食事に手を付け始めた。お淑やかな食べ方ではなく、ワイルドに丼ぶりを持ち上げて掻っ込むように食べている。
何故、とかそんなことを聞かれると思っていただけに肩すかしだった。
別に俺だって、言葉通りの意味で少女に食事をささげたわけではない。
「ん、なんで?」
「何が」
「だからさ」
丼をテーブルに置いて、少女は言う。
「なんで私に譲ろうとしたの」
手を付け始めた上で聞いてくるのは、何とも言えない疑問を覚えなくもないが、俺は答えることにした。
どちらにしても話すことだから。
「明日、やっぱり俺が死のうと思う。だから、死人の腹が膨らんでも仕方がないからな」
最初から決めていたことで、数日間考えていたことだ。あれから何度かふいに死の恐怖を感じたりしたが、それでも彼女の提案に乗ったりはしなかった。
なにより、
数日間で見てきた少女を死なせるのは惜しいと思っていた。
俺が生き延びることはやはり納得いかないことで、怖くはあるが順当だと思っている。それに数日で見えた少女にはまだ、取り戻せる人間だと思えた。
例え両親がいなくても、生きていてほしいと思えるくらいの。
そんな言葉に少女は、
「……そう」
何度目かわからないような肩すかしを、俺は食らったようだった。
前日にこういった話を持ち出せば、何かしらの言い争いになると思っていただけに、以外としか言いようがなかった。
いや、前向きに考えれば、少女も少しは生きようという気になってくれたということかもしれない。
それなら、言うことも無い。
「…………ありがとう」
「えっ、……ああ」
礼を言われて、素直に驚かされた。この少女がわざわざ言葉にしてそんなことを言うとは思っていなかった。
「ま、まあ、これがあるべき終わり方だからな。気にしないでくれ」
動揺してたせいで、なんとか取り繕うような言い方しかできなかったがなんとか口にする。
これで俺たちもいい終わり方が出来たと言えるのではないか、そんなことをなんとなく思っていた。
気がかりといえば、少女が俯いていることだが、それもすぐ止めて少女は再び箸を進めた。
明日になって自分が心変わりしないか心配だったが、目の前にいる少女のことを見ているとそれも不思議と杞憂に思える。
窓を見上げて、虚空を見つめ続けるドラゴンを見上げる。 やはり、このまま見上げ続けても目が合うことがないのだろう、そうふと考えた。
扉から、冷蔵庫から鳴っていた音とはまるで別物の音が響いた。
俺と、そしておそらく少女も、迎えが来たのだとすぐに気づいた。
ソファから俺が立ち上がろうとすると、ここ数日の食事の不足からか貧血のように体が崩れそうになる。しかし、これで最期と言い聞かせて立ち上がる。
「行こう」
「……うん」
扉が開くと、数日前に俺をここまで連れてきた案内役と同じ顔が出迎えた。
そしてすぐに少女に気づいて、
「……またか」
そう呟いた。
俺がその呟きを、怪訝な表情で受け止めたのに気づいたのか、男はわざわざ説明し始めた。
「この施設はドラゴンの餌のために、一定数の人間を閉じ込められればいいからな。たまにいるんだよ、自殺のためにここに自分から入ってくる奴らが」
少女が何でこの施設に入ることができたのか、それを考えたこともあった。結局その謎は解けなかったが、そもそも施設の方にトリックがあるとは思わなかった。
つまり、この施設は来るもの拒まずということだろう。合理的とも思わなかったが一理あった。
「だがな」
男は話を続けた。
「二人なら一緒に逃げられる、とか。他の部屋にも余計に人がいるから助かる、とか考えるなよ。逃げさせない上、一部屋から一人、それが決まりだ」
「……わかってるよ」
元よりそんなことに期待していなかった。裏技に似たそんな発想も、わかっていても俺たちには選べなかっただろう。
「なら、いいがな」
そう言うと扉の前から退いて、俺たちに部屋から出ろと指示をしてくる。
恐怖していないといえば嘘になるが、それでもあの少女を思えば楽なものだと思い込む。
外界の空気は部屋よりも遥かに冷たく感じられた。
ドラゴンの住む空間と、この施設の内部を結ぶ扉にたどり着くまで、一歩一歩が普段よりもずっと重かった。
一歩後ろをついてきた少女がいなかったら、何回逃げ出していたことかわからない。無駄に年端を食っても、数日間とはいえこの事実と向き合い続けても、その感情を振り払うことはできなかった。
それでも、なんとか、たどり着いた。
廊下の、この施設のつきあたり。
扉があった。
この施設の壁はほとんどが病院のような、明るい白を基調とした色合いで塗られていた。ここに来るまでの廊下も例外なくそうなっていたが、その扉は深い黒で塗りつぶされつくされていた。
色だけが違う。デザインは両開きの戸となっていて、装飾も何もない。ただただ黒く、それ以上の何も刻まれていない。
視界の端に映るだけで、その異質を感じられるようで不気味だ。
「五分後だ」
俺たちをここまで先導してきた男が、高圧的にそう言い放った。その内容について深く聞くまでもない。それが俺の残された時間なのだろう。
「その時間になったらこの扉に入ってもらう。一度開いて、閉めたら数日間は開かないような仕組みだ」
男は言外に、直前になってどちらが死ぬのかを代えるな、と言っていた。そんな忠告も今の俺には意味が無いものだったが。
返事をせず、男に視線だけを向けていると男が口を開いた。軽く開かれたものではなく、少し悩んだ末のようにも見えた。
「その、なんだ。お前、今どんな気持ちなんだよ」
…………、ああ、と少し遅れて思い至った。こいつは部屋の入る直前の会話を鵜呑みにして聞いているらしい。
同時に思う。それをためらうといいうことは、こいつも口ほど軽薄な人間ではないのだろうと。そう思うとつい口が開いた。
「強がってはいるが、逃げ出したような気分だよ」
だが、とつなげた。
「こんな娘みたいな年齢の見届け人がいるからな、数分くらいは逃げずにいられる。それに少し前向きになれる」
依然後ろに付き添っている少女のほうへと視線を向けながら、そう言った。下を向いて長い黒髪によって目元を隠されていて表情はうかがえなかったが、それでいいと思った。
俺と少女はそんな、伝わっているようで伝わらない関係で十分だと。
「…………そんなもんか」
男はそんなことを、俺のほうを向かずに呟いたようだった。もしかしたらこの男にもいろいろ思うところがあるのかもしれない。
もう俺が知ることはできないけれども。
あとどれくらい時間が残っているか、しかし長い会話には向かないだろう。そんな確信はあった。
少女をもう一度見る。
初めて見た時、天使のように思えたことを思い出す。けれども、今となってはあまりそういった神秘性を見出せなかった。
メッキがはがれたのだろう。俺も彼女も。
「それじゃあ、……元気でな」
メッキがはがれて、言葉には何の特別性もない。等身大の……浅い人間としての自分が彼女にそう言った。
「おじさん」
少女が初めて顔を上げる。目線を閉ざしていた髪が重力によって裂かれて行って真珠のような瞳が露出した。
「今まで、ありがとう」
「……おう」
少女が手を伸ばした。別れの握手のつもりなんだろう。体に降れるのも嫌だった頃があって、けれども最後くらいは真っ当に触れ合ってもいい気がした。
一歩、少女に近づいて手を握ろうと伸ばした。
その手が、空を切った。
そして、目の前の人陰もいきなり縮んだ――――いや、しゃがんだのか――――そんなことを正しく判断する暇はなかった。
右のふくらはぎが燃えるように痛んだ。
一瞬遅れて、それが右足に何かが刺さったのだと気づいた。
「あ、っ? は」
言葉が正しく口から出ていかなかった。現実を認識することができなかった。けれども事実として俺の足は痛みと、空腹感と、それらに負けて床に倒れこんでいた。
痛みは、続いていた。
右足には三十センチにも満たないであろう、木製の…………櫛のようなものがふくらはぎに深く突き刺さっていた。
いや、見覚えがある。この櫛には。
「一晩かかったよ。それを作るのに」
頭上から声が降りかかってきた。聞き覚えのある声で、けれども内容はまったく想定していなかったものだった。
少女が、立っていた。
「昨日の夕食、譲ってくれなくても奪い取る気だった。おじさんが空腹で弱って、僕がしっかりと体力をつけなきゃ出来ないとおもったからさ」
「なに、を」
俺が聞きたいのはそんなミステリー小説の謎解きのような言葉ではない。それは彼女もわかっているはずなのに、少女は続けていく。
「あの部屋に何か一つくらい凶器があると思ったけど、飲料水の容器一つをとっても素材が柔らかかったりしてうまく使えなかった」
それは知っていた。最初は、今だって、俺はそれを自殺に使う凶器にされたらドラゴンに仕向ける人間が足りなくなるからだと思っていた。
「箸だってそのままじゃあ凶器にならない。きっと、こんな部屋に来る連中がわざわざ箸を削って凶器に変えるなんて思わなかったんだろうさ」
少女は続ける。
「確かに自分のためにはわざわざする気はない」
けど、他人のためにはできるよ。
少女はそう言った。そして、俺には――――遅くなったが、手遅れにしかならないが、少女の意図を察した。
「お前、初めからこうするつもりだったのか。言葉で説き伏せられたふりをして油断を指せて、結局自分が死のうと―――ー」
「違うっ」
静かな空間を震わすような、そんな叫びだった。
「おじさんが僕のことを叩いて、色々吐き出したとき、それならおじさんに死んでもらっても構わないと思ったっ」
少女の姿は何かと重なっているように見えた。痛みも感覚の外側に置いて、俺はそんなことを考えていた。
きっと少女を叩いたときの俺も、こんなふうに見えていたんだろう。
「でも、でもさ、たった数日なのに、全然立派なんかじゃない、そんな人なのに」
少女の瞳には、光が保たれていた。真珠の艶のようで見とれてしまいたくなるようだ。
「――――死んでほしくなくなったんだ」
勝手なことを、と思っても体は起き上がろうとしてくれなかった。衝動だけは体に収まらないほど膨らんでいるのに、そんな齟齬が無力感となって脳裏を刺す。
俺は、叫んだ。
「昨日、納得してくれたんじゃないのかっ。そうじゃないなら、何で言ってくれなかったっ」
こんなことを言っても結局実際に、少女が昨日俺にそう言っても、こうやって言い争いになるだけだとわかっている。そして、今の状況はもう変わりようがないということもわかっていた。
それでも、言いたかった。
「やっぱり、お前がわからない……。何なんだよ、お前は」
言葉は口に出せば出すほど、崩れ落ちて消えていくようだった。何の力も持っていないことを実感させられて気持ちが悪い。
少女を見ると、嬉しそうにはにかんでいるように見えた。これから死ぬというのに、俺とは正反対の反応を見せていた。
「おじさん、言ってたよね。人の死を背負いきれないって」
覚えている。そして、それを今から背負い続けていくことになるのが目に見えている。そんなんことをさせたくはないのに。
「僕、気付いたんだ。けっこうわがままなんだって。僕は、そんな形になってでもおじさんに覚えていてほしいって思うんだ」
俺には少女の言葉を聞くことしかできなくなっていた。
「ひどい話だけど、それでも。……お願い
続ける。
「おじさんに言ったよね。僕には生きる意味がないって、だから死ぬんだって。でも今は少し違うことを考えてるよ。確かに、今でも生きる意味は見つからなかったけど――――死ぬ意味を見つけられた」
そんなのは言葉遊びでしかない、そう言いたかった。
けれど、少女の瞳はそれを黙殺する。
「生きていてほしい人に生きてもらえて、記憶の中で生き続ける。それ以上のことはないよ」
俺にだってそれくらいは分かっていた。そのために、俺は今日の死を覚悟して過ごしてきたのだから。けれども、わかっているのに、遠かった。
「時間だね」
少女は地に倒れる俺を置いていって、一人で扉まで近づいていく。一歩一歩離れる距離はこの先永遠に埋まらない距離でもあった。
止まらない足、遠ざかる背中を死以上の残酷なものに、俺の目には映っていた。
もう届くのは言葉だけだろう。
それももう終わってしまう。
だから、言う。
伝えたいことはまだまだあって、文句や、異論は無限にあるように感じられた。弱音や、悲嘆だっていくらでもある。
けれど、口から出たのは一つ。
「ずっと忘れない、だから――――待っててくれ」
「――――うん」
そして、少女が扉に手をかけた。