上
「おら、さっさと歩け」
前方から、高圧的な声をかけられる。
無機質な白い廊下を男に従うようにして歩いていく。
少し前……いや、昨日までならそんな言葉に怒りを覚えていただろう。しかし、今の俺にはそんな気力もなかった。
相手の行動に興味をもたない。むしろ、これからのわが身に興味を持っている。
声の主は俺が無反応なことに気を悪くして、紐の端を持つ右手を大げさな動作とともに動かした。そして、その紐によって腰の部分を拘束されている俺は体を揺さぶられる。バランスを崩しかけるが、なんとか立ち続けた。
行動に怒りを覚えはしないが、それによって作業が滞るのは気に入らない。
「くだらないことをしていないで、さっさと連れていけ」
「…………屑が」
男は俺から目線を外した。
俺がそう言うと、そいつはそれ以上は余計なことをしなくなった。ただ、彼と俺とを結ぶリードを持って目的地に向かっていくだけ。
それだけを見れば事務的に見えるが、先導する男の背は苛立ちを隠しきれてないように見える。
それもそうだろう、男の心情を想像すると納得できる。
これから獣に食われて死ぬような男になめた口をたたかれたくなかっただろうから。
「……お前はなんでこんな目にあってんだ?」
相変わらずの高圧的な口調で俺に聞いてくる男。
その真意は見え透いている。この男は俺に、自分がどうしようもない人間だということを確認させたいのだ。
安い男だ。人生の最果てにいるような男にすら比較せずにはいられない。そして、自分の方が上だと実感せずにはいられないとは。
そう思っても、答えてやる。
「借金だ。別にドラマチックなことがあったわけじゃない」
馬鹿正直に答えることはないと思ったが、逆に言えば隠すほどのことでもない。相手の安い欲求程度答えてやろう。
流れに沿うように生きて、そうやってできた負債だ。何か特別な原因があったわけではない。
だからこそ、その事実に疑問は抱いていない。そして、あるがままに受け入れていた。
「……ほう」
思った通り、男の声色に優越感が染みていた。その様子は俺を不機嫌にさせるどころか、より一層の軽蔑の感情を持つだけだった。
俺たちは歩き続ける。
白い廊下はまだ続いていた。
男は続けて言った。
「なあ、どんな気分なんだ? これから殺されるってのは」
知りたくもないはずの男がそう言った。口を開くほど、この男の人間としての薄っぺらさが露呈しているようだ。
目的地まであと数分と言ったところだ。歩き続けるのは少々退屈なので、答えることにする。
「それを聞きたいのなら、三日後に来ればいい。殺される直前のほうが正確な気分がわかるからな」
適当に、形だけは返答をしておく。
「……ぜひ見たいものだぜ」
暗いトーンで男は言った。
自分の思うような会話にならなかったことで、興味を失ったのか男はこちらに目を向けずに歩き続けるようになった。
この男はどんな答えを期待していたのだろうか。おそらく、無様で情けないものだ。しかし、俺には……一緒に死ぬ奴もそうだろうが……そんな感情はまるで湧かなかった。
実感がまるでないのだ。
ギロチン、絞首台、拳銃、そのような凶器で殺されるならばイメージができる。
しかし、あの獣がどのように俺らを殺すのかの見当はつかなかった。食われる、といっても丸呑みにするのか、切り刻んで食べるのか、焼き殺しでもするのか。
全てが想像でしかない。
白い廊下は、ひとつの突当りに行きついた。
「ここだ」
その思考も、男の声で切り刻まれた。
五分くらいたっただろうか、俺たちは白い扉の前へとたどり着いていた。
無機質な白はどこか不気味で、この先の未来を投影しているように感じられた。そして、この先に広がっている空間も似たようなものなのだろう。
男が扉に手をかける。そして確認するように言う。
「三日後に迎えに来る。言わなくてもわかってると思うが、お前を殺すための搬送だ。逆に言えば、それまでは死なない。
「食事は定時になると運ばれてくるはずだ。自殺なんて考えるなよ。まあ、それをさせるような道具はないが」
男が説明したことはわかりきっていることだった。淡々と並べられて事実がどれだけ残酷なものでも、そこに驚きはなかった。
「わかってる」
そっけない俺の態度に男は舌打ちをする。そうしながらも男は俺の腰にかかった紐を解きにかかった。事務的な手つきで、手慣れているように見える。
「逃げようとしても無駄だ。麻酔銃で撃たれて、気付いたら部屋の中だ」
次は返事をしなかった。
一分もしないうちに男は腰の紐をとき終えた。そして、男が手にしていた薄い端末を操作する。
目の前の扉から音がした。おそらく開錠したのだ。
「最後に、もしお前が三日後の、儀式の後に生き残っていたらここを出ていって構わない。奴は多すぎても少なすぎても満足しない」
「……どうでもいい」
そう言って俺は扉に手をかける。
男の視線を背に受け続けながら俺は中へと入った。
今生の最後の会話かもしれなかったが、特に感慨もなかった。
いや、おそらく俺は……死について実感がないのだと、改めてその時思った。
後ろ手で扉を閉めようとすると、その時には自動で扉が閉ざされようとしていた。
男からの目線が扉で阻まれる。体の拘束が溶けたこともあって、開放感が体を支配した。もっともそれも三日間だけのことだが。
自由になった体を整備するようにして、軽く体を動かしながら部屋を観察する。
部屋の中は豪勢なものだった。外の世界では一部の人間でしか使えないような器具が大量に配置されていた。最後の晩餐を生活全般に適用したようなものだろうか。見たことのないようなものが多く置かれている。
ほかの部屋へと続くような扉も一つしかない。おそらく、トイレに続くものだ。後ろ手の扉も使えないことを考えると、ほぼ密室と言って差し支えのない部屋のようだった。
しかし、部屋は広くない。若者が、一人暮らしをするような広さ。その空間に豪勢な家具を並べているので少々手狭だ。
どこを見ても豪勢な品々が置かれている。
音楽再生機器、タブレット端末、昔の名画、古めかしい書物の詰まった本棚、ガラス製のシャングリラ。
一生を最後の三日間に凝縮したような暮らしができそうな、そんな設備が整っている。
そんな中で、ひとつ気になるものがあった。
部屋の壁に沿ってベッドが置かれている。シングルベッド、一人用の部屋なのでそれも当然だ。しかし、不可思議な点がある。
この部屋に入ったのは初めてだ。そして、だからこそこの部屋が何らかの特別性を持っているとしたら俺の知りえるところではない。
しかし、それでもおかしいのだ。
ベッドの上に山があった。
純白のシーツがこんもりと盛り上がっていた。このような形状のベッド? あるはずがない。間違いなく何かがあそこに入っている。
そしてそれは、冷蔵庫やクローゼット、本棚やその他の空間に幽閉できない類の物だということを示している。わざわざ適性の家具に入れずに、ベッドの上に積み上げておく必要があるものなんてあるはずがない。
豪勢な統一性が満ちているこの部屋で、そのふくらみはこの上なく歪な雰囲気を発していた。
少しの好奇心に突き動かされ、ベッドへ近づく。
シーツを右手でつまむ。何かがあった時に対応できるように気持ちを整えて、俺はその右手を大きく引いた。
鳥の羽ばたくような音がした。
シーツをまくり上げると、白い布の隙間からその姿が俺の目に映り始める。
眠っている少女がそこにはいた。
母親の膝で眠る赤子のように穏やかな表情をして、眠っている。
ここに自分以外の人間がいるとは聞いていなかった。いや、そもそもいていいのかすらわからない。少なくとも言えることは、あと三日で死ぬという血の気の多い未来には似合わない少女だったということだけだった。
いや、もしかしたら死体なのではないかと思い肌に触れる。
みずみずしい弾力が指に触れる。どうやら生きているようだった。見たところ少女の見た目は十数歳、年相応の感触だ。
と、そんな確認をしていると
「……うぅん」
そんな声を出しながら、彼女は体を起こした。
天使のような少女だと、そう思った。つやのある長い黒髪は彼女自身を真珠のような、精錬された人物だということを証明しているようだった。
その彼女は俺のことを見つめて、言った。
「おじさん、もしかして餌の人?」
そう言うと、目線を逸らして別の所へと目を向けた。何かに惹かれるようにして俺もそちらのほうを見つめた。
部屋の一角、唯一の窓がそこにはある。
その巨大な窓は空け放されていて、その先の景色が部屋の中から見つめることができた。
窓の向こうにはドラゴンがいた。
乾いた血液がしみ込んでしまったような鱗を全身に張り付け、高層ビルと同等の背丈を持っている。大きく広げられた両翼は、空にひびを入れる大斧のようだ。
異質だ、そう一目で理解できるほどの絶対的な存在が、窓を隔てて居座っている。
少女は続けていった。
「おじさんは幸運だね。だって、僕がおじさんの代わりに死ぬんだから」
あの怪物……ドラゴンがこの世界に現れたのは十年ほど前のことだ。
真紅の巨体に白銀の牙は世界の人間すべてを恐怖させ、敵対行動をとらせるには十分だった。しかし、ドラゴンはその全てを無効化した。
そして、決して反撃することなかった。
その事実は決して無害であることを意味していない。ドラゴンはこちらが何もせずに、人間たちが隔離していてもその隔離施設を破壊することはなかったが、その代わりに一定の人数の人間を要求した。
一か月に一度、決まった人数の人間を殺し、食らう。
それが異形の存在の唯一の特性だった。
それをしないと周囲にいる人間を引き寄せ、決まった人数を食らった。その人間たちは意識もなく、人形のように操られた状態で殺される。
原因や正体については一切判明しなかったが、世界は対処法だけを確立していた。
――――社会の屑どもを生贄に捧げるという方法を。
午後六時になると、部屋のどこからか機械的な音が鳴り始めた。
最初は何を意味しているかが分からなかったが、部屋のある大型の冷蔵庫が音に合わせて光っていて、それは食事が届いたことを意味していることを知った。
大型の冷蔵庫内には多くの飲料が入っていた。しかし、そのどれもが柔らかい材質の容器に入っていて凶器にはなりえないものだ。
そして、運ばれた食事は部屋と同様に豪勢なものだった。
その皿を取り出す――本来なら食欲をそそられるはずだが、不思議とその感覚は生まれなかった。絶対的な死を前にして生存本能が却って衰退しているのかもしれない。
それでも、この皿を取り出すまで部屋に鳴っている音や、この光も消えないと思って取り出して大きなテーブルに置いた。
「食うか?」
「別にいらないよ」
そうか、と言って俺もテーブルから離れる。
ソファに座っている少女。本棚から何冊か取り出した本を目の前のミニテーブルに積んで少しずつ消化しているらしい。
全くの平常運転だ。
俺は彼女と話すために、少女の座っているソファに腰かけた。程よい反発が体に作用して、体が癒されているのを感じる。
突然隣に座り込んだ俺のことを、少女は一瞬だけ目で追ったがそれ以上はしなかった。そして、再び手の中にある本の文字列を追い始める。
「お前、どういうつもりなんだ。ここがどこかわかってるのか?」
できるだけ威圧しないように、そう心がけて隣にいる少女に言った。
俺はどうしようもない男で、あと三日の命しかないが、この少女にはそう言った運命はないのだろう。わざわざ死なさせるほど俺も他人に無関心ではない。
初対面で「代わりに死ぬ」だの言われても、信じる信じない以前の問題だ。
「なあ」
一向に振り向かない彼女に、もう一度声をかける。
すると、目線すら向けずに声だけが返ってきた。
「おじさん、しつこいよ」
少女はそう返す。その言葉はどこかのらりくらりとしていて、のれんの手で押したような……肩すかしな気分にさせられてしまった。
心の座悪気をかみ殺して、言う。
「お前がさっさと素性を話してくれれば済む話だ」
「僕のことは話したよ。最初のあれで全てさ」
少女はあくまで、まともに取り合おうとはしない。自分のやることは全て終わったといわんばかりの、憮然とした態度を貫いていた。
埒が明かないとも思いつつ、言葉を交わす。
「代わりに死ぬだと? 見ず知らずの俺の代わりにか?」
疑問に思っていることを声に出す。
百歩譲って他人の代わりに目の前の少女が死ぬとして、その目的がわからなかった。特に、見ず知らずの男のためにすることではないだろう。そう思っている。
そんな俺の問いかけにも少女は大した反応を見せない。
「自惚れ、だね」
「なんだと」
端的に返される。
「自惚れだって言ったのさ。まさか自分が特別に選ばれるような人間だと考えたわけじゃないよね? おじさんの代わりに死ぬのは、この部屋がおじさんの部屋だったからさ」
「……なるほど」
貶されているというのは理解していた。しかし、そこに生まれる感情は怒りなどではなく深い納得だけだった。
少女は俺よりも先にこの部屋にいた。方法は知らない。可能かどうかさえ知らないが、ともかく少女はそれをしたのだった。そして、誰が来たとしても代わりに死のうとしていたのだろう。
代わりに死ぬ、それを可能にしてしまうほどにドラゴンは決まった人数しか食べないのだ。だから、普通はそれと同数だけ人間が集められる。
しかし。
俺には一つの正したいことがあった。
「お前は誰かの代わりに死ぬといったが――――悪いな」
少女の読んでいた本を取り上げ、彼女の瞳をしっかりと見つめて言う。
「俺の代わりにお前を死なせるわけにはいかない」
「…………えっ」
初めて少女の言葉を聞いた時から決めていたことだった。そして、その感情は今でも変わらずに持ち続けている。
「ちょ、ちょっと待ってよ。せっかく僕が代わりに死ぬって言ってるんだ。……助かるんだよ? ここから出たら自由じゃないか」
少女はこちらを向いてそう言った。
瞳にはわかりやすく動揺の色が浮かんでいて、その変貌に少しだけ優越感が心に沸いたk¥ことを感じていた。
できるだけその感情を知られないようにして話す。
「誰にも関係なく、ただ助かるならば納得のしようはある。だが、自分の代わりにだれかが死ぬのは気に入らない」
何となくそう思っていた。
どんな理不尽だとしても、自分が死ぬ羽目に陥ったのは自身のせいだと思う。そして、そのツケは自身で払うべきだ。
なにより、よく知らない目の前の少女の命を犠牲にするのは気持ちのいいものではない。
「僕が自分から死ぬだけなんだからさ、気にする必要はないよ」
少女はそれでも、頑なにそれを繰り返した。
「そんな事情は知らん。俺の命くらい、自分でけりをつける」
「……強情だね、おじさん」
同感だ、そう言ってやってもいいだろう。
少女が軽く空気を吸う、そして何かをつづけて口に使用としているようだった。
しかし、代わりに聞こえてきたのはおなかが鳴る音だった。
それも、少女の。
「……どっちが死ぬかはともかく、何か食べたらどうだ」
「……そうだね、どうせどちらかは生き残ってしまう」
彼女の腹の音に共鳴したのか、空腹感が突然湧いてきて俺のことを刺激する。同でいい機会だと思って、テーブルに置いた一人分の食事を見にテーブルまで運びに行く。
どちらかが死ぬのだ。
三日後、いや、その期間も数時間は消費している。
それでも……今の生命を裏付けるように空腹感は体をむしばんでいた。
今の俺たちは死ぬために生きなければならない、と。
「先に食べていいぞ」
「そちらこそ」
「俺は良いんだよ。お前が食べろ」
「おじさんこそ」
互いを思いやっているわけではなく、自身の死を望んでの会話。どこまでも空虚で灰色に染められたそんな会話に、どこか楽しさを感じてしまっているのはなぜだろうか。
そして、その感情を相手にも持って欲しいと思うのは傲慢だろうか。
わかったのは、この豪勢な部屋で明らかに欠けているものがあること。
窓の向こうのドラゴンは何を思っているだろうか。