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第4 小作の子ゴボルに示された名を知らぬ神の栄光

 ゴボルは彼の産まれた土地の神々を到底信じることができなかった。しかしながら、彼はその父ナチムのように万物に望みを持たずに生きることもなかったし、物質文明を生きる多くの人々のように人間の理性や意思のみを頼みに生きることもできなかった。

 それでは、彼は何に依って、ナチムの荒れ野において自らの精神生活を送っていたか。彼は名を知らぬ神に絶えず祈っていた。その神は木々や石など自然物を住まいとすることもなければ、人間の機嫌取りに応えて富と安寧を保障する神でもなかった。苦悩に喘ぐゴボルをただ悲しそうな目で見つめ、いつの日か彼の願いを容れてくれることを約束してくれる、まことに不可思議な神であった。

 「いつの日か」とは、いつか。それはゴボルにも分からなかった。あるいは、その日は自分の生きているうちに訪れないかもしれない。彼はそう考えていた。それでも彼はこの名を知らぬ神に祈らずにはいられなかった。その日が彼の生きている頃には訪れなくとも、彼は一向に構わなかった。たとえ彼が息を引き取った後であっても、名を知らぬ神はゴボル自身が思いもよらぬ方法で彼の願いを聞き入れるであろうと、彼は信じていた。


 ゴボルが9つになった年のことである。

 ゴボルの父ナチムは自分の農地の種まきを一とおり終え、例年のように地主の畑に赴いてノポソ栽培を手伝っていた。

 ノポソは育ちにくい作物であり、狭い土地に密集して育てると苗に十分な養分が行き届かず収穫が見込めない。そのため、農地に蒔くべきノポソの種の量は、地主が年ごとに計算して定めていた。そして、小作頭がその年に蒔くべきノポソの種の量を伝え聞いた上で、各小作が受け持つ農地の広さごとに割り振って種袋を与えていたのである。

 ゴボルの父ナチムは、この小作頭のことを無性に嫌っていた。小作頭がとりたてて横柄な態度を取るわけでもなかったが、ゴボルの父ナチムの目には妙に偉ぶっているように映ったのかもしれない。ともかく、ゴボルの父ナチムは小作頭に対し、常にまして無愛想で言葉少なであった。

 「ギデムの子ゴボル、今年のあんたの受け持ちは東の山から数えて3本目の杭から5本目の杭の間だったな。」

 ゴボルの父ナチムの返事はなかった。

 かねてより彼は、3本目の杭から5本目の杭の間までの仕事では、一家の生活に十分な小作料を得ることができないのではないか、自分が受け持つ農地は3本目の杭から6本目の杭までの間に増やしてもらうべきではないか、と考えていた。

地主のノポソ畑の傍には、各小作の受け持つ土地の分の目印として一定の間隔を置いて杭が立てられていた。この杭を基準として、各小作が受け持つ農地の広さと、それに見合った小作料が決められていた。

 もっとも、口下手な彼は、地主や小作頭あるいは他の小作たちに、受け持つ農地の広さを増やしてもらえないかと相談したことがなかった。

 「おい、返事をせんか。」

 しびれを切らした小作頭に、ゴボルの父ナチムは答えた。

 「6本目だ。」

 「6本目?お前の受け持ちはいつも5本目までだろう。」

 「今年は増やしてもらう。だから、6本目だ。」

 「そんな話、わしゃ聞いておらんぞ。種袋は5本目までしか渡せんな。」

 小作頭の言葉を聞くや否や、ゴボルの父ナチムは種袋を受け取ることなく、ひどい辱めを受けたかのように顔を真っ赤にして、どこへともなく駆け出していった。

「ナチム、どこへ行く!ナチム!」

 その場を逃げ出した彼を呼び止める小作頭の声は聞こえていたが、彼は聞こえぬふりをした。無論、ゴボルの父ナチム自身、前もっての相談もなしに受け持つ仕事の量を増やしてくれと申し出ても無理な話であること、自分の申し出を拒んだ小作頭に非がないことを十分理解していた。ただ、前もって他人に相談できないのが彼の性分であり、とりわけ普段から苦手としている小作頭に自分から頭を下げに行くことなどできなかったのである。


 その日の夕方、ゴボルの一家は、ナチムが地主の畑を遁走したことを、村人の噂によって知った。

 ゴボルの母すなわちナチムの妻は、隣家の女から、半ばナチム一家を案ずる気持ちから、半ば好奇心から、「ねえ、お宅の主人、旦那様の畑仕事をほっぽり出して帰ってきたって本当なの?」と尋ねられたところ、目を回して「ヒャーッ!」と頓狂な叫びを上げた。

 彼女は頭の働きが鈍かったとはいえ、地主から言いつけられた仕事を放り出して遁走することの重大さは知っていた。地主の家から逃げ出した奴婢が公衆の面前で叩きのめされ、血まみれになったまま引きずり戻される様子を嫁入り前に見たことがあり、彼女はそれを覚えていたのである。


 とうとう晩になっても父ナチムは家に戻らなかった。

 ゴボルの母は外に出て夫を探しに行くでも、隣人や親類に夫の捜索を願い出るでもなく、ただ鍋や柄杓などとにかく近くにあったものを手に手にとって家の周りを早足でぐるぐる歩きまわったり、地面にいきなりへたり込んで「あーっ、あーっ」と鴉のように呻いたりして、無為に時間を費やすばかりであった。彼女は不測の事態に為すべき手段を講じる能力を全く欠いていた。

 そうして無意味な動作をひとしきり繰り返した挙句、ゴボルの母は疲れ切って勝手に眠りについてしまった。

 母がこのような有り様で食事の用意をしなかったから、ゴボルはその夕食にありつけなかった。彼は子どもながらに鋭い直感と智慧を持っていたので、父は逃げてそのまま村人の足が及ばない山の奥深くに隠れてしまったのだろうと、すぐさま悟った。父ナチムがいっときの衝動に任せてそのような子どもじみた無謀をはたらきかねない人物であることを、息子ゴボルはよく知っていた。あるいは、今頃、父は崖から足を滑らせて転落してしまったか、山の獣の餌食となっているかもしれない。

 その晩、ゴボルはいびきを立てる母の傍らで一睡も出来なかった。彼は夜どおし恐怖と空腹のうちに、どうか父を救い給え、と名を知らぬ神に祈っていた。


 明くる朝、父ナチムは、ふらふらした足取りで家に帰った。ゴボルの直感どおり山に分け入って洞穴にでも潜んでいたようで、彼の体は朝露に濡れ、黒い土と木々の葉の切れ端でひどく汚れていた。小さな切り傷を無数が出来て、ところどころから血を流す痛々しい有り様だったが、幸いなことに大事はないようであった。

 彼は、その無事生きて還った姿に息を呑み声を失う妻子を無言でひととおり縄で打ちのめした後、食事もとらずに床に倒れこむようにそのまま寝入ってしまった。どんなに憔悴していても、妻子を打ちのめす時だけは彼の体に不思議と気力がよみがえるようであった。


 結局、ゴボルの父ナチムが地主に厳しく罰せられることはなかった。

 ナチムは10回の鞭打ちを受けただけで再び小作として復帰することができた。これは地主が特別に憐れみ深い人物であったからというよりは、畑作業に人手が足りていなかったためであった。

 彼にさんざん迷惑を掛けられた小作頭や他の小作たちは「よくも戻ってこられたな!」と言わんばかりの白い目で彼を見たが、例の遁走以来父ナチムは人一倍仕事を黙々とこなすようになったので、やがて小作たちは何事もなかったかのように彼の存在を受け容れた。

 ゴボルはこの頃の父の姿を鮮明に記憶していた。彼は物言わず働く父の姿を見て、名を知らぬ神の力のはたらきを確信し、その人智を超えた業を讃えずにはいられなかった。

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