第3 盆地ナチムにおける人々の果敢ない営み
さて、ナチムの子ゴボルがオミナトで私たち聖アンブロジオ修道会と出会い、神のしもべマリア・ミゲル・インマクラーダとなるまでの軌跡を記すにあたり、彼が過ごした盆地ナチムにおける人々の生活一般について触れる必要がある。
盆地ナチムはオミナトの太守セモリキ氏の領地として各種の公文書に記されていたが、その実質はセモリキ氏の統治権の及ばない自治独立の地であった。というより、セモリキ氏からもその他の権力者からも見捨てられた未開の蛮地というのが正しいところであったかもしれない。その地に生きる人々が食いつなぐための農作物と、商取引の目的にはなり得ない手工のほかには、何もなかったのである。
そこには組織化された統治機構も、整備された法体系もなく、大規模な貨物の運送を可能とする経路も、便利な建物も、多くの力を必要とするような物を運搬し移動する道具も、地表面に関する知識もなかった。人々はごく粗末な農耕の方法しか持たず、地主やたまに取引に来る商人など少数の者を除けば、文字や年暦の計算を知る者はなかった。
こうして盆地ナチムの人々は外に張り巡らされた物流と情報の網目から取り残されて、自らの小さく閉じられた世界の中で生まれ、子を産み、死んでいったのである。
彼らはこの世の繁栄も災厄もその地の木々や石などに棲む神々の所業と考えた。神々が機嫌を損ねれば洪水や日照りをもたらすので、神々の機嫌を取ることを絶えず心がけていた。その神々の名はナチマ、ギデマ、オベレド、アレシュなどといい、それぞれ豊穣と災禍、男女の交合、人間の生と死、流行病を司る神とされていた。彼らの神々は彼らに道徳を与えなかった。神々は人間の不品行を罰せず、人間の在り方に無関心であった。ただ暴力的な死や無軌道な破壊と簒奪に対する本能的な恐怖だけが、彼らにごく最小限の道徳と秩序を教えていた。
また、盆地ナチムの民は彼らの父祖がどこから来て、どのように生きて死んでいったか、誰も知らなかった。彼らの来歴を語る物語も神話も残されておらず、また、そのことを誰も気に留めなかった。彼らの宗教には死後の世界の観念がなく、ただこの世の生を苦痛を避けて全うすることだけを関心事としていた。いわば盆地ナチムの人々には過去も未来もなく、現在があるのみであった。
この盆地には川も湖もないため、人々は貯水に大変苦労した。そのくせ雨はよく降り、時に降り続いて農作物を根腐れさせていた。湿り気の多い土地で至る所に沼地があり、沼で発生した小さな虫達が病を媒介し、不衛生な生活と相まってたびたび人を死に追いやった。土地の人々はモソと呼ばれる一種のヒエのような植物を栽培し、それを粥ともスープともつかないどろどろの状態に煮炊きして野鳥や虫の死骸などとともに食していた。それが彼らの日々の糧であった。
自分と家族の食い扶持以外の作物を育てるだけの土地を持つ一握りの者は、モソのほかにノポソという作物を植えていた。ノポソの種子は油脂の元となり、この土地の外から来る者との間でほぼ唯一交換可能な価値を有する財となっていた(彼らの主食であるモソは他の土地の人間にとって価値のない草の実でしかなかった。)。
そして取引の仕方を知らない盆地ナチムの富める者たちは、時おり外から訪れる商人からモソの種と引き換えに、わずかな量の干し肉や干し魚、あるいは訳の分からない石ころだの貝殻を手にした。これらの貴重品は土地の神々に捧げる慰み物とされた。このようにして神々に奉納される宝物は富める者たちの繁栄の秘訣とされていた。
モソの収穫はちょうど秋分の頃に行われた。人々が収穫を終えると、次の年の無事と豊作を神々に願う祭儀が催された。見るべき供物を持たない民にとっては、この祭が神々の機嫌を取る唯一の機会だった。
この時、人々は神の寄り合い場とされる大岩の周りに集い、神々に向かって、野卑な歌や、裸で行う格闘技や、筋書きの決まった芝居のようなものを披露した。
芝居の筋書きにはいくつか種類があったが、たとえば次のようなものであった。若い男がある晩に意中の娘の家に忍び入って交合を遂げたところ、朝が来て日の光のもとで女の顔を見てみると、昨夜抱いた相手は彼女の母親で、それも娘と似つかぬ醜女だった、というものである。こうした芝居は木彫の仮面を付けた若者によって下卑た歌や踊りとともに演じられ、村の衆と神々の笑いを誘った。ゴボルの母は未婚時代にこの醜い母親役を披露し、生来の間の抜けた仕草で大変な喝采と笑いを集めていた、とゴボルは村の者から耳にしていた。
年に一度の祭は村人たちの数少ない楽しみであったが、ゴボルとその父ナチムにはひどく苦痛であった。コボルの父ナチムはもとより歌や踊りに何の楽しみも見出さず(というより、何を楽しみに生きているのか分からない男であった。)、ゴボルが産まれた頃には既に神々への信心を持たなかったので、彼にとって村の祭儀は単なる徒労でしかなかった。ただ、祭の手伝いをしない者は村の交わりから絶たれてしまうので、しぶしぶ大岩を囲んで芝居の囃子や歌の合いの手に加わっていた。
ゴボルはというと、今思えばこれは彼に与えられた賜物であったが、こうした下劣な催し物に堪えられない感受性を持っていた。
周囲のませた少年たちなどは、男女の交合を模した芝居の様子をゴボルに指さして示し、にやけた顔で「おいゴボ、あれがなんだか知ってるか?お前のおやじとおふくろは、ああやってお前をこしらえたんだぜ。」などと問いゴボルをからかった。そのような場合、ゴボルはとっさに耳を手で塞ぎ、彼らの心ない仕打ちをやり過ごそうとした。
ところが、たちの悪い村の若い衆などは羞恥心を露わにするゴボルを面白がって、ゴボルの目の前で自ら卑猥な仕草を真似てみせた。そうして彼らはゴボルを嘲り笑い、その純真な心をひどく傷つけた。
このような次第で、ゴボルは父と同じく、他の村人たちが奉じる神々に信心を抱かない人間に育った。
いつしか彼は、下劣な催し物を喜ぶ神々の歓心を得て繁栄と長寿を得るよりは、寧ろ神々の怒りを買って死んだほうがましだと考えるようになっていた。