おやすみなさい
Ⅸ おやすみなさい
僕らは塀の傍に戻って、ありすを塀の上に乗せる作業に取り掛かった。
背の高い塀の上に乗せるのは降ろすことよりも苦労して、三人がかりでありすを乗せてあげた。
「そんなに重い?」
ありすが怪訝な顔で聞いてきたので、僕はそんなことないと呟いた。
重力に勝てないだけだとは思ったけど、そんなことは言えやしない。
「ありがとう、三人とも。我がままかもしれないけどもう一つお願いしてもいい?」
「親を探してほしいとかじゃないよな」
「あ、それいいかも」
ありすのけたけたと笑う姿に、服部は苦虫を噛み潰した表情になった。
僕らも少しだけ、じろりと服部を睨みつけた。
「でも、それはいいや。会っても何にもならなさそうだから――タローと二人きりで話させてほしいの」
僕の名前が出てきたのでふいに手を震わせた。服部と湊の表情は見えなかった。
「俺はいいけど。湊は?」
「私もいい。けど、私からもお願いしていい?」
湊はそう言ってありすの目の前で人差し指をびっと指した。
人に指を向けてはいけないと言われ続けているが、彼女は小学校の頃からずっとこれを癖としていた。
「タローに嫌なことされたらすぐ大声で叫んでよね」
僕は湊の言葉にぎょっとしてしまった。どうしてこうも女の子は仲良くなるといきなり結束力が異常に強くなるのだろうか。
慌てて服部を見ると、彼は愉快そうに右頬をくっと上げているだけだった。
「と言うわけで、ありす、またね」
湊はそう言って塀から離れて行った。それに続くように服部も手をひらりと上げてさっさと去って行った。
「いい友達じゃない」
ありすは手を振りながらそう言って僕を見下ろした。
先ほどまで視線を合わせていたのが嘘のようだ。世界が一気に隔てられた感覚がして僕は少したじろいでしまう。
「うん、いい友達だ」
「こんな友達がいるんだから、大丈夫だよね」
「大丈夫って……ありす、なにを」
言いたいんだ。
そう言おうと思ったが言葉が失われた。
なにを言おうとしているのかは尋ねなくても分かる。
「タローは友達もいるし、美味しいものも食べたし、私がいた場所にも行けたし……うん、悔いはあんまり残ってないかな」
「ありす、待って」
僕はありすに向けて手のひらを向けていた。
ありすはすっとぼけた表情で僕を見ている。初めて会った時の子供か大人か分からないような顔立ちだった。
「僕はありすが好きなんだ。昔からずっと好きだったんだ。答えはいいえでもいい。ここにいるだけでいいから。だから」
最後の言葉は途切れてしまった。
なにを言うべきなのかが分からずに頭がぼうっとする。だけど、これが昔から一番伝えたかった言葉なのだ。
ありすはしばらく僕を見つめていたが、やがて力なく笑った。
「嬉しい。とっても嬉しい……だけど無理なんだ。私はタローを愛せない。彫刻は愛されても愛することはできないの。なかなか酷よね」
「愛してくれなくっていい。そこにいてほしいんだ」
自然と僕は懇願していた。
頭が朦朧としていたのは、涙が滲んでいたせいなのだろうか。
こんな臭い台詞はそうそうこの生涯で言うことはないだろうが、今はその言葉を使ってでもありすを引き止めたかったのだ。
「タローは現実世界を生きるべきだと思うの。私と一緒にいたら、夢の世界から逃げられなくなるわよ」
「それでもいい」
「ソータやユーキにも会えなくなるけど、それでもいいと言えるの?」
ああ、言えるさ。
そう言いたかった。
しかし、何故かこの瞬間、言葉が詰まってしまったのだ。
ありすに出会った直後ならきっとすぐに答えが言えるはずなのに。
服部が浮かべた無の表情、僕が彼女を押してしまった時の「どうして」と言わんばかりの困惑した湊の顔が克明に浮かび上がる。
彼らは、僕を現実世界に引き戻そうと試みていたのだろうか。
ありすに会ってから……いや、アリスに会ってからずっと。
たとえ、人づきあいが苦手で、感情表現が下手な僕を、湊や服部はそれでも完全に突き放すことはなかったのだ。
――今でも、彼らは僕のことを現実に繋ぎとめようとしている。
喉を断ち切ろうと思ってもできない。
カッターが僕の喉から離れていくような感覚がした。
「――それって、なかなか酷じゃないか」
振り絞って答えた言葉は先ほど聞いたことがある言葉だった。
ありすはそれでいい、と真面目な表情で呟いた。
「そろそろいいかな。ひと眠りしようと思うの」
「今度はどこに行くの?」
ありすは笑っていた。
笑っていたけれどその真意は僕にも、この世界の誰にもわからないだろう。
「夢の世界にでも行って来るわ」
そう言うと同時にありすの体はがくんと揺れて斜め三五度に折れた。
目線が降りて彼女と再び目を合わせることとなった。彼女の灰色に似た瞳が僕の目を射止める。
「もう一つだけ。ブドーだっけ? 食べてみなよ。今ならきっと美味しいと思うはずだよ」
僕が首を傾げた瞬間には、もう彼女の思い残しはなくなっていたようだった。
笑みを浮かべたまま目を瞑り、静かにコンクリート塀から体を離していく。
時間を遅れさせているかのように、ゆっくりと宙に浮かび、重力に任せて沈んでいく。
これ以上、見ることはできない。
恋人の死に際を看取る、というのをドラマでよく見たことがあったが、それは僕には辛いことに思えた。
それに、彼女の夢の世界を僕は見てはいけないのだ。
僕は目を背けて、コンクリート塀から一歩だけ下がった。
ぱりん、という鋭い音が聞こえて、僕はゆっくりと目を開けた。