みんなで
Ⅷ みんなで
あの日、僕は服部と一緒に美術館に向かった。
アリスはもしかしたら生きているのかもしれないと薄々思っている自分がいたのだ。
のんびりと歩いている服部を通り抜けてアリスがいたところに向かった。
展覧会自体が終わっていて、周りの彫刻もいなくなっていた。そしてアリスがいた場所には冴えない青い絵が飾ってあるだけだった。
僕はその時、もうアリスはいなくなってしまったことに改めて気づいた。
絶望のまま、絵から目をそむけると、なにかつるりとした欠片が落ちていた。
僕はそれを手に取った。思ったよりも重く、鋭いことに驚いて落としかけた。
しかし、僕にはこの欠片の美しさに見覚えがあった。ずっと見つめ続け、焦がれ続けていたからすぐに分かったのだ。
――これは僕が好きだった彼女の一部だと。
誰も見ていないことを願って、僕はアリスを大切にポケットに忍ばせた。
その後は、美術館の椅子に座っていた服部の元に飛んで行って、僕は帰ろうと言った。
服部は「はやっ」と呟いただけでなにも言及せず、すぐに僕らは美術館から出て行った。
服部と別れた後に、近所の裏通りでポケットから、アリスを取り出して見つめる。
彼女とは美術館の時には触れることができなかったので、僕の心臓は自然と高まりを増していった。
美術館の彼女も魅力的だったが、ずっと肌身離さずいられるというのも悪くないかもしれない……と。
「なにしてんの、タロー」
そんな感傷に浸っているところで声がかかった。張りのある声は仁王立ちをして僕を見つめていた。
少年かと見間違うほどのショートカットと短パンとタンクトップ姿。まだ年端もいかない湊有希の姿だった。
慌ててポケットにアリスを入れようと思ったが、湊は見逃さなかった。湊はすぐに僕から咄嗟に、しかも、力強くアリスをむんずと取り上げた。
「なにこれ。石ころじゃん」
「か、返してよ」
大きな声を出そうとしたが元からあまり声を出していないので、声が咄嗟に出ることはなかった。
湊はアリスを握りしめていた。
その瞬間、痛いっと彼女は声をあげた。彼女が少し手を開くと真っ白い手のひらには傷がついていた。
アリスを石ころなんて言った罰だと僕は思った。
だけど、僕の大丈夫、と言う声が聞けなかったからなのか。彼女は一気に顔をしかめた。
「こんな石ころだいじにするとか、バッカみたい」
僕の倍以上の声量でそう言うと、湊はぽいと明後日の方向へと放り投げた。
がつんという音が聞こえたが僕にはどこに落ちてしまったのかは見えなかった。
それを見た瞬間、驚いて僕はその明後日の方向に一歩踏み出したが、どこに行ったのか分からないと悟った時、わぁと、おぉが混ざった雄たけびのような叫びを上げて、声に驚いた湊を突き飛ばしていた。
「有希のバカッ、有希のバカッ!」
叫んでいたのはそんな言葉だっただろうか、あまり覚えていなかった。
しかしその拍子に湊は頭を強打し、僕はまた救急車を見ることとなってしまったのだった。
今考えれば、それ以降、湊とは喋る機会を失ってしまったような気がしてならない。
学校でも冒険ごっこに付き合わされるということはなくなった。小中学校ずっと一緒だったが同じクラスになるということもなく、僕と湊はお互い反発する磁石のように離れて行った。
僕は何度もアリスを探していたが、結局見つかることは無かった。
そして、時は流れ、中学校から塾の忙しさが増して、アリスへの思いは冷めていくこととなった。
でも、心の奥底では、やはり忘れていなかったのだろうか。
「それにしてもビックリしたなぁ」
しばらくの沈黙を破ったのはありすの方だった。
驚くぐらい他人事のような口調で僕は拍子抜けしてしまった。しかし、どことなく昔を懐かしむような声色でもあった。
「急に自分が壊れたんだもん。それでもって投げられて、塀に不時着して。しかもそこは熱いし寒いし、雨も降れば風も吹く。災難以外の何物でもないよね」
「ありすは幽霊なの?」
「幽霊は嫌だな。精霊とかそっちの方がいいかもね」
僕が首を傾げている間、ありすはクスクスと笑っていた。
精霊か……イマジナリーフレンドみたいなものだろうか。僕にはその意味合いがよく分からなかった。
「ほら予想通りだ」
突如、背後で声がしたと同時に現れたのはジャージ姿の服部と、水色のTシャツに青いミニスカートの湊だった。
湊は僕と目を合わさず、近くのカーブミラーで僕らを見つめていた。
「ソータとユーキ」
ありすが手を振ると、服部はよう、と軽く手をあげた。湊は少しだけ困惑したように苦笑していた。
「俺の言ったとおりだろ、宇佐はここに来るってな」
「私だってわかってた。口に出さないだけで」
「どーだかな。俺、こう見えて理性派だ。野原で雑草をなにかの薬草だと思って食っていた誰かさんと違ってな」
「う、うるさいな、昔の話を掘り返さないで」
他愛もない服部と湊の会話に思わず口元が緩んでしまったが慌てて唇を結んだ。
ありすだけは、僕の様子を見つめていたようで彼女とも目を逸らした。
「ところで、どうして答えが分かったの?」
「大体、俺のおかげ。直感が働いた」
僕が理由を言おうとすると、服部が自分を指してにやりと笑った。
自分の疑問は自分で解決するように話したかったが、確かに本当のことなので何も言えなかった。
一方のありすは、聞いてきたのは自分なのに、へぇと興味がなさそうな口調で呟いた。
「と言うか、あんたさ」
唐突にありすに話しかけてきたのは湊だった。
また悶着が起こるのかと僕は身構えたが、ありすは彼女が発する次の言葉に興味津津らしくじっと湊を見つめていた。
「なんで私のことユーキって言うの? 私はユキなんだけど」
「そうなの? だって、タローがユーキユーキって言ってたから」
今度は僕に視線が注がれた。
身に覚えが無かったため、僕はありすと湊、湊とありすというように目線を泳がせた。湊は驚いた顔つきに一瞬なった後、あぁと納得の声をあげた。
「あんたそういや小学校の頃、私を呼ぶときにユーキっていう発音じゃなかった?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。いつも言ってた。訂正してもずっとユーキって呼んでいた」
僕は一瞬、記憶を手繰り寄せて湊の呼び方を思い出す。だけど、どう呼んでいたかは思いだせなかった。
「ごめん、覚えてない」
「ふうん……そっか……」
怒られるかと思って身を竦めようとしたが、湊はあっさりと引きさがった。
彼女の一瞬の顔を僕は見逃さなかった。寂しげで諦めを帯びていた。しかし、それでいて思いだしてほしいという複雑な声色や表情だった。
その姿に僕はどきりとして、ありすを咄嗟に見てしまった。
「ユキ、って呼んだ方がいい?」
「ううん、ユーキでいい」
ありすの問いに湊は微笑しながらそう言った。
すると、服部がちらりと何か物を言いたげに僕のほうを一瞥したような気がした。
「じゃあ、ユーキ、タロー、ソータ。お願いがあるんだけど」
ありすの声に一斉に僕らは塀の上を見た。ありすは少し瞳を伏せて首を左右にころころと傾げていた。
「私、元の場所に行きたいんだよね」
元の場所、美術館のことだ。僕らは顔を見合わせた。
「どうして?」
「どうしても」
「今から?」
「すぐ連れて行ってほしいの」
「ふーん……故郷に帰るって意味かな。じゃあ早速行った方がいいんじゃないのか」
服部が腕時計を見てそう呟いた。僕も咄嗟に腕時計を見ると8:00を示していた。
九時に美術館は開く。月曜日が休館なため日曜日はやっていたはずだ。
しかし、ありすは不満げな顔をして塀をたんと鳴らす。
「私、ここから動けないの」
「どういうことよ、それ」
「そのまんまの意味よ」
ありすのぶっきらぼうで能天気な言い方に、湊は少し眉間に皺を寄せていたが、彼女はしばらく顎を手において考え始めた。
「あんたたちが、あいつをおぶっていくってのは?」
「僕たちが?」
「だって男でしょうが」
僕と服部は互いに顔を見合わせて少しため息をついた。
男女差別じゃないのかと言おうと思ったがそんなことは言ったら美術館を行く前に僕らはへばってしまうだろうと咄嗟に思った。僕は渋々ながらも塀を背に向ける。
「ありす、僕の肩に手をのせて」
「はーい」
生返事とともにありすが僕の両肩と背中に体重を乗せた。
なんだかんだ言って自分も思春期を迎えた男だから女の子なんて軽いものだと思っていた。それに、彼女を連れていくのは僕の役目だとカッコいいところを見せようとしていたのだ。
しかし、起こったのは言うまでもない。
僕は地面に膝をがくんとぶつかってしまった。
当然ありすも落っこちそうになったが、服部と湊が慌てて抱えたため彼女に怪我はなかった。僕だけが少しだけ膝を擦りむいてしまった。そして抱えられたありすは仏頂面でこう呟いた。
「女の子に失礼だよ、タロー」
結局、服部がありすをおんぶして僕らは美術館へと向かった。
さすが運動部ということもあり、坂道は少し辛そうだったが、息は僕よりも切れていなかった。
簡素な店が並ぶ通りに入ったため、少しだけ人がちらほらと見られた。しかし、まだ朝と言うこともあり、まだ開いていない店が多かった。
「あそこの店、懐かしいなぁ。よくお母さんと来たっけ」
「マロン・コーナー?」
「シュークリームが美味しいんだよね。宇佐美も好きだったでしょ」
「あ、あのカスタードクリームの?」
「そうそれ……あ、ちょっと待って」
湊はそう言うと、横断歩道を渡ってマロン・コーナーの看板の店へと颯爽と入って行った。
僕らは近くにある公共のベンチに座った。
こういうベンチを座るのはお年寄りだけだと思っていたので少し新鮮だった。服部はそっとありすをおろして座らせてあげた。
「塀以外のところで座るの初めて。たまにはこういうところもいいね」
ありすは満足げに足を揺らしていた。
ふとここで僕はありすと目線を初めて合わせたのだ。僕よりも一回りも小柄で貧弱な体つきであった。
しばらく待っていると、湊が袋を掲げて戻って来た。
「おまたせ。カスタード三つとチョコレート一つ。好きなの取って」
湊は袋を開けてありすに見せてあげた。
ありすは目を丸くしていたが、じぃっと袋の中を食い入るように見ていた。
「じゃあ、これ」
「はい、カスタードね」
湊はありすにシュークリームを手渡した。
ありすは壊れ物を扱う様に両手を出してシュークリームを手の中におさめていた。そして、ありすはじぃっと今度は湊を見ていた。
「ずっと塀の上にいたんでしょ? なら、たまには美味しいものの一つや二つは食べておかないと」
そう言って湊は屈託のない笑みを見せた。不器用なありすの笑みと違い、こちらは花が咲いた笑顔だった。
服部は生粋の甘党のため真っ先にチョコレートを取り、僕と湊はカスタードを食べた。
久しぶりに食べたシュークリームは齧りついた瞬間にクリームが溢れだして少し慌ててしまった。
それでもカスタードは濃密で、シューの部分もしっとりしていてとても美味しかった。
最初、ありすは不思議そうにシュークリームを眺めていた。
それでも、僕らを見ているうちに何をするのかが分かったらしく、口に運んで一口食べ始めた。そして二口三口と貪る。
「美味しいってこういう意味なんだね」
ありすはそう言って僕らを見て笑った。ありすの口元にはピエロのようにカスタードがべっとりとついていた。
僕はその姿を見て胸がドキリとした。
ありすと僕と生きている世界が違うことを、当たり前ながら初めて感じたのだった。
「ここなの?」
ベンチを後にして再び歩き始めていると、ありすが首を傾げて指をさした。
その拍子で服部が少しよろめいたので僕と湊は身構えて服部と彼女を支えた。
僕らの町の美術館は今でも変わらず、少し近未来的な銀色ベースの建物だった。目印として鳩とハートの彫刻が扉の傍に並んでいた。
「早く、早く」
ありすがぺしぺしと騎手のように服部の首を叩いたので、僕らは入場料を払おうと受付に向かった。
受付の女性は、服部におんぶされているありすを不審気に見ていたが、足が悪いのだろうと思ったのか、なにも聞かれることもなく、あちらからお入りくださいと丁寧に言われただけだった。
今回は新進気鋭の画家たちによる展覧会らしく、彫刻から絵画まで様々な作品があちらこちらに並んでいた。
「ここっ」
服部のジャージの襟を引っ張ってありすは僕らを止めた。
そこにはブドウを食べている少女の彫刻があった。ありすには敵わないが、あどけない美しい少女の彫刻だった。
「私には敵わないけど美人ね」
「あんた自惚れ屋?」
「だって本当のことだもん」
ありすが当然と言わんばかりに鼻を鳴らして笑った。湊は呆れたようにため息をついて苦笑した。
「それにしても」
ありすは目を閉じて深呼吸をした。肩が大きく動き、その上に乗っている髪も揺れた。それを何回か繰り返した後、彼女は目を開けた。
「懐かしい。とっても」
湊は彼女の肩に手を乗せて、服部は瞳を伏せていた。
僕はただ彼女の姿を見つめていた。
彼女の横顔はまさにアリスの夢そのものだった。切なくも温かく、澄ましたような……幻想的な表情だった。
しばらくすると、ありすはチシャ猫の笑みを浮かべた。
「本当にありがとう。タロー、ソータ、ユーキ」