二人の少女
Ⅵ 二人の少女
「ブドーってなに?」
彼女にブドウのことを話してみた。
しかし彼女はしばらくの間、ブドーと間抜けな発音を繰り広げていた。
「紫色で一円玉ぐらいの大きさもあれば、このぐらいの大きさもある果実で」
「よくわかんない」
なかなか噛み合わない会話や、不慣れなジェスチャーに悪戦苦闘しながら、僕はため息をついた。
それでも誰かと喋ることの確かな喜びを密かながらに感じていた。
「ねえ」
そんな他愛も無い話をしていると声がかかった。
ありすと同じく鶴の一声と言わんばかりに注目を集めそうなよく透った声だ。僕らはその声の主を見る、僕だけがあっと声をあげた。
湊有希だ。強かな髪が制服の肩の上で僅かながらに揺れる。
その表情は女性のわりには凛々しく、戦の前に何かの覚悟を決めた戦士のようにも見えた。
「あっ、ユーキだっけ?」
ありすが首をかしげながら僕に尋ねる。それは不安というよりは興味津々と言った表情だった。
そんなありすに対して湊は自分の名前を言われて少し目を丸くした。しかし、しばらくして困ったように苦笑をした。
「惜しい。ユーキじゃなくてユキ」
「そうだっけ。でもユーキのほうが呼びやすいな」
ありすは屈託のない笑みを浮かべたが、湊はすぐさま表情を崩して仏頂面になる。そしてじろりと睨みつけるように僕を見た。
「この子、ありすっていう名前なの?」
「それがどうした。というか、なんでお前来たんだよ」
答えはなかった。
ありすと同じような反応をされたが、こちらの方が苛立ちは異様に大きい。
彼女は答えの代わりに顔を曇らせて僕の耳元に近づいた。突然のことだったので驚いて身構えてしまった。
「おかしいと思わないの」
「なにが」
「あの子、ずっと塀の上にいるのよ」
「だからどうした」
「だからって……ずっとはずっと。二四時間三六五日ずーっと」
それがどうした。
そう尋ねようとしたけど、突然ぐらりと心臓が喉に込み上げてくる感覚がした。
妙な胸騒ぎが湧きおこってきたのだ。薔薇の棘に触れてしまったような痛みが胸を突き刺した。
「あなたの家はどこにあるの」
気がつけば、湊はありすの目の前に立って問いかけていた。
何事にも怖気づかない心は今でも生きているようだ。
「今の家はここ。昔は違うところだったけどね」
ありすは以前に聞いたことがある答えを言った。湊はむっとした表情を向けてきた、僕も彼女の表情を真似した。
「ほらおかしい」
「だから何が言いたいんだ。おかしいからなんだって言うんだ」
強い口調だっただろうか、と少し暗雲が心の中を過ぎったが少し後悔は遅かった。
湊は戦国武将のような勇ましい顔を急に下げて俯いてしまった。
その変わりように驚いている僕の横でありすは寄り目がちで湊を見つめていた。
「ねえ、もう、私たちに関わらないで」
発せられた言葉は糸のようにか細く、別人のようだった。
その姿に僕はありすがいる前でも息を飲みこんでしまったが、同時に、穴に急降下していくような冷たさが身体全体から感じた。
なにと関わってほしくないのか。それはな反射的に分かってしまった。
「おい、余計なお世話だ」
心の中で弾けた言葉は、口から火花として飛び出した。
踏み入れてほしくないところに土足で入り込まれたこの感覚に我慢ができなかった。湊の表情を見る前に僕は俯いていた。
「タロー。ちょっと落ち着きなよ」
かけられた言葉は塀の上からだった。
何故ありすはここまで平静として、僕らの会話を見ていられるのかが不思議に思えた。
「あんたは黙って」
咄嗟に鋭い声が投げつけられる。当然投げたのは湊だ。
先ほどまではしおらしく訴えていたのが嘘のように顔を真っ赤にして歯も剥きだしている。
「これ以上、こいつに話しかけんな。あんたみたいな、ワケのわかんないヤツに宇佐を変な道に進ませてたまるか。宇佐はあんたとは違うのよ」
湊の癇癪玉が弾けた瞬間、僕の頭の中が一気に白くなった。
突如、白い靄が視界の邪魔をしたのだ。
僕は許せなかったのだ。バカにするのが。
されたのが。
靄が晴れて気がつくと湊が尻もちをついていた。そして驚嘆の表情で見つめていた。
どうして。
そう言わんばかりに、うっすらと瞳が潤んでいるようにも見えた。
だけれど、僕は湊に手を貸さず、踵を返してさっさと走り去った。
泣きたくて、なにがなんだか、分からないのはこちらも同じだったのだ。
走る前に見た、ありすはただ一人、我関せずと言わんばかりに塀の上で首をぐるぐると回しているだけだった。
家に帰るとまたテーブルの上には巨峰が置かれていた。食べたいという気分ではなかったがためしに一粒だけ手に取った。
皮を剥くと親指にべっとりと果汁がくっつき気持ち悪かったが、すぐに洗えると思って実を口の中に放りこんだ。少し弾力があったが、歯を使ってしっかり噛むとぷつりと果汁がさらに溢れだした。
美味しいとは言い難かった。
二階にあがってベッドに飛び込む。スプリングが軋む音がしたが気にせずに体重をかけて毛布を頭までかけた。
誰とも喋りたくなかった。誰とも喋りたくないと思う自分も嫌だった。
そうだ、僕は喋ることが苦手だ。
そして人と関わることが苦手だ。
話すのが苦手な子供は僕以外でもないのは知っているし、日本でも数多くいるだろう。
社会でも問題となり、コミュニケーション不足だと騒がれ、親の責任ではないのかと指摘される。その度に僕は胸に何か重石が増える気がした。遠まわしに自分を否定されているようだった。
よく会話することが嫌だからと言って、この喉を切り裂きたいという衝動に駆られるのだ。
ペン立てにささっているカッターを取り出し、喉に押し当て部屋で倒れたい。
だけどそんなことはしても無駄だし、僕にはそれができないのだ。僕は臆病だから。
その代わりの、逃げ道が欲しかっただけだ。現実からエスケープできるものがただ欲しかっただけなんだ。
だから、ありすと話すことは決して変てこな道なのではない。
湊や他の人の目から見たらおかしい坂道なのだけれど、僕にとっては平坦で、花が至る所に咲きあふれる王道だったんだ。
しばらく眠ろうと思って目を瞑ったが、インターフォンが家中に鳴り響いた。
母も買い物でいないので、家には自分しかいないことに少し腹がたった。宅急便だったら後でなにかしら面倒があるので、仕方なく毛布を剥いだ。
階段を降りている途中でまたインターフォンが鳴ったため、駆け足で玄関まで辿りついてドアを開けた。
「寝てんのかと思った」
そう言えばドア越しから相手を確認するのを忘れていたが、気づいた時には遅かった。
玄関の前で立っていたのは青いジャージ姿の服部だった。