塀の上の少女
Ⅱ 塀の上の少女
僕が彼女と会ったのは気だるい空気の初夏だった。
それは美術の時間に作った自分の猫の彫刻が棚から落下した日だ。
実際落ちた瞬間、僕はその場に居合わせていなかった。
親友曰く、とあるクラスメイトたちがふざけあっていたら、奴らは棚にぶつかり、その震動でへりのぎりぎりにあった猫を象った彫刻――つまり僕の作った彫刻が落ちたらしい。不吉なことに彫刻の猫は細い前足がぽっきりと折れてしまった。
彼らは軽い口調だったが僕には謝ってくれた。親友はその態度に不満そうな顔を浮かべていたが、僕はたいして悲しくもなかったし、その時はなにも思わなかった。
しかし、猫の体と足を持ちながら道を歩いていると少しずつ心臓が黒く塗りつぶされるような感覚に陥った。それは長い塀を隣に歩いていた時だ。
見れば見るほど、ただの塊だとは分かっているものの猫は悲しそうに自分の顔を伺っているように悲しげにみえたのだ。自分が落としたわけではないけれども自分は殺人者になったようでなんだか猫に申し訳なかった。
ごめん、と呟いたものの、猫はまだ悲しげな瞳で、ご飯が欲しそうなねだる目でこちらを見ているような気がした。
棚に座っていたころは、目を細めてこちらをじろりと見ていたはずなのに。
頼むからそんな目で見ないでくれ。心の中でそう叫んだが、猫のなんとも言えないおなかがすいたような表情は変わらなかった。
「可哀想」
それは突然だった。はたと自分の耳に声が響いたのだ。
その声は塀の上から降りかかってきた。小さな鈴を一回だけ鳴らしたような、か細かったが、ここに存在しているということをシャンと示している声だった。
その声を確認しようと塀を見上げると、そこには……。
先に書いておくが、僕はこの手記を書き始める前から、どのようにして彼女の容姿を言葉に表現しようか迷っている。
彼女はあどけない少女だ。しかし瞬きをするたびといっても過言ではないほど、突然一瞬にしてすらりと大人びた少女にも豹変する。そして同じようにあっという間にまた早熟の少女へと戻る。彼女の顔立ちはこの繰り返しなのだ。
初めて彼女を見たときは後者の大人びた少女だった、彼女はピンク色の短いスカートと黒いTシャツを小柄な体に纏っていた。そしてコンクリート塀の上にオレンジのサンダルを履いた白い足をだらりと垂れさせて座っていた。彼女はたぁんたぁんと塀を蹴りながら僕をじっと冷やかに見据えていた。
「可哀想」
また彼女がそう呟いた。冷やかな表情を緩ませる気配がなかった。
なんて答えればいいのか分からず、僕は黙って彼女の瞳を見つめていた。しかし彼女は緩ませる気配も無ければ、自分から語る素振りも見せようとしなかった。
そのまま逃げてしまうという手もあったが、彼女の精悍な瞳が逃がさないと言わんばかりに鋭い光を帯びていた。僕は蛇に睨まれた蛙のようにしばらく固まっていた。それでも彼女は僕をじっと見つめていた。その間も、彼女はたんたんと塀を蹴り続けていた。
「なにが?」
僕は腹を括って彼女に尋ねてみた。言葉を発することになれないせいか自分の声は震えていることに感じた。
彼女は僕の言葉を聞いて少しだけ目を見開き、すっと手をあげたように指で何かを示した。それは彫刻なのか、はたまた僕の首を指していたのか。
「あなたが殺したの?」
殺した。彼女の唇から零れた言葉はあまりにも葉のように落ち、僕の心臓に葉の先端がちくりと刺さった。僕は首を横に振った。
「殺してなんかいない。不慮の事故だ」
「誰がこんなことをしたの」
「級友がした」
「友達が怪我をさせたの」
彼女は覗き込むように僕の顔を見つめていた。彼女の言葉は何気ないように見えるがなぞると言葉の微かな棘に触れる。
「痛そう」
彼女は静かに僕の彫刻を見つめていた。確かに僕の猫はやつれているかのようにさらにほそぼそとしたものに見えた。
本物の猫のように彫刻の猫は鳴かないし涙も流さない。
「君の言うとおりだ。猫が泣いている」
僕が喉を搾り出して言った言葉の後は沈黙だった――が、その次の瞬間には、どこからともなくククッという音が聞こえた。
塀の上を見上げると、肩を震わせた少女が座っていた。
「……変なの」
「なにが?」
「もしかして私の言葉、本気にしているの?」
僕が首を傾げると、彼女は目をきゅっと細めた。その笑顔は花が咲くというよりは、蕾が膨らんでいるように見えた。
そして微かにチシャ猫のような三日月目ではないがそれと同じくらい不気味な雰囲気があった。人のことは言えないが、彼女の笑顔はお世辞にもあまり可愛いとは思わなかった。
「馬鹿にしているつもりじゃないの。だけど私は平気で法螺を吹く女だから。嘘吐きって罵ってもいいよ」
ここで、ただね。と一息ついた。
「あなたの彫刻を持っている姿がなんだかシュルレアリスムに走っていたから」
再び喉で絞り出すような声で彼女は笑った。
気がつけば、僕もそれにつられて唇の端を歪ませていた。笑顔の作り方が下手な僕が唯一すぐにできる笑みで。
彼女の笑顔は確かに愛らしくなかった。
だけど、笑顔が重なった瞬間、初夏の空気を切るような涼しい風が僕たちの目の前を通り過ぎた。神妙な彼女の顔立ちと僕の複雑な思いをそれはかき消していく。それに合わせて彼女の短い黒髪が黒のTシャツの上でふわりとワルツのように踊っていた。
風を浴びた瞬間、僕はあっと声を漏らした。
「行かなきゃ」
「どこに?」
「塾だよ」
僕は反射的にデジタル腕時計を見た。液晶画面は6:30を表していた。走って行かないと遅刻になる。
「なにか食べてから行くの?」
「いや、弁当を買って塾で食べる」
「へえ。てっきり家が近くにあるから食べてから行くのかと思った」
僕は頷こうとしたが、再び首を傾げた。
初対面なのに彼女の名前すら知らない。彼女も僕のことを知らないはずだ。なのに、何故家が近くにあるということを知っているのか? しかし彼女は何も言わず、挑戦する目つきで黙っていた。
彼女は塀の上でサンダルの足をぐぅっと伸ばして、サンダルが僕の鼻に付きかけた。
その途端、ピンクのスカートがふわりと揺れた。僕はそれだけで心臓が跳ねてしまった。そして改めて彼女は病的なまでに色白くてほっそりしていると感じた。
「あのさ」
ふいに何も考えずに言葉を発してしまった。何を言うべきか分からないことに後悔してしまったが、もう遅かった。彼女はじいっとこちらを穴が開きそうなほど見ていた。
この少女が何者なのか。
ましてや名前すら知らない彼女を呼び止めて、僕は話しかけようと試みたのだ。
その理由はまたも真っ白だ。
この瞬間から自分の心拍数が一気に上昇していたのがすぐに理解できる。鼓動が耳から伝わり、お腹の中心へと吸い込まれていく感覚に陥った。ただただ、僕はじっと彼女を見つめて息を吸い込んで言葉を紡いだ。
「また君と話がしたい」
絞り出した声が彼女に届いたのだろうか。彼女は瞳を伏せて、暗い表情を帯びていた。またもチシャ猫のような薄気味悪い笑みを浮かべた。そして僕は少しだけ会釈をして走り去っていった。
この笑みが了承か拒否か。風を抜けて走っていった僕には理解できなかった。
その答えは次の日に判明した。
次の日の帰り道、彼女は塀の上に座ってなんかいなかった。
彼女は塀の上で、仁王立ちをして笑っていたのだ。
そして呆然として立ちつくしている僕に彼女は胸を張ってこう呟いた。
「さぁ、約束通り。お話しましょう」
昨日はその後、首を傾げながら走ったが、この日僕は塾に向かって走る途中、ふいに足を休めて立ち止まった。目の前にある今の時間を気にする余裕はない。
早朝に今日は風が多く涼しく過ごしやすい日だとテレビのキャスターが言っていたが、僕の体は火照りが止まることはなかった。
彼女は――。
これが映画のキャッチコピーだったら美しいとか魔女とか入るかもしれないが、僕はしばらくの間、この言葉の後に思いつく言葉が見当たらなかった。今でも安直な言葉では言い難いと微かながら思っている。
強いて言うならば彼女はまるで、兎に不思議の国へと連れて行かれるアリスのような無邪気さと現実味を兼ね合わせていた。現実には無い魅力に僕はこのときから惹かれていた。
彼女は現実世界のアリスだ。
僕は心の中で彼女を『ありす』と呼んでみた。
心の中のありすは疑問を浮かべた瞳をこちらに向けて笑っていた。どこか懐かしさが含まれた笑みだった