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白い月

作者: 伊藤サチ

 平日の昼下がり、院内は閑散としていた。静寂の中、時折規則的な電子音が鳴り響く。

 僕は目的の部屋の前に立ち、ノックを二回した。中からか細い返事が微かに聞こえ、そっとドアを開ける。

 大きな窓からレースのカーテン越しに光が差し込む。十一月も下旬を過ぎ、日の光は静かに淡い色に変わっていった。

 起こされたベットの背もたれに体を預け外を眺めている彼女を見て、僕は眉を顰めた。

「起きてて大丈夫なのか」

 すると彼女はゆっくりとこちらを向いた。

「いらっしゃい、先生。……大丈夫、今日は気分がいいの」

 そう微笑む彼女の顔色にはすでに生気がなかった。

 自慢の大きな瞳も今は落ち窪み、輝きを失っていた。桃色に染まっていた頬や唇も色褪せ、張りもない。そして彼女の最大の魅力であった艶やかな黒髪はその一切が抜け落ち、変わりに白いふわふわの毛糸の帽子を被っていた。

「……いつからそうしてるんだ。そろそろ横になった方がいい」

 サイドボードに置かれている白い花瓶に水を入れ、持って来たガーベラの花束を生けた。彼女の一番好きな花だ。

 色褪せた部屋の中で、そこだけがまるでスポットライトを当てたように明るさを取り戻す。

 彼女は花をいとおしむ様に眺めながら言った。

「本当に大丈夫だって。もう治ったんじゃないかって思うくらいだよ」

 僕はため息をついてベットの側に置いてあるパイプ椅子に腰掛けた。

 細い腕は点滴につながれていた。色が白いため針を刺した場所全てが青くうっ血して痛々しい。僕は堪らずそっと視線をはずした。


 代わってやることができたら……。


 何度そう思ったか知れない。

 十五歳という若さで余命を宣告されたのが半年前。その間病気の進行を遅らせるための治療が施されたが、病魔は彼女の体を着実に蝕んでいった。

 できないことが増えていき、できることが少なくなっていく毎日。苛立ちと焦り、死への恐怖に彼女の心は崩壊寸前だった。

 僕はそれをただ見ていることしかできなかった。側にいて慰め、励ますだけの日々。

 苛立ちと焦りを抱いていたのは自分も同じだった。日に日に弱っていく彼女を見て、叫びだしそうになる自分を抑えるのに必死だった。

 誰でもいい。どんな方法でも構わない。彼女が元気になりさえすれば、それ以外のことはどうでもよかった。


 一ヶ月前、全ての治療を打ち切られ、代わりに緩和ケアを受けることになった。

 その頃から彼女は少しずつ笑顔を取り戻していった。痛みから解放されたことで心にゆとりができたのかもしれない。

 しかし死へのカウントダウンが止まるわけでもなく、体の衰弱は日を追うごとに増していった。

 今では起き上がることすらできなくなっていた。それなのに……。


「外に出たいな」

 彼女はぽつりと呟く。

 気だるげな眼差しで見つめてくる彼女に僕は首を振った。

「風が冷たくなってきた。無理だよ」

 いつもなら素直に頷くのだが、今日の彼女は違っていた。

「少しだけでいいから、お願い」

 彼女を病室に閉じ込めたいわけじゃなかった。できることなら気の済むまで外で過ごさせてやりたい。

 ダメで元々と思い、僕は立ち上がった。

「先生に聞いてくるよ」

 僕は彼女の主治医と連絡を取るため、ナースステーションに向かった。

 










 主治医の許可はあっさりと下りた。これ以上彼女を制約する必要はないというのが理由だった。

 僕は彼女の担当の看護師と共に、外に出るための準備をした。

 彼女が持っている中で一番生地の厚いガウンを羽織らせ、もこもこ靴下にスリッパ、ふわふわ手袋という完全装備を施した。ついでに「五分だけ」という時間制限付だ。

 それでも彼女はとてもうれしそうだった。まるで小さな子供が遊園地か何かに連れて行ってもらえるようなはしゃぎようだった。

 彼女を車椅子に乗せ、エレベーターで屋上を目指す。

 ドアを開けたその向こうには、うす雲の広がった白い空があった。

「寒くなってきたんだね」

 入院した半年前は、梅雨の季節だった。今と同じうす雲の広がった白い空だったが、肌にまとわりつく湿った空気が印象に残っている。

 季節の移ろいを目で見ることしかできなかった彼女にとって、頬に触れる風の冷たさが新鮮に感じたのだろう。

「……いい匂い。外の匂い、大好き」

 晩秋の風に混じる薄い排気ガスの匂いを彼女は胸いっぱいに吸い込んでいた。そして静かに目を閉じる。お気に入りの曲を聴いているかのように彼女の顔は綻んでいた。

 それを見て僕も目を閉じてみる。

 車とクラクションの音、空の彼方に消えていく飛行機の音、犬の鳴き声、遮断機と電車の通過する音……。

 聞き慣れたいつもの生活音。しかし病院という隔絶された世界にそれらはない。そのことが今更ながら思い知らされる。

 今彼女は日常という奇跡を全身で感じているのだろう。

 

「……ねえ、先生」

 彼女は静かに目を開き、僕を見上げた。

「何?」

 僕が問うと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに言った。

「抱っこして」

「抱っこ?」

 思わず聞き返してしまう。十五歳の少女の口からそんな台詞が聞けるとは思わなかった。

「ダメ?」

 上目遣いでお願いされると嫌とはいえないが、理由が知りたかった。僕が尋ねると、彼女は手を伸ばして言った。


「もう少し、空に近づきたいから」


 僕は頷いて彼女の前に跪き、壊れ物を扱うように慎重に彼女を抱き上げた。

 前に一度同じように抱き上げたことがあったが、予想通りその時とは比べ物にならないほど軽かった。

「これでいい?」

 彼女は満足そうに頷くと、再び空に手を伸ばした。

 今の彼女には腕を上げることすら体力を使う。それでも手を伸ばし空を掴もうとする。

 僕も止めさせるつもりはなかった。今はただ、彼女の心の赴くままにさせてやりたかった。


「……先生、ありがとね」

 大きなため息をついて彼女は腕を下ろした。

「ずっと側にいてくれて、……ありがとね」

 彼女は目を閉じたまま囁いた。僕は彼女の額に頬を寄せた。

「これからも、ずっと側にいるよ」

「……ごめんね、あたしいい子じゃなかったよね。でも、……先生、優しくしてくれたね。…………うれしかったよ、すごく、うれしかったんだ……」

 彼女の言葉が途切れ途切れになっているのに気付いて思わず顔を覗きこんだ。

「もう、喋るな。そろそろ部屋に戻ろう」

 僕が彼女を車椅子に座らせようと屈んだその時、彼女は僕の服を力強く握った。

「待って、まだ、帰りたくない……」

「でも……」

「お願い、も、少しだけ……」

 彼女の切なる願いを聞かない訳いにはいかない。僕は再び、彼女を抱き上げた。


「来年の夏は、海に行こうって約束したよな」

「……うん」

「かわいいビキニ着るんだろう?」

「……先生の、エッチ……」

「それで花火を見て、かき氷を食べて、夏を楽しもう」

「…………うん」

「再来年も、その次も、夏は来るから。だから、早くこんなところ出て、太陽の下で思いっきり遊ぼう」

「………………」


 決して叶うことのない未来。それでも僕は心に想い描く。

 水しぶきを上げて元気に波打ち際を駆ける彼女の姿を。

 太陽の光を浴びてキラキラ輝く海を背に、それに負けないくらいのまぶしい笑顔を浮かべる彼女を。











 彼女は静かに僕の胸にもたれ掛かっていた。頬に触れると少し冷たくなっている。そろそろ部屋に戻ろうと彼女に声を掛ける。

 しかし答えはなかった。

 眠ってしまったのだろうかと二度三度、体をゆすり名前を呼ぶが反応がない。

 僕は少し大きな声で呼び、強く体を揺さぶった。何度かそれを繰り返し、気がついた。


 堅く閉じられた瞼が開くことは二度とないのだろう。小さな唇から、笑い声や冗談を聞くことももうない。

 僕は彼女の体を抱き締めた。

 こんな小さな体で、精一杯生き抜いたのだと思うと愛おしさがこみ上げてくる。


(もう、逝ってしまったのか……)


 涙は出なかった。もう枯れ切っているのかもしれない。

 僕は彼女の瞼にそっと口付けた。

「ありがとうって言わなくちゃいけないのは、僕の方だよ」


 彼女は僕を待っていてくれたのかもしれない。

 主治医からはいつどうなってもおかしくない、覚悟しておいてくださいと言われていた。

 そう言われてから数日、容態は小康状態を保っていた。その間、仕事のため彼女の側にずっといるわけにはいかなかった。

 そして今日、何とか時間を見つけてここにくることができ、彼女と最期を過ごすことができた。それは奇跡としか言いようがない。

 

「ずっと、待たせてごめんな」

 細い体を抱き締めながら眠る彼女の顔を覗きこむ。

(もう、待ちくたびれたよ)

 今にもそう言い出しそうな気がした。


 僕は彼女を抱いたまま、近くのベンチに腰を下ろした。

 彼女のガウンの襟を立て、少しでも冷たい風から守ろうと思った。

「もう少し、このままでいていいか?」

 彼女の温もりと感触を体と記憶に刻み込むため、きつく抱き締める。


 空を見上げると、薄い雲の切れ間から澄んだ青空が見える。

 そこには欠けた白い月が静かに佇んでいた。

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