青春の輝き
佳宏にサックスというものを教えたのは私だった。あいつはもう覚えていないかもしれない。春休み、合格発表の帰り道、肩を並べて歩きながら「吹奏楽部入ろうよ」と言った。
「吹奏楽かあ」
「だめ?」
「いいかもしれない。応援で甲子園にいくかね」
佳宏は中学まで野球部でエースを務めていたが、夏に利き腕の肘を壊していた。もう気にしていることもないふうで、そう言ってまだ幼さの残る顔でけらけらと笑った。
入学式の次の日、一緒に見学に行った。私は小学校のときからアルトサックスを吹いていて、もちろんこれと決めていた。学校の楽器を借り、教本に乗っているエチュードを奏でる。佳宏はしばらく近くの椅子に腰かけ、黙って私を見ていた。私は少し恥ずかしくて、佳宏に背を向けて吹き続けていた。
「なあ、渚。俺も」
吹くのをやめると、ぱっと楽器を奪われた。
「あ、だめ、ここ持って。ストラップちゃんとつけて」
しゃんと楽器を構えさせると、金色の楽器は、佳宏に不思議なほどよく似合っていた。窓から差す夕日の光を浴びて、サックスは佳宏の腕の中で嬉しそうに輝いていた。
佳宏はさっきまで私がくわえていたマウスピースに口をつけ、息を吹き込んだ。ひどい音がした。私が笑うと、佳宏は不服そうな顔で「初めてなんだからしょーがないじゃん」とごねた。
アンブシュアの作り方を教え、運指表の見方を教え、呼吸の仕方を教えた。佳宏はひとつひとつ物事を覚えていくたび、本当にうれしそうに顔を輝かせた。佳宏は小学生のとき、野球を始めた頃もこんな風だった。新しいものが自分の体にしみこんでいくのが嬉しくてたまらないのだ。だから練習を苦と思っていなかった。私は佳宏のそんなところが好きだった。
佳宏は同じ部活で同時に楽器を始めた他の誰よりも上達が早かった。めきめきと腕を上げていくのが、毎日同じ教室で練習する私には誰よりもよくわかった。技術も表現力も、皆がすごいねと佳宏をほめるたび、私は得意になると同時にとても怖かった。私のほうが5年も先にサックスを始めたのに、いつか追いつかれ、そして抜かれてしまう……高校で吹奏楽をやっていた3年間、佳宏と比べられることにいつも怯えていたように思う。
「ねえ佳宏、本当に上手になったね」
「本当? でもやっぱり、渚にはかなわねーよ」
そうやって、褒めるたびに佳宏は私のほうを持ちあげた。渚はすごいよ、渚は俺の目標だから、と言われて私は悔しかった。いくら練習しても、経験値を重ねても、どうにもならないこともあるのだと。
「ねえ、今度の演奏会のソロ、佳宏がやってね」
「えぇ、無理」
「無理じゃない。あんたももう2年近くもサックス吹いてんだから」
2年。たった2年で、こんなに上手になるものなのだろうか。佳宏は気付いていないふりをしているか、もしかしたら本当に気付いていないのかもしれないが、もう私と引けを取らないほどまでに楽器を吹きこなすようになっていた。いやむしろ、目立つメロディを演奏すれば注目を浴びるのは佳宏のほう。サックスを吹いているときの佳宏は、いつの間にか私には出せないオーラをまとっていた。佳宏は才能があるんだと、私なんて平凡以下の人間だったんだと、くやしいけれど認めるほかなかった。
「わかったよ」と頷いた佳宏は、いつの間にか私の背をゆうに追い越していた。その顔を見上げて、大人になったな、と思った。
「なあ、今度楽器屋に行く時付き合ってよ」
高3の春、佳宏は真面目な顔をしてそう言った。私は首をかしげた。
「楽器……買おうと思ってさ」
思わず歩みを止めた。確かに高校生にもなると自分の楽器を持っている人は多いが、佳宏の家はそこまで裕福というわけではないはずだった。
「楽器って、数万円で買えるもんじゃないんだよ」
「わかってるよ。だから部活と両立してバイトもしたし。まあまだ足りないから、父さんにちょっと借りるけど」
佳宏はファミレスでアルバイトを始めて、最初のお給料で私に誕生日プレゼントを買ってくれていた。そのあとも勉強と部活とバイトで毎日くたくたに疲れているのが私にはよくわかって、何度か佳宏の身体が心配になって、もうバイトなんてやめなよと言った。そのたびに佳宏は、俺は全然平気と言って笑うのだった。確かに、疲れたとかもう嫌だとかそんな弱音は一度も吐かなかった。
そこまでしてサックスを手に入れようとしていたなんて知らなかった。佳宏がそこまで真剣にサックスと向き合おうとしていたなんて思いもしなかった。もしかして一生続けていくつもりだろうか。
「俺、音大に行きたい」
それは、ずっと一緒に地元の大学に進学するものだと思っていた私にとって、大きすぎる衝撃だった。
「渚は笑うかもしれないけどさ。本気になったよ。浪人してでも受ける覚悟できた。自分でもここまで惚れ込むなんて思ってなかった……」
「ばかじゃないの」
佳宏を見ていられず、下を向いたまま、持っていた教本を投げつけた。
「笑わないよ。怒るよ。あんたが音大? 本気で言ってるの。ちょっとうまいからって調子に乗ってるんじゃないの。あんたよりすごい人なんてね、いっぱいいるんだよ。その中でも音楽で食べていける人なんてほんの一握り」
「ああ、わかってるよ」
「なんでよ……そんなバカなこと言うなんて思わなかった。あんたがそこまで考えるようになるなんて」
「渚ならわかってくれると思ったけどな」
「わかんない。そんな夢、わたしにはわからない!」
佳宏は教本を拾い上げてそっと表紙の汚れを払った。悲しそうな眼をしていた。
「なあ、俺を吹奏楽部に誘ったこと、後悔してる?」
返す言葉がなかった。
ただ、佳宏が時間を持て余していたから、私が佳宏と一緒にいる時間を増やしたかったから、軽い気持ちで誘った。それが佳宏をもう引き返すことのできない道に引き込んでしまうことになるなんて思わなかった。私なんて、音楽を所詮趣味程度としか考えていなかったのに。
楽器屋にはついていかなかった。とてもそんな気分にはなれなかった。まさかサックスに佳宏を取られるとは。
もしもあのとき佳宏に吹奏楽をやろうなんていわなければ、私たちはこれからも一緒にいられたかもしれない。佳宏は趣味で何か別のスポーツを続け、私も趣味で音楽を続けたかもしれない。そして同じ大学に進学し、卒業して平凡に一緒に暮らす。私が望んでいたのはそんな未来だったのだ。
数日後の部活に、佳宏はぴかぴかに光る新品のサックスを持ってやって来た。後輩たちが大勢佳宏にたかっていたが、私はその輪に入ろうとしなかった。
佳宏が抱えているその楽器に、嫉妬すら覚えた。でも本当は、そこまで音楽を愛することのできる佳宏が、そしてそんな佳宏とめぐり合うことのできた楽器が、うらやましくてたまらなかったのだ。
「なあ、渚。怒ってる」
やがてパート練習の時間になると、佳宏のほうからすぐに話しかけてきた。
「怒ってなんか……」
怒る理由がなかった。佳宏は何も悪いことなんてしていない。私だって佳宏の進路を、夢を否定するつもりなんてなかった。
「ごめんね」
「ヤキモチやいた?」
佳宏は新しい相棒を大事そうに抱きしめて隣の席に座っていた。私はそっとその綺麗な体を撫でた。吸い込まれそうに深い、いい色をしていた。きっと佳宏が吹いたら本当に素晴らしい音を出してくれるのだろうと思った。
急にバカバカしく、そして申し訳なく感じた。私は笑って首を振った。楽器にやきもちなんてやくものか。佳宏が見つけた夢のかたまりに。
「名前、つけた?」
「楽器に? まだだけど。渚がつけてよ」
「……じゃあ、ナギサ」
佳宏はぎょっとして、信じられないといった顔で聞き返してきた。
「正気?」
「正気よ」
「じゃあ、いつか渚が自分の楽器買ったらヨシヒロってつけてよ」
あんたも正気じゃないねと言うと、「自分が正気じゃないって認めた」と笑われた。
わかっていた。きっと数年後の私の元には、佳宏もヨシヒロもいないだろうと。佳宏の相棒のナギサも、いつか佳宏のもとを離れていくときがくるのだろうと。それでも、どこかで私たちを結び付けておくものがほしかった。
二度目の春、佳宏は芸術大学の音楽科に合格し、一緒に育った街を出て行った。滅多に地元には戻って来ず、やがてヨーロッパのどこかに留学したと聞いた。
大学を卒業して私が結婚するとき、佳宏からはおめでとうと電話をもらっただけだった。さらに数年後、佳宏が結婚したことは、佳宏のいない同窓会で初めて耳にした。久しぶりに手紙を書いたら、その返信には一枚のチケットが同封されていたのだった。
今、私はホールの客席にいる。ステージの上には、プロのサクソフォン奏者となった佳宏が、スポットライトを浴びて立っている。
バックの吹奏楽とともに演奏しているのは、アルトサックスのために編曲されたカーペンターズの名曲。今の佳宏にこそ奏でることのできるうっとりと甘いメロディー。こうして目を閉じて聴いていると、佳宏と過ごした過去の出来事が一つ一つ思い返される。
あのときナギサと名付けられた楽器は、今は私の手元にある。佳宏から楽器ケースを渡された時、不思議と思い出を捨てられたとか突き返されたというような悲しい気持ちはせず、私にはもういい音を出すことはできなかったけれども、懐かしい香りが愛しくてならなかった。あの頃の思い出は全て、ナギサとともに私のところに戻ってきて、私と一体のものとなったのだ。
曲が終わり佳宏がお辞儀をする。きっと佳宏にも、広い客席の中、ここでこうして手を叩いている私の姿が見えている。
私は惜しみない拍手を送る。きちんと感じた、佳宏がうたうものに。大切な音楽に。
輝いていたあの頃から確かに繋がり続いている、私たちの今に。
アルトサキソフォンと吹奏楽のための「青春の輝き」(http://www.youtube.com/watch?v=mXNeDqO06_E&feature=related)より。