第6話 記録官の温度
監査官と英雄が去ったあと、失敗記録庁は奇妙な静けさに包まれていた。
いや、正確には――
静かすぎた。
さっきまで空気を満たしていた緊張だけが、取り残されたように漂っている。
「……今日は、作業を中断します」
リーネがそう言った。
「珍しいな」
「監査官の介入があった以上、
これ以上の因果操作は危険です」
正論だった。
だが、それ以上に――彼女の声が、いつもより少し低かった。
「疲れたか?」
そう聞くと、リーネは一瞬だけ視線を逸らした。
「……記録官は、疲労を申告しません」
「じゃあ今のは?」
「業務判断です」
相変わらずだ。
俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「なあ、リーネ」
「お前、ここに何年いる?」
「八年です」
「長いな」
「そうでもありません」
彼女は記録束を棚に戻しながら言った。
「失敗記録庁は、人が定着しない部署です」
「三年もいれば、長い方」
「じゃあ、お前は変わり者だ」
「……よく言われます」
その返事に、ほんのわずかな“間”があった。
俺は、彼女の横顔を見る。
無表情。
淡々。
だが、よく見ると目の下に、薄い影がある。
「理由、聞いてもいいか?」
「何の、ですか」
「八年もここにいる理由」
彼女の手が、止まった。
失敗記録庁に来てから、
彼女が動きを止めたのは、これが初めてだった。
「……記録には、残っていません」
「じゃあ、記録官個人の話だな」
沈黙。
長い沈黙のあと、リーネは静かに言った。
「私は……」
「一度、外に出たことがあります」
意外だった。
「昇格推薦を受けました」
「失敗記録庁から、評価局への異動です」
それは、彼女にとって“成功ルート”だったはずだ。
「行かなかったのか?」
「行きました」
短く、言う。
「ですが……三ヶ月で戻されました」
理由は聞かなくても、何となく察しがついた。
「評価が、できなかった?」
リーネは小さく頷いた。
「私は、失敗を失敗のまま記録します」
「ですが評価局では、
失敗は“修正すべき誤差”でした」
彼女は続ける。
「失敗者の言葉を、省略しろと言われました」
「感情は不要だと」
「成功の参考になる部分だけ抜き出せ、と」
「できなかった」
「はい」
その声は、驚くほど静かだった。
「だから私は、
“役に立たない記録官”として、ここに戻されました」
――なるほど。
評価はD。
だが、世界にとっての“危険人物”ではない。
だから、壊されずに、ここに置かれた。
「なあ」
俺は、ふと思ったことを口にした。
「お前さ」
「失敗が嫌いか?」
リーネは首を横に振った。
「嫌いではありません」
「好きでもない?」
少し考えてから、答える。
「……守りたい、とは思っています」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
「失敗は、誰かの人生です」
「切り捨てられていいものではありません」
彼女は、初めてこちらをまっすぐ見た。
「あなたが触れた因果も、同じです」
「俺は、世界をいじってるだけだ」
「それでも」
リーネは、はっきりと言った。
「あなたは、
失敗を“黙って消す側”ではありません」
――ああ。
だから、この場所で俺に声をかけたのか。
「……共犯だな」
俺がそう言うと、リーネは一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「はい」
それは、
記録官としてではない、個人の返事だった。
そのとき、外で再び警鐘が鳴った。
今度は短く、控えめに。
「また来るか」
「はい」
リーネはペンを握り直す。
「ですが次は……」
「もう、以前のようには記録できません」
「怖いか?」
彼女は、少しだけ考えた。
「……あなたが消える方が、怖いです」
一瞬、言葉を失った。
彼女はすぐに付け足す。
「記録が、欠けるので」
だが、その言い訳は――
少し、遅かった。
俺は、苦笑する。
「安心しろ」
そして、静かに言った。
「お前が記録してる限り、
俺はまだ、世界にいる」
リーネは何も言わなかった。
だが、その手は、確かに震えていた。
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