第16話 一時帰還
色が、戻ってきた。
完全ではない。
だが、意味のある色だ。
地面があり、空気があり、
距離という概念が、ようやく機能している。
「……相変わらず、落ち着かないな」
声が、きちんと“音”として出た。
それだけで、少し安心する。
だが――
視界の端が、ところどころ欠けている。
焦点を合わせようとすると、
そこだけ世界が薄くなる。
長くはいられない。
「……来た、か」
目の前には、小さな仮設室。
失敗記録庁の残骸に作られた、簡易の作業部屋。
扉は、開いていた。
中にいる気配が、分かる。
「……」
一歩、踏み出す。
床の感触が、遅れて伝わる。
足音は、少し軽い。
「――こちらです」
声がした。
はっきりと。
迷いなく。
リーネだ。
彼女は机の前に立っていた。
ペンを置き、こちらを見ている。
「……久しぶりだな」
自分でも驚くほど、平坦な声だった。
感情が、追いついていない。
「……はい」
リーネは、一礼するように小さく頭を下げた。
それだけ。
駆け寄ってこない。
名前も呼ばない。
だが、視線は逸らさなかった。
「……ちゃんと、来られましたね」
「呼ばれたからな」
俺は、肩をすくめる。
「記録官殿の呼び出しなら、
無視できない」
リーネの指が、わずかに動いた。
「……制限時間は?」
「短い」
即答だった。
「体感で……五分、あるかどうか」
「……そうですか」
彼女は、それ以上聞かなかった。
聞いても、どうにもならないことを
理解しているからだ。
沈黙。
部屋には、紙の匂いとインクの匂いだけがある。
「……変わりませんね」
リーネが、静かに言った。
「何が?」
「あなたの話し方です」
「悪かったな」
「いえ」
否定は、すぐだった。
「……それで、安心しました」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
「……仕事か?」
「はい」
リーネは、机の上の記録を示した。
橋梁崩落事故。
死者なし。
評価は、想定内。
「この失敗に、
“拾われなかった判断”があります」
「見た」
俺は、短く答えた。
「一人、進路を変えた」
「理由は?」
「直感だな」
「……評価できませんね」
「だろうな」
二人で、同時に小さく息を吐いた。
「だから、失敗です」
リーネは、はっきり言った。
「成功にしてしまえば、
次は誰も橋を疑わなくなります」
「正しい」
俺は頷いた。
「失敗は、残した方がいい」
その瞬間、
視界が一瞬、白く飛んだ。
「……っ」
身体が、少し揺れる。
「……時間、ですね」
リーネは、すぐに理解した。
「……ああ」
俺は、立て直しながら言う。
「長居はできない」
「分かっています」
彼女は、一歩だけ近づいた。
それ以上は、来ない。
「……次も、呼びます」
「勝手にしろ」
軽口のつもりだった。
だが、声が少し掠れた。
「……その時まで」
リーネは、一瞬だけ迷い――
それから言った。
「……消えないでください」
第8話の時と、
同じ言葉。
だが、意味は少し違う。
「努力はする」
俺は、そう答えた。
それが、今言える精一杯だった。
視界が、再び薄くなる。
音が、遠ざかる。
「……リーネ」
名前を呼ぶ。
今度は、ちゃんと声になった。
「はい」
「記録、頼む」
彼女は、強く頷いた。
「……必ず」
次の瞬間、
世界が、裏返った。
気づけば、また色のない場所に立っている。
評価外層。
失敗だけが、線として浮かぶ世界。
「……やれやれ」
胸の奥に、奇妙な感覚が残っている。
痛みではない。
喪失でもない。
――“繋がっている”という実感。
「……次は、もっと短いな」
それでも。
誰かが呼ぶ限り、
失敗が残る限り。
俺は、まだ――
完全には消えない。
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