第13話 残された記録
失敗記録庁は、もう半分しか残っていなかった。
白い結界の向こう側は、完全に沈黙している。
書架も、机も、記録も――
最初から存在しなかったかのように、跡形もない。
残された区画は、仮設結界で辛うじて保たれていた。
時間の問題だろう。
ここもいずれ、正史から切り離される。
リーネは、一人でその空間に立っていた。
抱えているのは、数冊の記録。
量としては、取るに足らない。
百二十年分の失敗に比べれば、
あまりにも、少なすぎる。
「……」
彼女は、静かに机に向かい、ペンを取った。
公的記録ではない。
世界評価機構に提出する文書でもない。
誰にも見せない。
誰からも求められていない。
――それでも、書く。
【失敗記録庁・因果保管課
非公式記録】
題名すら、簡素だった。
彼女は、深く息を吸い、書き始める。
【評価外指定者は、ここにいた】
【名前は、記録に残らない】
【だが確かに、失敗を失敗のままにしなかった】
ペン先が、震える。
インクが、少し滲んだ。
「……」
彼女は、一度だけ、目を閉じた。
封鎖の直前。
彼の背中。
振り返らず、
それでも迷いのなかった声。
――「失敗は、残す」
その言葉だけが、
今もはっきりと残っている。
【彼は、ここで因果に触れた】
【成功にならなかった選択を、拾い上げた】
【それが、世界にとっての“危険”だったとしても】
一行書くたび、
胸の奥が、静かに痛んだ。
「……足りない」
彼女は、小さく呟いた。
記録としては、足りない。
説明も、証拠も、評価もない。
だが――
【私は、彼を見た】
【彼が、消えかけたのを】
【それでも、戻ってきたのを】
その一文を書いた瞬間、
ペンが止まった。
これ以上は、
記録官として、越えてはいけない一線だ。
彼女は、しばらく迷った。
そして――
書いた。
【彼が、いなくなったあと】
【私は、ここに残った】
それは、報告ではない。
記録でもない。
選択の告白だった。
外では、封鎖作業が続いている。
監査官たちは、効率よく、淡々と動いていた。
失敗記録庁は、予定通り解体されるだろう。
セラフィナ・アルトリウスは、
少し離れた場所から、それを見ていた。
何もできない。
それが、彼女の現実だった。
「……」
拳を握りしめても、
因果は動かない。
正史補正は、彼女に“正解の沈黙”を与える。
――それでも。
彼女の胸元で、紋章がかすかに揺れた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほど、微細な乱れ。
「……覚えておく」
彼女は、そう呟いた。
評価されなかった誰かが、
確かに、世界を動かしたことを。
それを、忘れないと決めた。
再び、失敗記録庁。
リーネは、最後の一行を書き終えた。
【この記録は、
世界に採用されなかった】
ペンを置く。
インクが乾くのを、
ただ、待つ。
世界がどう判断しようと、
この一冊だけは、消えない。
彼女が、覚えている限り。
「……」
リーネは、記録を胸に抱いた。
涙は、流れなかった。
泣く理由を、
まだ、言葉にできなかったからだ。
だが――
確かに、前へ進んでいる。
失敗記録庁は、終わった。
しかし。
失敗を失敗のままにしようとした意志は、
まだ、どこかで生きている。
そして――
世界の外れ。
評価も、記録も、正史も届かない場所で。
一つの因果が、
静かに、再接続されようとしていた。
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