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 ようやく九条からお役御免を言い渡された和彦は、牛小屋を出て大きく伸びをした。


 もう空には無数の星が輝いている時間となっていた。

 柔らかな風に押されて、和彦は丘に上ってみた。

 これまで何度も九条の手伝いで経験は積んできたが、やはり目の前で新たな命が誕生するというのは、気分の高揚するものなのだ。


 丘の上で大きく伸びをした。


「そういえば」


 町へ続く山道へ目をやる。

 フォウは帰りに村へ寄ると言っていたはずだが。


 お産が長引いていると聞いて、あきらめて先に帰ったのだろうか。

 どうせこっちはバイクで和彦さんはジープだもん、一緒に帰れるわけじゃねえし。

 そう言っている声が今にも聞こえてきそうで、和彦は一人で忍び笑いをした。


 そこへ。


 黒い人影がものすごい勢いで丘を駆けあがってきた。


 それまでは木の陰になっていて、気付かなかったのだ。

 まさか、フォウが自分を驚かせようとして、今までずっと隠れていたのか。

 いや、違う。

 月光で逆光になったその人影は、フォウよりもずいぶん小さい。


 マントがひるがえり、ポニーテールにした髪の毛が跳ねた。


「……ファラ!?」


和彦は目を見張った。


 アイザス・ダナの忠実なる親衛隊長。

小柄ながら一騎当千の強者として知られる女性剣士、ファラだ。


つぶれた片目を隠していた前髪が乱れるのも構わず、いっさんにこちらに向かって走ってくる。


 和彦はためらった。


 ファラは敵だ。

少なくともアイザス・ダナが和彦を宿敵と見なしている限り、彼女の態度も変わるはずがない。


 それでも最近は、奇妙な共闘関係が続いていた。

彼女がアイザスを切ないほどに慕っている気持ちも理解しているつもりだ。

だから、ものすごい形相で迫ってくるのを見ても、和彦は水を呼んだりはしなかった。闘いの構えも取らない。


「ファラ、どうした。何があったんだ」


「……リューン・ノア!」


 息を切らして、ファラが言った。


「お前の炎使いが、危険だ」


「なにっ!?」


とたんに和彦は顔色を変えた。


「どういうことだ、それは? なぜお前がそんなことを知っている? まさか……」


「違う!」


 強い口調でファラは否定した。


「我々の攻撃ではない。それどころか、ジャメリンやその他の連中にやられているわけでもない。炎使いは、自分から危険の中へ跳びこんでいったのだ」


 それはまあ、いつものことだ。


 などと洒落のめしている余裕は、和彦にもなかった。


「危険に跳びこむ? いったいフォウくんに何が……」


「すまぬ」


 次には、ファラは和彦に頭を下げた。


「何もかも、ムルスのやつが悪いのだ。あやつがバカな考えに憑りつかれて、一人で暴走した挙げ句に、なんの関係もなかったはずの炎使いを巻き込んでしまった。ムルスの口車に乗せられて、炎使いは今、かつてエメロードと呼ばれていた世界にあった地獄へ閉じ込められている」


「地獄に、閉じ込められた? フォウくんが?」


 和彦は戸惑うばかりだ。


 心配かと言われれば胃がちぎれそうなほど心配ではあるが、そもそも状況がまったく理解できない。

どうしてフォウがムルスと共に、異世界の地獄へ行く羽目になったのか。


 すまぬ、とファラがもう一度謝った。

 なんともいえない苦い表情をして、つぶれたほうの目を片手で覆う。


「なにもかも、これのせいだ」


「お前の目?」


「ムルスのやつが、これを取り戻そうなどと思いついたのが全ての始まり。そうしてやつは腹黒い巫女にまんまと踊らされて、炎使いを相棒にして地獄の魔物から私の目を取り戻そうと出掛けて行った、というわけなのだ」


 和彦は思わず、天を仰いでうめき声を上げてしまった。


 人助けとなると自分の身など顧みないのは、フォウの長所でもある。

だからといって、普段は敵対している相手のために、どうしてそれほどの無茶をするのか。しかも、なんの相談もなく。衝動的に。


ああ、それもフォウくんらしいと言えば、返す言葉もないのだけれど。


「部下の責任は私の責任だ」


 ファラもまた、切羽詰まった顔をしていた。


「本来なら私が一人でその地獄へ赴き、炎使い一人だけでも助け出してくるべきだというのはわかっている。だが、なにしろそこは強力の巫女の持ち物であり、その女でさえ入り込むことはできない禁断の世界なのだ」


「巫女自身でも入れないのに、ムルスとフォウくんはどうやって中へ入っていったんだい」


「ほんのわずかな時間、自分自身でない者なら送りこむことができるらしい。だが、それもほんの一時のこと。まもなく巫女の開けた入口は閉じ、ムルスと炎使いは二度とこちらの世界へ戻ってこられなくなる……

 いや、ムルスはいいのだムルスは。自業自得なのだから、未来永劫その異世界の地獄へ幽閉されてしまうがいい。だが、炎使いをそんなことに巻き込むのは、リューンの剣士としての道義として許されぬ」


 厳しいことを言いながらもファラが落ち着かなげに手を開いたり閉じたりしているのは、口とは裏腹にムルスのことも案じているからに違いなかった。

 アイザス・ダナにあれほど忠実に尽くしているこの娘が、同じように自分に尽くしてくれる部下を大切に思わぬはずもない。


「ゆえに、リューン・ノア。お前の力を借りねばならぬのだ。それも、急いで」


「僕の力?」


「リューンの腕輪は世界の壁を超えるだけの力がある」


 ズバリ言われて、和彦は思わず腕輪のはまった手を背中へ回してしまった。

 己が持つ資格のない至宝を独占していると糾弾されたようで、いたたまれなかったからだ。ファラにそんな意図がないことは承知の上で。


 和彦のためらいに気付かず、ファラは口早に続けた。


「私たちとて、異世界の地獄へ行くことはできない。だが、今の私は、その世界に間接的にならば干渉することができる……と思う」


「なぜ? どうやって?」


「私の目が、その中にあるからだ」


 なるほど、と和彦は膝を打った。


 そもそもリューンの兵士は、なみなみならぬ精神力を誇りにしている。

 ファラのような上級兵であれば、他者の精神を制御する技にも長けていよう。

 彼女なら、自らの体の一部を媒介にして精神力を送り込むことは、和彦が補佐をすれば可能かもしれない。


「わかった」


 和彦はもはや、腕輪を隠そうとはしなかった。


 むしろ、腕まくりをして中空にかざしてみせた。


願いをこめて念ずると、乳白色だった腕輪が急に鮮やかな輝きを放ち始める。


「ファラ、導いてくれ」


 水を呼んだ。


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