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 地獄、という単語は地球でも、ほとんどの宗教における死後の世界の訳語として使われている。

 そして、悪人の魂だけが送られるとか、生前の悪行に対する罰を受けるとかいう設定が加わることも多い。


 実際のあの世はもっと淡泊なものだと、フォウは知り合いの走無常から聞かされていた。

 死者の魂はこの世にあったときと同じように生活をする。

 魂が擦り切れた者は次第に消滅し、たまたま輪廻の環に乗った者が再生することもある。


 けれど人間は、死んでも業が深い生き物でさ。


 走無常はそう言って皮肉に笑っていた。


 ただボンヤリ死んでることに我慢できないやつらが、勝手に天国だとか地獄だとかを作っちまうんだよ。

 なんにもないだだっ広い荒野に、それぞれの民族が自分の死生観に合った街を作る、みたいのを想像してくれれば、わかりやすいかな。

 でもって、悪人は悪人同士で固まって、互いに相手のほうがより悪辣だといっていじめあうのさ。


 それって地獄だな、とコメントしたことをフォウは覚えている。

 だから地獄は地獄になるのさ、というのが走無常の返答だった。


 まさに、そういった世界だった。


 不定形の世界には淀んだ腐臭が漂い、奇妙に歪んだ地面と空に囲まれている。確かに自分の両足で立っているはずなのに、ともすれば平衡感覚を失って眩暈がする。それどころか、空間自体が脈動し、伸び縮みしているようにも見えた。


 極彩色の空はゆっくり大きく渦を巻いている。地上は荒れ果てた岩場といったふうだが、その岩もひとつずつ違った色をしていて、しかもそれがペンキをでたらめに塗ったようだ。どちらを向いても、目がチカチカしてくる。


「うわあ、こりゃたまらん」


 フォウは唸った。


「ムルス、さっさと行こうぜ。こんなデタラメな世界に長居は無用だ」


「おう」


 ムルスはフォウと違って、周囲のがちゃがちゃした風景に影響されていない。ファラの目につなげたという精神の糸へ、気持ちを集中させているからだ。

 おかしなふうに歪む景色には関係なく、自信たっぷりの足取りでどんどん歩き出した。


「こっちだ。そう遠くないぞ」


 だが、やはりすんなりとはいかなかった。


 急ぎ足の二人を遮るように、地面がぐうっと持ちあがって派手に弾けた。

 中から手の平ほどの、無数の軟体動物が飛び出してきた。


「うわっ」


 反射的にフォウはそれを振り払った。

 しかし、ぐしじゃぐじゃしたそれはなおもフォウの手に絡みつき、腕をよじ登ってくる。


「気をつけろ、小僧!」


 ムルスも剣を抜き、群がってくる軟体を右へ左へ払いのけているところだった。


「こいつらは、元はエメロード人の魂だ。他のやつらを食うことで大きくなり、魔物に成長するのだ」


「それを早く言えよ!」


 フォウが大きく跳びずさり、両手を組み合わせて呪術の構えを取った。

 口早に悪霊払いの呪文を唱え、組んだひとさし指を魂たちに向ける。


「悪霊退散!」


 気合を入れたが、何も起こらなかった。


「ありゃあ? 魂封じが効かねえ?」


 フォウは慌てて指を組みなおした。

 もう一度呪文を唱えようとしたが、その前に魂たちがいっせいに群がってきた。

 たちまちフォウはアメーバ状の彼らに押しつぶされた。

 地面に叩きつけられ、そのうえ腕といわず足といわず、どこもかしこも噛みつかれて悲鳴を上げる。


「小僧、大丈夫か!」


 ムルスがフォウに跳びつき、食いついた魂を次々とむしり取った。

 宙に放り出された魂は、しかしすぐに向きを変えて今度はムルスにかじりつく。


「おそらく、お前の呪文は地球でしか効果がないのだ!」


 背中一面に無数の捕食者をぶらさげたムルスが、フォウを自分の体でかばいながら怒鳴った。


「ここは異世界の地獄だ! ここにいる魂も異世界の人間のものだ! お前の神には手に余るのだろうよ!」


「なるほどね。確かに霊幻道士の技ってのは、道教の神様に依存してるところはあるからなあ。異世界の地獄は、俺の守護神も守備範囲外だろうぜ」


「呑気なことを言っている場合か! 小僧、お前の炎はどうだ、やってみろ!」


「偉そうに命令するなあ……」


 口では文句を言いつつも、フォウは素直にマッチを取り出した。靴のかかとで擦って点けた火を、たちまち両手の中で大きな日輪に作り変える。


「おっ、いけそうだぜ。ムルス、背中をこっちに向けろや」


 ムルスが体をひねると、無数の魂にかじられている背中が剥き出しになった。その表面をかすめるようにして、フォウは火の輪を斜めに飛ばした。

 たちまち炎が魂たちに食い込み、根元から炎上させた。

 耳が痛くなるかん高い悲鳴をまき散らし、魂が幾つも蒸発して消えた。


「いいぞ、小僧!」


 ムルスも剣をふるった。当たるを幸い、次々に切り裂いていく。

 半分に千切れた魂を、フォウの炎が追いかけて包み込む。


「どけどけ、亡者ども! 悪いが俺たちは、てめえらに構ってる暇はねえんだ!」


 フォウが幾つもの火の輪を作り、四方八方へ飛ばした。

 さらにもう一つ、今度は炎を丈の長い龍の形にして、自身を囲ませて周回させる。

 炎の龍が鎌首をもたげ、大口を開いた。

 口の中から小さな龍が何匹も飛び出し、魂たちを追いまわした。


「この隙に、お前は先に行けよ、ムルス!」


 フォウが炎の龍ごと両手両足を広げてムルスの前に立ちはだかり、叫んだ。


「ここは俺一人で十分だ! お前はファラの目を追っかけて行け。というか、お前にしかその場所はわからないんだから」


「し、しかし……」


「ためらってどうすんだよ! 俺たちには時間がないってのを忘れたのか! こういうときは役割分担が一番だろうが!」


「油断するなよ、小僧!」


 ためらいつつも、フォウの強い目付きに押されてムルスは走り出した。

 走りながらも、肩越しにフォウを振り返って叫んだ。


「そいつらは雑魚だ! 本物の魔物は、たくさんの亡者の魂を呑みこんで、もっと大きく強い力を持つようになっている! そういうやつが、いつ出てこんとも限らん! 気をつけろ!」


「わかってるって!」


 暴れまわりながら、フォウが陽気に叫び返した。


「こちとら地獄の魔物とは何度もやりあってるんだ。お前こそ油断して、お宝にたどり着く前にやられるんじゃねえぞ!」


 その声を背に、ムルスは必死で走った。


 走っても走っても、同じような風景が現れるばかりだった。

 けれどもムルスは景色など気にしなかった。

 ファラの目のところへ誘う精神の糸にだけ意識を集中させ、その導くまま真っすぐに地獄を走り抜ける。


 だしぬけに、目の前に洞窟が現れた。


 もはや精神の糸をたぐる必要はなかった。

 その洞窟の奥のほうで、ぼんやりした光がまたたいている。

 薄い空の色をした、切ないほどに透き通った光。


 ファラの目の色だった。


 見つけた。

 ホッとして、ムルスは洞窟の入口をくぐった。


 中は真っ暗だったが、ファラの目の輝きを頼りにして道を進んだ。幸い洞窟の中は、ムルスの巨体が困らない程度には広かった。


 しばらく奥へ進んで。


 いきなり視界が開けた。


 さっきまでの輝きは、細い道から漏れ出したものだとようやく気付いた。

 そこには大きな丸いくぼみがあって、向こう側の少し高いところにある岩の上から光があたりに広がり、満ちていた。

 ムルスのよく知る、水色の輝き。

 ムルスは嗚咽をこらえた。


 あの岩の上に、ファラ様の目が。


 大きなくぼみを回り込もうとして、ムルスは腰に下げた砂時計をちらりと見た。


 ハッと息を呑んだ。


 思ったよりも、砂の落下速度が早くなっている。

 上部に残っている砂は、もう最初の四分の一足らずだ。


 急がねば。


 くぼみを横切ろうと、へりから中へ飛び降りた。


 そのとたん。


 ぐわあああああん。


 何かが吠えた。


 同時に、くぼみの底の地面に亀裂が入った。

 亀裂は八方に広がり、中央から真っ黒なものがせりあがってきた。


「くそ!」


 舌打ちをしてムルスは跳び退いた。


 魔物だ。

 しかも、大きい。


 小山ほどもあろうかという大きな黒い塊から、触手がにゅっと突き出した。

 続いて何本も。

 あっという間に、不定形の黒い体の表面全てが無数の触手で覆われた。

 触手がのたうち、ムルスに伸ばされた。


 じゅっ。

 ムルスの頬をかすめた触手が嫌な音を立てた。

 焼けるような熱さが頬に残り、思わず手をやってみるとその部分の皮膚が指にくっついて落ちてきた。

 続いて、だらだらと血が流れ落ちる。


 だが、自分が攻撃されたことよりも。


「な、何をする!」


 ムルスとは反対側の触手が、岩場へ伸ばされた。

 そこに置かれていた空色の輝く玉を掴み、高く掲げる。

 そんじょそこらの宝石など比べ物にもならないほど美しい、それは。


「ファラ様の目を、返せええ!」


 ムルスは剣を抜くなり、魔物に切りかかった。

 幾つかの触手を首尾よく切り裂いたが、切断面からあふれた粘液がすぐにむくむくと増大し、元の触手の形になってしまう。


 ファラの目を包んだ触手は、相変らず空中をゆらゆらと動いている。

 それがこの魔物の口へ運ばれたらと思うと、ムルスは気が気ではなかった。


 人間の目玉は魔物の嗜好品。

 ミリシアの意地悪な言葉が脳裏にがんがんと響く。


 気に入ったら大切に取っておくかもしれない。けれども食べたくなったら、いつ食べてしまってもおかしくはない。


 今がそのときでありませんように。


 そんな気分にさせないためにも、攻撃を続けねばならぬ。

 覚悟を決めて、ムルスはさらに剣をふるった。

 自分を狙ってくる触手を次々と切り落とした。


 そうしながら、この魔物の口ばどこなのだろうかと観察した。

 ファラ様の目を守るためには、口を攻撃したほうがいいのではないか。


 そうしている間にも、砂時計は残酷に時を刻んでいく。


「ムルス! おおーい、ムルス!」


 入口のほうからフォウの呼び声が響いてきた。

 亡者たちを退治して、後を追ってきてくれたらしい。


「うわっ、なんだこりやあ!?」


異形の魔物に驚きながらも、すぐに炎の輪を両手に構えてムルスの加勢に入る。

 何本かの触手を切り裂いた二本の炎は、互いに方向転換して魔物の本体に突き刺さった。

 炎が魔物を取り巻き、触手ごと燃やそうとする。


 魔物が苦痛の雄叫びを上げた。


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