4
4
普段、家周りの仕事は和彦がやることになっている。
買い出しに行くのも、基本的には和彦の役目だ。
それがいつもフォウと一緒になるのは、研究所に籠っているばっかりじゃやってらんねえ、とフォウが勝手についていくからである。
だから今日、フォウが一人で町に出たのは、ごく珍しいことだった。
これも本来は和彦と一緒に、郵便局留めの研究資料を受け取りに行くという話になっていた。
だが、そろそろ車を出そうかというときになって、またぞろ九条先生から連絡がやってきて、和彦は牛のお産に駆り出されてしまったのである。
俺も一緒にと言ってはみたが、てめえなんぞ牛のお産のことはなんにも知らないだろうと、九条にすぐいなされてしまった。
郵便局の保管期限も今日までなので、お産が終わるまで村で待っていることもできない。
「ちぇっ」
結局フォウはジープを和彦に譲り、自分はバイクを車庫から引っ張り出して町へやってきたのである。
例によって昼近くになってようやく起きだしてきたので、町についたら郵便局が閉まりかけていた。
慌てて跳びこみ、外国人身分証を出して代わりに荷物を受け取った。
とはいっても郵便局のほうも、山奥の研究所からときどき荷物を取りにやってくるこの外国人助手は見慣れている。
はいご苦労さんとねぎらうばかりか、窓口のおばちゃんはお配り用の飴をひとつかみ、フォウに渡してくれた。
荷物といっても、観測機器の小さな部品である。
小さな小包をポケットに納め、フォウは夕暮れの町へさまよい出た。
どこからか、カレーの匂いが漂ってくる。学校帰りの学生たちが笑いさざめきながら通り過ぎる。道の向こうの古風な商店街では、青物屋が見切り品のセールを始めたところで、次々と人が訪れていた。
いいよな、こういうの。
フォウはほっこりした気持ちで町を見回した。
香港の下町と比べれば、活気という意味では比べ物にならない光景だ。
しかし、そこに暮らす人々の生活が、地に足がついているという感じがなんとなく似ている、とフォウは思う。
かつてフォウが暮らしていた香港の下町でも、青空市場では毎日おばちゃんたちが丁々発止のやり取りを繰り広げ、学生たちは笑いさざめいていた。
そしてフォウは、そんな雑多な街並みと人々が好きだった。
それが俺のモチベーション。
と、フォウは自分で思っている。
こういった市井の人々を守るためだと思えば、どんな辛い修行にも耐えられる。どれほど不利な闘いでも、心折れずに最後まで頑張りぬくことができる。
それは、香港で悪霊や妖怪を相手にしていたときも、日本に来て和彦と共に闘うようになってからも、変わらない。
誰かを笑顔にするために、フォウは命を賭けるのだ。
などと考えながら、ひょいと路地裏に踏み込んでみたら。
「ぎやっ」
仰天して、フォウはその場で跳びあがった。
なぜなら、そこにいたのはフォウのよく見知った、片腕が義手の巨人だったからである。
フォウよりも頭ひとつは高いところにあるその顔は、仏頂面もいいところ。
田舎町の路地とはあまりにそぐわない、マントを背にひるがえしたそのいでたち。
もちろん腰には大剣を無造作にぶら下げている。
おまけにその肌は濃い青色だ。
「ム、ム、ムルス!?」
ひっくり返った声でフォウは叫んだ。
「てめえ、なんでいきなりこんなところに……」
「探したぞ、小僧」
フォウの驚きは、青い巨人には完全に無視されてしまった。
猫の子のように襟首を掴まれてぶら下げられ、フォウはそれこそ猫もかくやとばかり目を吊り上げた。
「な、なーにしやがるっ、この野郎! 今度はいったい何を企んでやがるんだ! てめえらがどんなおかしな作戦を実行しようが、この俺と和彦さんが必ず……」
「黙れ、小僧」
「な……」
「そんなに勢いよく啖呵をきられては、こちらの話したいことが始められん」
あまりにもいつもと違う様子のムルスに、フォウも気を呑まれた。吊り下げられたまま、猫の目をして絶句する。
それをいいことに、ムルスはフォウをぶらさげたままで、のっしのっしと歩き出した。どうやら、向かう先は路地の奥にある朽ちた倉庫の中らしい。
自分のいでたちが地球では人前に出られないものだという自覚はあるようだ。
「あいたっ」
倉庫の隅に積みあげられたセメント袋の上へ放り出され、フォウは思わず声を上げた。もっと文句を言ってやろうと座り直し、ムルスを見下ろしてまた言葉を失う。
「な、な、な、なにしてんだよお前はあ」
そこでは、ムルスが巨体を半分に折り曲げて。
埃だらけの床に額をすりつけ、土下座していたのである。
「おいおいおいっ、俺には何がなんだかわかんねえよ。いったい何がどうなってんだよ」
おろおろしながらセメント袋から滑り降り、ムルスの前に着地する。
片膝をついてムルスの顔をのぞきこみ、腕を掴んで引き起こそうとした。
しかしムルスはかたくなに頭を上げようとしない。
挙げ句。
「頼む、小僧! どうか俺の願いを聞き入れてくれ!」
さらに頭を低くして哀願してきたからフォウはたまげた。
「……どういうこと?」
「もちろん、お前に危険が及ぶようなことはないように、命を賭けて俺が守ってやる! お前はただ、俺の後ろからついてきてくれるだけでいいのだ。こんなことをお前に頼むのは、俺としても本当に心外であり、申し訳なくも思っている。だが、気が付いたときには話がそういうことになっていて、どうにもならなかったのだ。だから……」
「待て待て、待てってば」
フォウは慌ててムルスの言葉を押しとどめた。
「そんだけ言葉を使って喋られても、俺にはいまだになんのことだかさっぱりわかんねえよ。なんで俺がお前に守られなきゃなんないんだ?」
「俺にもその危険がどんなものか、つまびらかにはわからんのだが。それはもう、異世界の魔物の闊歩する地獄ということだから、お前を連れていくというだけでも、それなりの危険はあるだろうと……」
「地獄ぅ?」
途方に暮れて、フォウは自分の頭を両手でかきむしった。それだけでは足りずに、その場で地団太を踏んだ。
「わけわかんねえよ! 俺がお前に連れられて、どこのどんな地獄に行くって?」
「エメロード、という名の世界にあった地獄なのだそうだ」
「世界? に、あった?」
「今はもう滅び去った異世界だ。その世界を自ら滅ぼしたと自称する巫女が、デュアルの魔女に投降するときその地獄を切り取って、手土産代わりに持ってきたらしい。そこに住まう魔物とは、お前も何度か闘ったことがあると巫女は言っていたぞ」
「ああ! 確かに!」
フォウは手を打って納得した。
が、次の瞬間にはその手をムルスの襟にかけてがなり立てた。
「だから! なんで俺がその巫女とやらの地獄へお前と一緒に行かなきゃならないんだよ!」
「そこにファラさまの目があるからだ!」
食いつかんばかりの勢いで怒鳴り返され、フォウはついムルスの襟首から手を放してしまった。
「ファラの、目が?」
前回、メタン惑星にアイザス・ダナが囚われたときは、ムルスとファラが和彦の助力を頼みに来た。
そのとき確かにファラは片目になっており、アイザスを助ける代償として巫女に差し出したと言っていた。
「……巫女!」
フォウは急に大声を上げた。
頭の中で二つの話がようやく繋がったからだ。
「ムルス、てめえの言う巫女ってやつが、ファラから片目を取り上げたのと同じ女なんだな? でもってお前は、ファラのために目を取り返そうっていうのか」
そこまで言ってから、フォウは首をかしげる。
「いや、待てよ。その話のどこに俺が関わってくるんだ」
「だから、さっきから俺は、そのことを謝っておるのだ」
辛抱強くムルスが言った。
「気まぐれな巫女のふとした思い付きだ。というのはただのポーズであって、自分の派遣した魔物を次々とお前たちに倒されていることが、腹立たしくてならんのだろう。しかも精神世界を操る力を誇る巫女として、リューン・ノアよりもお前に対して同類嫌悪のような感情を抱いている、と俺は分析する」
「なるほど。霊幻道士と巫女は、業務的にいえばまたいとこみたいなもんかもしれねえな」
「だから、俺がお前に同行してもらえたら、ファラ様の目を探しにやつの地獄へ入ってもよい……と、巫女は言い出したのだ。すまん、本当にすまん!」
「あー……」
ようやく話のなりゆきを理解したフォウは、戸惑いつつぐしゃぐしゃとやたりに髪の毛をかき回した。
「なるほどねえ。そいつはまた底意地悪の悪い女だなあ」
自分の魔物を倒された仕返しに、この一件にはなんの関わりもない霊幻道士を巻き込んでやろうというわけか。
フォウが邪険に断るなら、困り果てたムルスを見物して楽しめる。フォウが承諾すれば、なおさら好都合。このチャンスを逃さず、地獄に閉じ込めてしまえというくらいの魂胆はありそうだ。
「いや、それだけは心配ない」
しかしムルスは強い調子でフォウの懸念を否定した。
「あの女に確認したところ、自らの所有物であるその地獄とやらへ、自分で入り込むことはできぬのだそうだ。あやつにできるのは、こちら側から魔物を呼びだすことだけ。我々を送り込むとしても、長い時間は無理だと言っていた。その限られた時間で見知らぬ地獄をさまよって、目的のものを見つけられるなら、やってみるがいい。あの女はそう言って笑っていた」
「なるほど。つまりその巫女は、俺たち霊幻道士と同じようなもんってことだな」
フォウは顎を撫でて考え込んだ。
霊幻道士は、冥府を訪れることはできない。ほんの短い時間だけ、向こう側で暮らしている死者の魂をこちらの世界へ呼びだすことはできるが、干渉できるのはその程度だ。エメロードの巫女というのはその逆で、短時間だけならこちらの世界から向こう側へ、誰かを送り込むことができるのだろう。
違っているのは、その「向こう側」が単なる冥府ではなく、異世界の魔物が跳梁する地獄だということだ。
「おもしれえ」
フォウはにやりと笑った。
香港では霊幻道士として、さんざん悪霊やら妖怪やらと闘ってきた身である。
自分では行けないにしても、死後の世界については話も聞き、そこを束の間、垣間見ることもあった。
そんなフォウでも、別の世界における死者の行く先などというものは、見たことも聞いたこともない。
そもそも霊幻道士時代には、平行世界という概念自体に縁がなかった。
「和彦さんが知ったら……」
フォウはひとりごちた。
それはもう、必ず反対するだろう。
元よりフォウが闘いに加わること自体を和彦は喜ばない。
ましてやその闘いの場所が、異世界の地獄というのだから。
「ま、いいか」
和彦さんには黙っていけばいいや。
どうせ怒られるなら、戻ってきてからでも遅くはない。
「ファラの目を探すといってもよ」
フォウはあっさりと問題を解決し、ムルスに向き直った。
「時間制限があるとも言ってたじゃねえか。なんの手がかりもなしで、知らない世界を二人でウロウロしたところで効率はよくねえと思うんだけど」
「それは大丈夫だ」
ムルスが自分の胸を叩いて言った。
「ファラ様がご自分の目を差し出すと言い張って、止めようにも止められないとわかったときに、ファラ様の目へ俺の精神の糸をひっかけておいた」
「精神の糸?」
「リューンの貴族王族が無生物を操って己の武器としていることは、お前も知ってるな?」
もちろんだ。
和彦は水を呼んで氷の武器に変え、アイザス・ダナは風を操る。
「我々のような庶民は、いくら修行を積んだところで、命を持たないものを操る高度な技は習得できん。だが、兵士の中でも素質のある者なら、精神を使って別の生き物に干渉することができるのだ。むろん、たいへんな修行を必要とするがな」
そして、アイザス・ダナの親衛隊の中でも最側近と呼ばれる手練れのこの男が、その技を身につけていないはずはない。
なるほど、とフォウも納得した。
同じ技をフォウも使うことができる。悪霊を追跡するとき、よく使っていた手だ。
イメージとしては、精神を細い糸の形にして、悪霊の尻尾にそっと巻きつけるという感じである。
霊幻道士の技というのは理屈ではなく、実戦による経験則なので、何をどうやってと問われると説明は難しいのだが。
しかし、確かなことが一つある。
どんな霊幻道士であれ、この技を使うと精神力を非常に消耗する。
フォウはムルスの顔を盗み見た。
元々青い肌をしているのでわかりにくいが、いつもより疲れた表情をしているのは間違いない。
今この瞬間もムルスは、地獄へ持ち去られたファラの目と精神をつなげたままなのだ。
しかし、だからこそムルスには自信もあり、勝算もあるのだろう。
巫女から妙な条件さえ持ちだされなかったら、そのまますぐにでも地獄へ跳びこみ、精神の糸をたどってファラの目を見つけ出していたに違いない。
ムルスがふところから何かを取り出した。
砂時計だった。
地球のものより複雑怪奇な形をしており、やたらにごつごつした装飾が配置されているが、その機能については見ればわかる。
上半分の透明な空間はからっぽで、下半分にはキラキラ光る細かな粒が詰め込まれている。
「これをひっくり返せば、巫女が我々二人を地獄へ送り込む。砂の最後の一粒が落ちきるまで。それが我々の制限時間だ」
ムルスが重々しい口調で言った。
「すまんが、頼む」
もう一度、フォウに頭を下げる。
砂時計を逆さまにした。




