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ミリシアはすげなかった。
「だってあなた、悪人じゃないんだもの」
懇願しようとするムルスの言葉を最初の数語で遮り、いかにもうんざりしたふうに首を振って言った。
「あなただけじゃないわよ。アイザス・ダナの親衛隊員はぜーんぶ、不合格。なぜかって? だって、あなたたちの行動規範は正義と公正なんでしょう? そんな人たちが堕落して悪人になったらさぞかし面白いだろうとは思うけど、期待するだけ時間の無駄よね。だから、駄目」
この巫女は、己の世界で一番の悪人が自分だと考えている。
悪人だからこそ、たった一人で自分の世界を滅ぼした。滅びていく世界を目の当たりにしても平気だった。
逆に、自らが悪人だと信じることでしか、彼女は自分のの心の平穏を保てないのではないか。
ムルスはそんなふうに推測している。
罪悪感があるからこそ、彼女は自分と同じくらいの悪人を必要としている。どの平行世界にも自分のような悪人がいるのだと思い、安心しようとしている。
だから、他人にも悪人であることを求めるのだ。
それがわかっていて、ムルスはミリシアに土下座する。
彼女にすがるより他、方法はないからだ。
「お願いでございます。どうか、ファラ様の目をお返しください。その代わりに、私の目でよければ喜んで差し出しますから」
「いやあ、よ」
ミリシアはてきめんに顔をしかめた。
「あんたの目なんか取っても、ちっとも楽しくないわ。綺麗な顔をした女の顔から奪うからこそ、楽しいんじゃないの。あんたみたいな強面にとっては、片目がなくなったところで別に、外見的なダメージはないでしょう。それどころか、かえって強そうに見えてしまうかもしれない。それは私にとって、ものすごく面白くないことだわ」
デュアルの部下になる者は多かれ少なかれ、この女と似たような我がまま気ままな性格をしている。
結局、自分の世界を見限って昨日まで宿敵だった者に投降する者は、同じ資質を人格の中に抱えているということだろう。
ムルスの主君でありファラの慕うアイザス・ダナにしたところが、同じこと。
主君だと思えばこそ耐えられるというものだ。
しかし今、ムルスはこの女の我がままにも耐えねばならぬ。
全ては敬愛するファラのため。
「では、私が何をすればミリシア様は面白がってくださるのでしょうか」
ムルスは必死で食い下がった。
「無骨者ゆえ、私は自分でその面白いこととやらを思いつくことができませぬ。どうかミリシア様からご教授くださいませ。そうして、私が首尾よくミリシア様を面白がらせることができれば、ファラ様の目を返していただけましょうか」
「バカを言わないで」
「はっ。私は大バカ者でございますゆえ、平気でバカなことを申します」
「わからない人ね。バカの相手はしたくないと言っているの」
「さすれば、私の願いをお聞き入れいただく、というのはどうでございましょう。これ以上バカにまとわりつかれることもなく、バスの相手もせずにすみますぞ」
ミリシアは一瞬、目に怒りをひらめかせた。
だが、次には笑い出してしまった。
「なんてこと。お前、ちょっとだけ面白いわ」
「それは恐悦至極」
ムルスは深々と礼をした。
ミリシアがデュアルから拝領した空間は、なにもないだだっ広い広間の形をしていた。その床にも壁にも天井にも、ムルスの知らない文字で無数の模様が描かれている。
それがミリシアの使う呪文であり、彼女が地獄と呼ぶところから魔物を呼びだして使役していることを、ムルスはシラドから聞き知っていた。
精神世界の巫女。
白装束を身にまとったその姿は天女もかくや。しかしその内心は、暗い情念に淀んでいる。
片手をひとふりすると、壁に幾つもの灯が生まれた。
暗い部屋の中で、ムルスの姿がぼうと照らし出される。
ムルスは目をしばたたいた。
それがずいぶん間抜けな表情に見えたのだろう、ミリシアが朗らかな笑い声を上げる。
「おいで」
片手でムルスを差し招き、部屋の奥へと歩き出した。
ムルスは慌てて立ち上がり、ミリシアの後に付き従った。
灯はミリシアの行く手を先回りするように次々と輝き、ミリシアは無造作にそこを歩いていく。
いくらもいかないうちに部屋の向かい側の壁へ到達すると思いきや、どこまで歩いてもその先には壁がある。
歪んだ亜空間の見せる不思議だ。
「リューンでは、死者はどこへ行くの?」
歩きながら、振り向きもせずミリシアが尋ねた。
「はて」
ムルスは首をかしげた。
「海……でございましようかな」
「なんで海なのよ」
「少なくとも貴族の方々は、死ねば石を抱かされ甕に封印されて、海の底へ投げおろされることになっておりましたので」
「独創的……」
さすがのミリシアが立ち止まり、目を丸くしてムルスを肩越しに振り返った。
「貴族じゃない、お前たちみたいな下々の者はどうなのよ」
「はてさて。やはり海だと思いますが」
「なんでよ」
「下々の者は山奥の洞窟に置いておいたり、人里から離れた流氷の上に横たえたりいたしますが、結局のところは全てが氷に包まれて、氷河の一部となって海へ流れていきますので。その魂も海の果てのどこかに流れ着くのではないか、と」
「すごく独創的」
「そうでしょうか。我らは自分の世界のことしか知りませぬもので、別におかしいとは思わぬのですけれども」
「たいていの世界では、死者は地面に埋めるものなのよ。だから、死後に行くのもなんとなく地面の下という気がするものなの。けれどお前たちリューンの者は、自分たちの生息圏の連続した先に死者の国があると考えるわけね。面白いわ」
何を感心されたのかムルスには理解できなかったが、この女を面白がらせることは自分のためであり、ファラのためにもなる。
よいことを話した、と思うようにした。
やがてミリシアは急に立ち止まった。
「ごらん」
やはり遠くに見えている壁の一隅を指さす。
そこは黒々とした穴のようになっている。空間の歪みが生む穴とは違う。内部から粘ついたものがあふれだそうとしている、禍々しい質量を秘めた穴だ。
「これは……」
「地獄、と私たちは呼んでいた」
ミリシアがひらひらとその穴へ手を振った。穴がぐにゃぐにゃと形を歪ませ、物欲し気な呻きを漏らした。
びくっとして後ずさったムルスを、ミリシアは冷笑と共に見やった。
「これが、我らのエメロードが抱えていた業。肉体よりも精神のほうが発達したエメロード人は、言葉も交わさず顔も見ず、精神のみの接触で社会生活を送るようになった。相手に会わぬままのコミュニケーションは互いの親密度よりも悪意のほうを助長し、人々の心は荒れた。
そして、死んだ後も強力なエメロード人の心は現世に残り、まだ生きている者たちに害を加えるようになった……」
「はあ、しかし」
ムルスは首をかしげた。
「ミリシア様はこうやって、体と言葉を使って我々と相対しておられるのでは?」
「私はバカじゃなかったから」
そっけない口調でミリシアは言った。
「それがエメロードの滅びにつながり、デュアルの魔女に狙われる原因になったと理解していたのは、あの世界では私一人だった。だから、生き残る権利があるのも私一人」
ひとつの平行世界に生まれる高等知的生命体は一種類だけ。そしてデュアルの魔女は、世界ごとその生命体を滅ぼす。
彼女がなぜ、その世界に目をつけたのかは誰にもわからない。
魔女は、滅びる世界の中から投降者を募る。
選ばれた者はデュアルの軍団の一員となり、彼女のために別の世界を滅ぼす役目を背負うかわりに、永遠の命を与えられる。
その中には、自分の部下を引き連れて投降したアイザス・ダナのような者もいる。グランロゼやミリシアのように、たった一人で軍団に加わった者もいる。
「グランロゼ? あれもバカ。バカな機械の女」
ミリシアはせせら笑った。
「自信過剰の愚か者。いくら個人の技量が優れていようとも、一人ぼっちではろくな成果もあげられまい。現に彼女は今に至るまで、どこの世界の滅亡も魔女から任されてはいない」
私は違う、とミリシアは言う。
「すでに幾つもの世界を魔女のために滅ぼした。その中には、私が見つけて推薦した世界もある。それもこれも、私が投降したときエメロードの地獄を伴っていたと、魔女が知っているから。私は一人でも十分に実力がある」
「地獄の……実力?」
「始まりは、荒ぶる死者の精神を押し込めて、現世に悪さをしないようにと考え出された結界だった」
ミシリアは話を続けた。
ムルスに話しているというよりは、誰でもいいから喋らずにいられないというふうに見えた。
なんだかんだ言いながらも、この女も孤独に苛まれているのではないか。
長話を拝聴しながら、ムルスは密かにそう感じた。
「入れ物の中にいろんな毒虫を入れておいたら、どうなると思う? 互いに食らいあって、強い者だけが生き残っていくでしょう。結界の中でも同じことが起こった。邪悪な死者の精神は、互いに傷つけあいつぶしあった。より強い力を得るため、相手を喰らう者もでてきた。精神はとかく、変質しやすいもの。邪悪な精神はどんどん邪悪な形へと変化していき、私たち巫女はそれを魔物と呼ぶようになった」
「ええっ、では」
ムルスは目を剥いた。
「あなた様が呼びだして操るという魔物は、元はあなた様の世界の人間だったというわけですか?」
「人間の、なれの果てよ」
ミリシアは吐き捨てるように言った。
「元は自分が人間だったことさえ忘れてしまった、邪悪な精神の塊でしかない。私たち巫女はそれを飼いならし、目的に合わせて呼びだすことができた。その力で世界を支配しつつも、結局は他の愚か者たちと同じく巫女同士で憎みあい妬みあって、自らが魔物と化していった……。そうやってついにエメロードが滅びたとき、私は自分の持ち物である地獄のうち最強で最悪の一つを世界から切り取って、ここへ持ってきたの」
うっそりと、ミリシアは笑う。
仮面よりも整ったその白皙が、揺らぐ灯に照らし出されて不気味な影を作る。
「魔物が弱れば、私の強味もなくなる。だから私は魔物の餌にするために、目立たぬ小さな平行世界をこっそりと滅ぼしては、そのエネルギーをつぎこんでいるの」
「デュ、デュアル様に内緒で、ですか?」
「ああら。ささやかな世界の一つや二つ、魔女は気にしないわよ」
そうだろうか。
ムルスは首筋にうそ寒いものを覚えた。
全能のお方が、部下の造反を知らないなどということがあるだろうか。わかっていて好きにやらせているだけではないのか。
そのうち目に余るようになったら、この女は痕跡ひとつ残さず消されてしまうのかもしれない。
この女は危険だ。
関わりあっていれば、いずれ大変なことになる。
そう思いつつもムルスがその場から立ち去れないのは、ファラを想う心ゆえだった。
危険も無茶も、最初から承知。
とにかく何が何でもファラ様の目を取り戻すのだ。
「さきほどからお話をうかがっておりますと、魔物の餌は世界ひとつぶんまるごとという、たいへんな量が必要ということですな。では、ファラ様の片目ひとつなど、あってもなくても同じようなものではないですか。でしたら、お返しくださっても……」
ふふん、とミリシアは笑った。
「バカはバカなりに頭を使うのね。ええ、そのとおりよ。人間の体の一部なんか、魔物にとってはただの気晴らしでしかないわ。しかも、自分の手で屠ったという喜びもない。単に、この目玉を失った者がどれほど辛い思いをしているだろうと、そう思ってちよっとばかりいい気分になるのが関の山」
「で、でしたら……」
「お黙り!」
ぴしゃりと言って、しかしすぐにミリシアは笑顔になった。
「と、さっきまでの私ならそう言ってお前を追い払ったことでしょう。けれど、お前は私をけっこう面白がらせてくれた。だから、チャンスを上げてもいい」
「ほ、本当ですか!」
「あの小娘の目がまだ残っているかどうかということさえ、保証はないのよ。私は地獄の魔物たちが好きに扱うようにと、それを放り投げてやっただけ。魔物たちが面白がってズタズタにしているかもしれないし、取り合いになって引き裂いてしまったかもしれない。けれども、興味を引かれてそれを拾い、ねぐらに隠している魔物がいないとも限らない。可能性はたったそれだけ。それでも、私の試練を受けてみる?」
「むろん!」
打てば響くようにムルスは即答した。この気まぐれな女の気持ちが変わらないうちにと必死だった。
ほんの少しでも希望があるのなら。
命を賭けて、損はない。
「どうすればよろしいので?」
「自分一人で探しに行くのよ。お前の探しているものを」
「どこへ?」
「もちろん、私の地獄へ」
含み笑いと共にミリシアは答えた。
予想はしていたものの、あまりにも端的な返答にムルスがウッと詰まる。
その姿を、満足そうに腕組みをしてミリシアは見物した。
「一人、というのはあまりに気の毒な条件かしら。そうよね、お前はエメロードの魔物について何も知らないんだから。地獄に踏み込むなり頭から食われてしまっても仕方がないけど、それでは私が面白くないわ。いいでしょう、一人だけ、同行させることを許しましょう」
「い、いや……」
ムルスはかえって戸惑った。
もちろん一人だけでこの試練をやり遂げるつもりだったからだ。
慌てて、親衛隊員の顔を思い浮かべてみる。誰しもファラのためだといえば喜んでついてはくるだろうが、だからといって連れていっても意味はないような。
「そうだ、あれはどう?」
ふと、ミリシアが目を輝かせた。
「あれ、とは?」
「地球の、ほら。炎を使う。あの子は地球で、精神世界を操る私たちと似たような仕事をしていた、とシラドが言っていたわ。霊幻道士、といったかしら。荒ぶる死者の魂を制御し、ときには消滅させるとか。あの子なら、私の魔物と闘ったこともある。倒したこともある。そうよ、あの子にしなさい」
だしぬけにそんなことを高圧的に言われても。
「し、しかしあの小僧はそもそも、我々の敵リューン・ノアの友人であり、我々にも敵対してくるという存在なので……」
「あははは! だから面白いんじゃないの!」
ミリシアは高らかに笑った。
「宿敵のところへ出掛けていって、惚れた女のために平身低頭するお前のことを想像するだけで、わくわくしてくるわ! 決めた、お前は必ずあの炎使いを連れて地獄へ行くのよ。そうでなければチャンスは与えてあげないわ」
「ミ、ミリシア様!」
できるものなら金属の義手でこのいけすかない女をひとひねりにしてやりたい。
ムルスは左手で義手を押さえて、その衝動をなんとかこらえた。
炎を使う、リューン・ノアの親友。
これもまでにもあの男とは、さまざまな成り行きで共闘する羽目になった。
だから、あの男の心根はわかっているつもりだ。
困っている者を見て放っておけるようなやつではない。頼めば、きっと承諾してくれるだろう。
あとは、ムルスが決断するだけ。
敵にすがる情けなさと、ファラの目と。
どちらを選ぶ?
考えるまでもなかった。




