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剣が弾かれ、宙を舞った。
ファラの体も横ざまに吹っ飛ばされ、脇腹から地面に叩きつけられた。
そのまま一回転して、姿勢を崩しながらも立ち上がる。
「もう一回!」
食いしばった歯の間から叫んだ。
「ファラ様……」
ムルスは困り果てて、練習用の剣をやたらに振った。
「もうおやめなさいませ。今日のぶんとしては、もう十分でございましょう」
「黙れ!」
目に怒りをきらめかせ、ファラが怒鳴った。
「誰がどれだけ訓練するかを決めるのは、隊長であるこの私だ! さしでがましいぞ、ムルス!」
「は……はっ。申し訳ありません」
「隊長の私が、私自身にはもっと訓練が必要だと言っているのだ。お前は黙って相手役を務めておればよい。それとも、もう私の相手はごめんだというのか?」
「いっ、いえ! とんでもございません!」
仕方なく、ムルスは剣を構えなおした。
ぎこちない動きで同じように構えを取ろうとするファラを、痛ましい思いで見つめる。息を整えようと何度も空咳をし、流れ出る汗をぬぐおうともない、切羽詰まったその姿を。
普段ならこの程度の訓練で呼吸を乱したりする人ではなかった。それどころか、音を上げるムルスを叱責しつつ、まだまだだなと笑っていた。
見た目は小柄な少女であっても、強面の親衛隊の全員が心腹し、その指示に従うカリスマ。
電光石火の剣さばきと、徒手による格闘技の鋭さには定評があった。
そのファラが、今。
ぜいぜいと息をきらし、疲れ果てているのは他でもない。
乱れた前髪で隠されている、右目。
そこにはぽっかりと暗い空洞があるばかりである。
ファラは自らの片目をアイザス・ダナのために失ったのだ。
そのことはファラ自身は少しも後悔していない。
それがわかっていて、ムルスは臍を噛む。
どうしてあのとき、もっと頑強に反対しておかなかったのか。他にも方法はあってのではないか。
ファラがこうやって、失った目のハンデを取り戻そうと必死に訓練をする姿を見ては、くよくよと考えこむ。
「ためらうな、ムルス!」
叱られて、ムルスはびくっと跳びあがった。
「はっ、はい! なんでしょうファラさま」
「貴様は相変らず、私の目を惜しんでいると見える。だが、思い出せ。貴様とて、リューン・ノアに右腕を切り落とされたときには、左手で闘えるよう、死に物狂いで特訓を重ねていたではないか」
それを言われれば、そのとおりなのだが。
自分が苦労するのと、自分の敬愛する人が苦労するのでは、その心持ちが違うのは当然のこと。
自らはどれくらいやれば限界に至るのかわかるし、人にはどう見えたところで、無理はしなかったとムルスは思い返す。
そもそも、どちらの手でも剣を使えなければ剣士とはいえないのだ。
片手を失って日常世界に支障は出たが、闘いにはそれほど不自由しなかった、というのが正直なところだった。
だが、それが目となれば。
バランスも崩れよう。距離も読み違えるだろう。
何より、死角が増える。今までの闘い方をまったく新しいものに変えなければならない。
優れた剣士ほど、自分のスタイルを改めるのには手こずる。
そのためには激しい訓練が必要になる。
けれど。
と、ムルスは思う。
ファラは焦りすぎているのだ。
修羅場の中で身に付けたものは、理屈ではすぐ変更できない。
もっとゆっくり時間をかけて、じっくりとやり方を模索した方がいい。
などという忠告は、それこそ言っている自分が嫌になるほど口にした。聞き飽きたと怒鳴られてもあきらめなかった。
それでも、止めることができなかった。
アイザス様のお役に立てないのならば、私は、生きている意味はないのだ。
残った左目を危険にきらめかせて、ファラは言う。
呑気に寝たり食べたりしている暇はない。息をしている時間さえ惜しい。一刻も早く、元の腕前を取り戻さなければ。
ファラの体は傷だらけだ。手加減などしようものなら、怒鳴りつけられてしまうからだ。仕方なく、親衛隊員は彼女の鍛錬に付き合い、彼女を容赦なく打ち据えるしかない。
「お願いですからおやめください、ファラ様」
ムルスは必死で訴える。
「親衛隊の者どもも、毎回ファラ様を傷つけねばならぬ状況に疲弊しております。仮病を使って訓練を休もうとする者も出る始末です。ファラ様のお気持ちはよくわかりますが、あまりにも無茶をなさりすぎです」
「うるさいと言っているのだ、ムルス!」
もちろん、ムルスの思いはまったくファラには届かない。
「傷つくのは私の腕がつたないからである。私の腕前が上がれば、打ち据えられるのはお前たちのほうになる。闘いとはそういうものだ。遠慮はいらぬ、思いっきり来い!」
ああ、とムルスは頭を抱えた。
これほどまでの忠誠を捧げられたアイザス・ダナはといえば、ファラが片目を失ったことにさえ気付いているのかどうか。
相変らず、リューン・ノアにやられた己の傷が回復しないことに苛立ち、ジャメリンにからかわれては、周囲に当たり散らすばかりだ。
もっとも、へそ曲がりのあの主君のことだから、ファラの献身に対して素直に感謝できず、それでよけいに荒れてみせているのかもしれない。
要するに、どっちもどっちの主従なのだ。
だが、その主従の間に挟まれたムルスとしては、たまったものではない。
しかも正直なところをいうと、ムルスの忠誠はどちらかといえばアイザス・ダナよりも直接の上司であるファラの元にある。
もっとあからさまにいえば、アイザス様のためにファラ様がこんな苦労をするなんてクソくらえ、なのである。
「何をしているムルス! もう一本だ、始めるぞ!」
怒鳴られて、ムルスはようやく我に返った。
闘技場ではすでにファラが所定の位置に着き、ムルスとの手合わせを待っている。
今度は剣を左手に持ち換えて試してみるつもりのようだ。
右利きが右の視力を失うと、自分の手元があやふやになりがちだ。左手で剣を使ったほうが、視界は広く使える。
ということをムルスは、己の修行で実感している。
左手一本で以前と同じように闘えるよう、鍛錬も怠らなかった。
ひょんなことでシラドから金属義手を与えられた今でも、あの頃の訓練は無駄ではなかったと思う。
「待てよ」
ムルスは己の義手を持ちあげてみた。
普段は人工皮膚に覆われていて、それと知る者にしか気付かれないほど腕に馴染んでいる。関節の動きも滑らかで、指を細かく動かすこともできる。
原理はさっぱりわからないが、ロボット工学の天才シラドによる自信作だ。
剣を操るだけにとどまらず、火急の場合には肩から外して、こん棒のように武器として振り回すこともできる。
シラドに頼めば、ファラ様のためにこの腕に負けないほど優秀な義眼を作ってもらえるのではないか。
「いや」
ムルスは自分で自分に呟いた。
作ったところで、しょせんは義眼。
リューンの冬空を思わせる、薄い青色をたたえたファラ様のあの印象的な瞳を再現することなど、シラドにはできまい。
それならば、ミリシアに頼んでみるのはどうだ。
ファラの瞳を奪ったのは、そのミリシアだった。
精神世界からやってきた巫女。
己の世界に属していた地獄とやらいう場所から、魔物を呼びだすことができる。
そして、ファラの目玉を魔物の餌にするのだと言っていた。
あの女がそうする前に。俺の目玉と交換してくれと持ちかけるのだ。
一度は片腕で闘うことにも慣れたこの身だ。片目になっても、どうということはない。
「どうしたのだ、ムルス! おじけづいたか!」
「い、いえ、ファラ様」
慌ててムルスは首を振った。
「実は、義手の調子がどうも思わしくないので。ちょっとばかり、シラドのところへ行って、調節してもらってきてもよろしいでしょうか。ファラ様はどうかその間、休憩していただいて」
「……早くしろよ」
ファラは口をへの字にしながらも、ムルスを疑いはしなかった。
剣をさやに納め、地面にあぐらをかいて座り込む。
どうあっても、ムルスとのひと勝負はあきらめないという意思表示だ。
「頃を見計らって、な」
ムルスは手近の若い親衛隊員に囁いた。
「調整には思ったよりも時間がかかるようです、という伝言が届いたとファラ様に伝えろ。待っていただくのは申し訳ないので、お手合わせはまた明日にでも、とムルスが言っているとな」
承知しました、とその若者も囁きを返した。
親衛隊員は皆、隊長のファラに心酔している。同時に、ともすれば自分の身を削ってでも主君に仕えようとするファラの無茶な行為を案じてもいる。
「では、ファラ様。ムルス様を待つ間に、我々の手合わせをご覧になって、何かお言葉をくださいませ。若いの、行くぞ」
老練な一人がムルスの目くばせを受けて、時間稼ぎを始めてくれた。
ありがたい、と心の中で感謝しつつ、ムルスは一目散に控えの間に戻った。
指で空間に環を描く。
亜空間の移動は、かつて訪れたことのある場所にはつながりやすい。
空間には慣性があるからだ、とシラドが言っていた。
そして、精神世界から来た巫女のところへは、そのシラドに座標を教えられ、空間を歪めてたどり着いたことがある。
二度と訪問することばあるとは思わなかったが。
しかも今回は、自分一人で。
空間に穴を開け、跳びこんだ。




