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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

害悪

作者: 未環


 ふと、水底から浮き上がるように、ぼんやりと意識が覚醒していく。


 まず知覚したのは、完全なる白。


 他に何もない。


 ……これはアレだな。


 つい最近に読まされた詩の作品風にいうと


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 いちめんのしろ


 かすかなるおれ


 いちめんのしろ


 まさに、そんな状態。


 こんな所にいると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。


 体なくて意識だけだし。


 ……そもそも、俺は何故こんな所に?


 落ち着け、俺。


 こういう時は順を追って、思い出して行くのが良いだろう。


 まず、基本の情報から。


 俺の名前は鈴木務。


 真面目そうな名前だが、俺はスマホゲームにハマって受験を疎かにし、唯一なんとか受かった滑り止めの文系大学に通い、懲りずにスマホゲームで生活費を削って課金したりイベント周回のために3徹キメたりする毎日を送っていた。


 徐々に思い出してきた。


 そうか、俺、死んだのか。


 死因は事故によるものだ。


 テンプレなら、人や猫を庇ってトラックに轢かれて死ぬのだが……。


 俺は残念なことに歩きスマホ(当然、ゲームしてた)で、階段の最上階から転げ落ちて打ち所が悪く死んだのだ。


 楽しみにしていたモバイル版MMO RPGのリリースが明日だったりと、未練は沢山ある。


 けどまあ、俺らしい最期だったな。


 そんなことを考えてしみじみしていると、何もなかった空間に“Now Loading……”という文言が現れた。


 何? ここってローディング画面だったの?


 いやいや、そんなまさか。


 ゲームじゃないんだから。


 そこまで考えて、俺の意識は途切れた。


 



『ようこそ、剣と魔法の世界「アーリス」へ』


 う……。


『システム通知:「ヘルプ」と「図鑑」が解放されました』


 うるさい……。


 ゲームしていて寝落ちするのはよくあるけど、こんな頭に直接響くような大音量設定してたか……?


 まあいいや。


 なんか苦しいし、もう目が覚めてきた。起きよう。


 目を開いてみたけど……なんか、ぼんやりしていて周りがよく見えないな。


 これは、人の顔か?


 だとしたら、近すぎにもほどがあるんだが。


「■、■■■?(おや、この子は泣かないね?)」


「■、■、■■、■■?(私の、息子は、大丈夫、なのですか?)」


「■■。■■、■■、■■(うーん。鼻翼呼吸はしているけど、肺に水が溜まっているから、このままじゃ少しまずいね)」


 どうやら、俺の他に二人の女性がいるようだ。


 何か話しているけど、外国語なのか内容が全然わからない。


 わかるのは、片方の声の主はおばさんで、もう片方の声は息も絶え絶えといった感じの若い女の人だろう。


 何故苦しいのかも知りたいし、とにかく、状況を把握したいと強く思う。


 すると、”auto mode”という文言が見えたかと思うと、視点カメラが動くかのように視界が動いた。


 同時にいままでぼんやりとしか見えなかったものがはっきりと見えるようになった。


 見えてきたのは、お産の現場。


 産婆らしきおばさんが赤子を抱き上げている。


 その傍には、赤子の母親らしき金髪の若い女性。


 先ほど視界から見えたものの位置を考えると、俺は産婆が抱えている赤子と視界を共有していた……?


 どういうことだ、と考えていると赤子が盛大に泣き出す……産声だ。



 お産の現場で起きた、あの摩訶不思議な現象を、俺は「いわゆる転生ではないか」と推測した。


 うまく明文化できないが、本能らしきものが強く訴えてくる。


 あの赤子は俺である、と。


 しかし、現在の俺は幽体離脱したかのように、俺である赤子を俯瞰してみている。


 これにはおそらく、あの時に見えた”auto mode”という文言が示す通りのことが起きているのだろう。


 赤子は俺の意思に関係なく動いている。


 これで、俺は18にもなって赤子の真似事をする、なんていう惨いことを避けられた。


 ありがたい。


 たまに、赤子は思わず『何やってんだ!?』と言いたくなるような行動をするが、まあオートではよくあることだ。


 許容範囲、許容範囲。


 こうして俺は、無事に『幼児らしくない』と怪しまれることなく、10歳の誕生日を迎えた。


 ……うん。オートモード長すぎ。


 その間、俺はずっと赤子の様子を見るはめになった。


 視界は動かせるけど、赤子から離れられなかったし。


 退屈なので、ここの言葉を覚えることに専念した。


 俺は赤子ほど言語習得に向いた柔軟な頭をしていないからな。


 赤子はどんな環境にも対応できるように、まっさらなんだって教授が言ってた。


 耳が聞こえない両親のもとに生まれた子供が、言葉を覚えるかわりに手話を覚えるという事例があるとか。


 脳は赤子のものだが、思考は大学生のものなので、今からここの言語をネイティブ並みに習得できるか不安だった。


 しかし、その不安は杞憂だった。


 俺は比較的、早く言葉をマスターした。


 一番の理由は、ここの言語がギリシャ語に似ていたからだ。


 俺はギリシャ語が好きで独学で学んでいた。


 何故なら、かっこいいから!


 理由なんてこれで十分だろう。


 さて、言葉が解るようになったことで、さまざまな事を知れた。


 まず、ここはいわゆる異世界であること。


 部屋からして、中世ヨーロッパ風であったし、何より会話の中で当たり前のように魔法やら魔物やらが話題になっていた。


 俺は、自分がラノベ主人公のように異世界転生したと確信を得ても、ちっとも嬉しくなかった。


 ラノベは好きだが、それはあくまで自分が読者という立場だからだ。


 主人公のように強大なラスボスに立ち向かったり、面倒くさい人間関係など持ちたくない。


 なにより、異世界では当然スマホゲームができない。


 これは深刻な問題だ。


 かといって、この世界をゲームに見立てるなんて愚行をおかしたら、すぐ死ぬだろう。


 そして、おそらくこの世界にはゲームのように蘇生などはできない。


 金持ち貴族様である今世の実父が、前妻を蘇生できなかったことから、俺はそう推察した。


 そう、今世の実父は貴族だ。それも公爵。


 なんでも、素晴らしい伝説のある由緒正しき家柄なんだとか。現王とも親戚だし。


 それで、その父親は前妻を溺愛していたので、前妻が病死した後に立場上しかたなく後妻を娶ったものの、滅多に会いに来ないんだとか。


 その後妻が俺の母親。


 ……なんか、俺の第二の人生ハードモードな予感がしてきた。


 そんな訳で、俺のいる部屋には母親と、世話役でもあったあの産婆だけだ。


 そうして月日が経ち、赤子も成長して子供と呼ぶべきまでになった。


 その子供は相変わらず俺の意思を無視した言動をする。


 心配なのは、オートモードが終わった時だ。


 俺がその子供らしくない言動をして、訝しまれるのではないかと。


 そして、とうとうその時がやってきた。


『システム通知:auto modeを終了します』


 男とも女ともつかない機械的な音声がそう告げた。




 俺がこの世界について知っていることは少

ない。


 何故なら、日本で言う『七歳までは神のうち』のような考えで、『十歳までは神のうち』として十歳までは何もさせてもらえなかった。


 そう、何もだ。


 文字を勉強することはおろか、会話すら許されない。


 魔法や剣術なんてもってのほか。


 オートモードの時に、突飛な行動をしたのも、そうした環境に幼い心が耐えきれなかっ

たからなのか。


 いや、オートモードに心が在るかは知らんけども。


 それも今日で終わりだ。


 今日、神殿で神の祝福を受ければこの苦行から解放される。


 世話役のおばさんが大きな独りごとで言っていた。


 この独りごとのおかげでいくらか助けられた。


 俺の今世での名前はフォスだということを知れたし、容姿が金髪に赤っぽい目だとかも知れた。


 しかし、肝心なことは『世俗的になってはいけないから』と、全く口にしない。


 そこは不満ではあるけど。


 とにかく、今日が大事な日であることは分かった。


 なにせ、神の祝福を受ける祝福の儀は家族総出で見守るもの。


 つまり、あの父親と、居ればの話だが、姉や兄とも対面するわけだ。


 しかし、新しい家族が生まれたっていうのに、十歳になるまで一度も会いに来ないことから、あまり家族には期待しないでおこう。


 虐待はないと思いたいが……。


 『システム通知:チュートリアルを開始します』


 え?


 オートモードの後にチュートリアル?


 まあ、正直、助かるから良いけど。





 チュートリアルの間は、脳内で響く声に言われたことしかできなくなった。


 あ~、チュートリアルでよくあるやつだ、コレは。行動制限ってヤツ。


 あと、チュートリアルの時は声のテンションがおかしい。


『ステップ1:まずは、神殿で神の祝福を受けよう!』


 こんな具合に。


 とりあえず、神殿へ向かう前にする家族の顔合わせのために廊下を進む。


 さすが貴族の家、廊下も豪華絢爛だ。


 そんな小学生並みの感想を心の中で呟いていると、廊下に飾られた鏡が目についた。


 そうだ、今までいた部屋には鏡がなかったから、少し自分の容姿を確認してみよう。


 鏡に映ったのは、金髪に赤みがかかった瞳の少年。


 ここまでは、事前に聞いていた通りなので問題ない。


 ただ……表情が死んでいる。


 その瞳はあまりにも無機質。


 一瞬だけ驚いたけど、すぐに納得できた。


 なるほどチュートリアルで言動が制限されるとこうなるのか。


 大きな暖炉のある広い部屋で、母とともに他の家族を待つ。


 しばらくすると、神経質そうな一人の若い男性が現れた。


 年齢は、二十代前半に見える。


 鈍い金髪をオールバックにしたその男性は、その細い目でじろじろと、しばらく俺を睥睨した。


 彼の緑眼が俺を品定めしているのだと思い、緊張する。


 この人の前では背筋を正さなければという気持ちになるのだ。


 これが、貴族のカリスマなのか……。


 おそらく、俺の兄だろうその人は、おもむろに口を開く。


「私は、プロイ・アナトリー。長男であり、不本意ながらお前の兄だ」


 本来なら弟の俺の方が先に、自己紹介なりなにか挨拶しなければならないが、まだ祝福を受けてないから、会話を禁じられている。


 なによりチュートリアル中の制限で声が出せない。


 焦りが募る。


「…………」


「……やはり、お前は断俗を行っているのか。なら、挨拶は祝福の儀が終わってからで良い」


 断俗?


 祝福の儀までは何もしちゃいけないアレの

ことか。


 次に、プロイは俺の母に目をやると、責め

るように言った。


「何故、報告しなかった」


「……イリオファーニア様には伝えました。しかし、実物をみないことには信じられないとおっしゃったので」


「それで、断俗にこだわるあまり、父上にお見せしなかったのか」


 兄と母の問答をすぐそばで聞いていたが、俺にはさっぱり内容の意味がわからなかった。


 断俗っていうからには、俺と関係ある話題だとは思うけど……。


 とりあえず、父親の名前がイリオファーニアであるということはわかった。


 ちなみに、母の名前はリアカーダだ。


 世話役のおばさんが、そう呼んでいた。




「まぁ、いい」


 プロイがため息をつきながら、そう言って母と彼の問答が終わった。


 それにしても、父親はまだ来ないのか。


「父上は、ご多忙により祝福の儀にはご出席なさらない」


 俺の思考を詠んだかのようなタイミングに発せられた、プロイの言葉に母は顔を青くする。


「そんな……! 祝福の儀には家族は皆、出席するのが習わしなのに」


「しかたがないだろう。数年まえからの魔物活発化により、深刻な被害があちこちにでている。父上も公爵としての責務を果たすために尽力しておられるのだ」


 悲し気にうつむく母へ、プロイは無慈悲にも更なる追い打ちをかける。


「それから、ランビリーゾは宮廷魔導師として、アクティノヴォローは騎士として狂暴化した魔物に対処している。よって、二人も欠席だ」


 うーん。


 やっぱり、俺って嫌われてる?




 家族総出となるはずが、三人も欠席者が出てしまい、落ち込む母。


 この人は、俺が神の祝福を受けられるかを案じてくれているのだ。


 きっと、断俗を強要したのも俺を思っての事だろう。


 慰めの言葉をかけたいところだが、チュートリアル中だからなあ。


 結局、俺は慰めるどころか一言も発することができないまま、馬車に揺られて神殿まで来てしまった。


 神殿は一言でいうと真っ白だった。


 石材で建てられているようだが、大理石よりも白い、どこか神聖さを感じさせるまでに漂白されたような色だった。


 ある意味特徴的な色にばかり気を取られていたが、神殿は家と比べて質素な作りだった。


 しかし、太陽を崇める構図の彫刻は華美でこそないが、素人にもわかるほど丁寧に作りこまれていると感じられる。


 神殿の外観に目を奪われていた俺は、母に促されその中へ入っていった。


 まず、目に飛び込んできたのは、正面の奥にある、巨大なステンドグラス。


 そこに太陽の光が差し込んで、鮮やかな影を神殿内に落とす。


 そして、そのステンドグラスに描かれているのは、太陽の光を受けて力を得たような風体の勇者だかなんだかが、黒っぽい靄に立ち向かっている様子だ。


 なるほど。


 この神殿が信仰する神はズバリ、太陽神だな!


 俺が一人で名推理を展開させている最中にも、祝福の儀の準備は着々と進んでいく。


 やがて、その準備も終わり、俺は中央に鎮座する円形の台に立たされた。


 プロイは壁にもたれかかり、腕を組んで興味なさげな態度をとっている。


 母は祈るように手を組んで、食い入るようにこちらを注視している。


 対照的な二人だ。


 神官の指示に従い、俺は目を閉じる。


 すると、スーッと人の気配が遠くなる。


『ステップ2:「ガチャ」で「加護」や「異能」を入手しよう!』


 ガチャ、だって?


 目を開く。


 すると、またあの何もない空間だった。


 ただ前回と違うのは、俺に体があること。


 それから、スマートフォンらしきものが浮かんでいることだ。


 とりあえず、スマートフォンを見ると、その画面には何かのゲームのガチャ画面らしきものが映っていた。


 ガチャで「加護」や「異能」を入手……つまりチートを手に入れられる、と。


 見たところ何もせずに終えることができるようだが、せっかくだしチートは欲しい。ガチャ引きたい。


 しかし、ガチャを回すための『ハート』が1つもない。


 課金するしかないか。


 『所持ハート:0』、と書かれている横にある、プラスが描かれたボタンをタップする。


 すると、新たな文言が現れる。


『■■■■ を消費して課金しますか?』


『所持ハート:0→1』


 なにを消費するのかわからないが、課金というからには金銭だろう。


 しかし、俺は金などは持たせてもらってないから、金目の物かもしれない。


 俺は画面に映しだされた『はい』の文字をタップした。


 そして、そのハートを使ってガチャを引き、あるチートを入手。


 俺は再び目を閉じる。


 人々の喧騒が聞こえてきたので、目を開く。


 そこには、心臓をえぐりとられ、仰向けに倒れる母の姿があった。


 予想もし得なかった惨劇に、思考が止まる。


 


 嘘だ。


 嘘だ、嘘だ、そんな、そんなこと――。


 ただの演出? 儀式の一部?


 それなら、なんで血が、こんなに。


 動けない。言葉が出ない。


 だが、やがて、脳裏に浮かぶひとつの最悪の可能性。


 ……ガチャの代償。


 ハートを増やすために消費された■■■■。


 それは――リアカーダ。母の名前だ。


 日本語表記だった。文字数も合う。


 ……俺が。


 俺が、母を……?


 このガチャ仕様……害悪すぎるだろ!




 喉の奥から、ドロリとした激情がせり上がってきた。


 「うっ……あ……あああああッ!!」


 絶叫にも叫びにもなりきらない、濁った空気の塊。俺の内側を焼き尽くすような熱と、それに反して指一本動かせない冷たさ。


 血の気が引いていくのが、自分でもわかる。


 ――なんでだよ。


 声にならない問いが、脳内を何度も反響した。


 あのとき、スマホに映っていたのは、ただの「ガチャ」画面だった。


 そこに「母の命を消費します」とは、どこにも書いてなかった。


 それどころか、見えていた文字は全部――ノイズのような「■■■■」。


 思い返せば、課金に必要な『何か』が見えなかった時点で嫌な予感はしていた。でも、それを無視した。


 欲に目がくらんだ――ガチャを回せるという誘惑に。


 「なにが……転生特典だよ……」


 震える膝をついたまま、俺は母の元へ這うように歩いた。


 その顔は、安らかだった。笑ってすらいるような――それが、余計に辛かった。


 プロイの怒号が背後で響いた。


 「何をした!? お前……何をしたんだッ!」


 足音が駆け寄る気配。でも俺は振り向けない。振り向く資格なんて、ない。


 ――これが俺のチュートリアル?


 震える手で母に触れると、ぬくもりがどんどん失われていくのがわかる。


 皮膚から伝わる冷たさが、俺の心の芯にまで染み渡る。


 なぜ、あのとき「やめる」を選ばなかった?


 なぜ、「ハートを増やす」なんて欲を出した?


 ……わかってるよ。


 俺は、ゲームと現実の区別をつけ損ねた。


 「……戻せないのかよ、これ」


 空虚な問いに、誰も答えてくれなかった。


 「……母さん」


 この世界で唯一、俺のことを大切に思ってくれた人。


 その人が、俺の身勝手のせいで死んだ。


 ――いや、俺が殺したんだ。





 そこから後のことは、あまり覚えていない。


 茫然自失としていた俺は、気づけば自室に閉じ込められていた。

 事実上の監禁だ。


 扉には結界が張られ、窓は開かず、外の音も遮断されていた。けれど、不満はなかった。


 わざとじゃなかったとしても、俺は母を殺したんだ。


 ならば、この対応のも当然だろう。


 飯は出された。最低限の着替えもある。けれど味はしないし、時間の感覚もあいまいで、何日経ったのかも曖昧だった。


 ただ、ぼんやりと天井を見つめながら、頭の中を同じ思考がぐるぐると巡っていた。


 ――戻せないのかよ、これ。


 異世界だろうが転生だろうが、そんなことはどうでもよかった。


 母さんが死んだ。俺のせいで。


 それだけが、現実だった。


 唯一の変化は、頭の奥に響く、システムの通知音だった。


 『ガチャ結果:虚数空間の異能』


 『任意のタイミングで、収納/取り出しが可能です』


 『現在の収納物:なし』


 ……便利なアイテムボックス、か。


 俺は試しに、机の上の果実を握って「しまう」と心の中で念じた。


 果実はふっと消えた。すぐに「取り出す」と思うと、手の中にまた現れた。


 これが、母の命と引き換えに手に入れた力。


 ふざけるな。


 果実を床に叩きつけると、ぐしゃりと潰れて、皮と果汁が散った。まるで、赤黒い血のようだった。


 ドアが開いたのは、その日のことだった。


 外から、足音。そして、重々しい声。その声の主は、俺の父だという。


 「お前への沙汰が決まった。勘当したうえで追放する。当然、貴族の身分は剥奪だ」


 その言葉を聞いたとき、怒りや悔しさはなかった。ああ、やっぱりな、と受け入れていた。


 「……わかりました」


 俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


 父は少し目を細めたが、何も言わず、荷物を差し出してきた。


 剣、旅装、少しの金貨と水、保存食。そして……母の形見の髪飾り。


 「母親の遺品だ。これだけは持っていけ」


 それを受け取るとき、指が小刻みに震えた。


 もう一度、泣けたら楽だったかもしれない。でも、涙は出なかった。


 父が去るのを見送って、俺はそれらをすべて虚数空間に収めた。


 見えないポケットに、大切なものを押し込んで、閉じた。


 門を出るとき、誰も見送りに来なかった。ただ、門番が淡々と見送っただけ。


 それで、この世界には俺の味方はいないのだと実感した。


 


 こうして、俺の旅が始まった。


 華々しい冒険でも、英雄譚でもない。


 罪を背負って放り出された、俺ひとりの、

贖いの旅路だ。




 追放された俺は、国境を越えて、隣の領で傭兵稼業に勤しんでいた。


 戦争も、大規模な紛争もないこの国だが、巷で終末論が囁かれる程度には、魔物の数は際限なかった。


 だから、魔物の討伐、盗賊の排除、辺境の巡回といった、誰かがやらなければならない仕事は常にあり、俺はそこに身を投じていた。


 通常、傭兵は仲間と組んで仕事を請ける。背中を預け合い、死地を乗り越えるには連携と信頼が不可欠だ。


 だが、俺は、敢えて独りでいることを選んだ。


 ……誰かと組むのが怖かった。


 共に笑い、苦労を分かち合い、命を預け合うような関係を築くほどに、また失う日が来るかもしれない。


 そう考えただけで、胃の奥がきしむように痛んだ。


 もう、大切な人はいらない。いない方がいい。


 でなければ、またあのときのように、手の中から零れ落ちる。


 それが、母の死を経た俺の答えだった。


 


 


 


 「また一人かよ、あの坊主」


 「強いけど、なんか目が死んでるんだよな。若いのに」


 傭兵宿では、時折そんな声が聞こえてきた。


 俺の耳にも届いているが、気にはしなかった。


 彼らにどう思われようと、関係ない。俺の戦いは、俺だけのものだ。


 剣は身につけていたが、魔法も使うし、回復の祈祷もできる。


 基本的に俺の戦い方は一人で完結していた、と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば器用貧乏だ。


 誰でも努力すれば手に入れられる程度の能力しか持たない。


 その戦闘技能の中で、ひときわ異質なのは、虚数空間の異能だった。


 今はただの便利なアイテムボックスとして使っているが、時折、妙な揺らぎを感じることがある。


 まるでそこには、もうひとつの世界が広がっているかのような感覚。


 この異能には伸びしろがある。俺が使いこなせていないだけだ。そう確信している。


 だが、深入りはしなかった。


 今はまだ、異能にすら背を向けている。母を犠牲に手に入れた力に抵抗があったから。


 だからこそ、俺は地道に、目立たぬように任務をこなすだけだった。


 泥をかぶり、血を流し、報酬をもらい、また次の依頼へ向かう。


 誰とも深く関わらず、淡々と。


 まるで、生きているのではなく、生きる義

務を淡々とこなすように。




 そんな生活を、俺は惰性で続けていた。


 生きる意味なんてとっくに見失っていたが、それでも人は、意外と死なない。


 無気力でも、心が壊れていても、呼吸は勝手に続くし、飯を食えば体は動く。


 目の前の依頼をこなしていれば、最低限の金は入り、宿にも寝床がある。


 そうして俺は、生きているというより、ただ動いていた。


 だが、ある日、そんな停滞した日々に、唐突に転機が訪れた。


 「……父が死んだ?」


 訃報を伝えにきた使者の言葉に、俺はしばらく反応できなかった。


 感情が動かなかったわけじゃない。ただ、それ以上に「なぜ今さら」という疑問が心に渦巻いた。


 母を失ったあの日、父は何もしてくれなかった。


 いや、それどころか、俺に対する処罰を容認し、貴族としての名を剥奪した。そして、家から追い出したのだ。


 その父が――死の間際になって、俺を呼んだ?


 「……何のつもりだよ」


 苛立ちとも戸惑いともつかぬ感情を抱えながらも、俺は結局、呼び出しに応じることにした。


 病で衰えた父が最期に口にしたのは、「あいつも、フォスも読んでくれ」という言葉だったらしい。


 家から捨てられたはずの俺が、死の床に呼ばれる理由がわからなかった。


 気は進まなかったが、断れば後味が悪すぎる。


 それに……ほんのわずかでも、未練のようなものが、俺の中に残っていたのかもしれない。


 そうして、俺は数年ぶりに、かつて家と呼んでいた場所へと足を運んだ。


 門の前に立ったとき、ひどく胸がざわついた。


 石畳の音、見慣れた庭木の剪定、冷たい建物の影。


 全てが記憶の中の風景と少しずつ違っていた。


 俺のいない間にも、時は進んでいたのだと痛感させられる。


 応接間に通された俺を待っていたのは、父の執事だった老齢の男と、堅苦しい顔の親族数人。プロイ――あの兄もいた。


 彼らの目は、まるで異物を見るように冷たかった。


 だが、俺はもう動じなかった。


 慣れている。


 傭兵として生きる中で、もっと露骨な嫌悪も見てきた。


 そう自分に言い聞かせながら、静かに席に着く。


 そして、重々しい沈黙の後、執事の口から「遺言」が読み上げられた。


 「……先代は、次期当主として、フォス・アナトリーさまを指名なさいました」


 最初、その言葉の意味がわからなかった。


 空気が一瞬、固まった。


 誰もが、言葉を失っていた。


 それは、俺自身も含めて。


 「……は?」


 ようやく絞り出した声は、あまりにも間抜けだった。


 だが、冗談ではないらしい。


 紙に刻まれた父の筆跡と印、立会人の証言、それらすべてが、この決定を裏付けていた。


 かつて俺を追い出し、存在ごと切り捨てた父が。


 俺を、この家の当主に?


 思考が追いつかず、世界がぐらりと揺れる錯覚に襲われた。


 ――何を考えていたんだ、あの人は。


 答えはもう、父の口からは聞けない。


 だが、それでもこの遺言は確かに遺され、今ここにいる俺の前に突きつけられている。


 まるで、生きていたことをやり直せ、とでも言われているかのように。




 突然、当主に指名され、驚愕した。


 しかし、それは長続きしない。俺はすぐに冷静さを取り戻した。


 いや、むしろ心のどこかでは、初めからこの状況を疑っていたのかもしれない。


 この俺が、当主に? 父の死の直後に?


 そんな出来すぎた話があるはずない。


 そして俺には、ソレを見抜く目があった。


 虚数空間の異能。


 最初は単なる便利な物入れ程度にしか使えなかったが、慣れていくうちに俺はこの異能が「物の出し入れをする」だけのものではないと気づいた。


 虚数空間の異能で見える、この世界の目に見えぬ因果の流れに触れる領域。


 それに干渉することで、俺は通常の五感では知覚できない「魔法の痕跡」――それも、とりわけ性質の悪い闇属性魔法の残滓を、感じ取れるようになっていた。


 だからわかった。


 あの遺言書には、不自然な魔力の波が染みついていた。


 表面をなぞるだけでは気づかぬほど精緻で巧妙な魔法。


 けれど、虚数の視座で覗けば、その歪みは露骨なほどに見えた。


 あれは、父が自らの意志で記したものではない。


 病床にあった父の心を、意図的に、ゆっくりと、慎重に捻じ曲げ、外部からの指示通りに無理やり書かせたものだ。


 闇属性の精神支配魔法――呪詛にも似たその細工に、父は抵抗しきれなかったのだろう。


 おそらく、長い時間をかけて、じわじわと精神を侵蝕されていた。


 だが、俺にそれがわかるということは――遅かれ早かれ、他の誰かにも露見する。


 魔法の痕跡を完全に消すには、それ相応の対価と技量がいる。


 俺ですら違和感を覚えるような細工が、専門の魔法監査官の目を誤魔化せるはずもない。


 ――では、なぜそんな拙い細工を?


 疑問はすぐに氷解した。


 そう、目的は「俺を当主にすること」ではなかった。


 そう見せかけること。


 ――そう見せて、誰かを引きずり出すためだった。


 「そんなこと……そんなもの、認めるわけがないッ!」


 プロイの声が、響いた。


 叫びというより、悲鳴に近かった。


 彼の顔は紅潮し、歯を食いしばり、拳は震えていた。


 それは怒りでも、悔しさでもなく……恐怖に染まっていた。


 「お前が……っ、なぜ……っ!」


 目の前で起きていることが、彼には到底受け入れられなかったのだろう。


 嫡子として育てられ、次期当主は自分だと信じて疑わなかったプロイ。


 その彼が、父の遺言によって――突如、追い出された俺にその座を奪われたのだ。


 その衝撃は、彼の中に長年眠っていた呪いを目覚めさせた。


 「が……ああ、あ……ッ」


 彼の身体から、黒い靄が噴き出した。


 魔力ではない。悪意そのものが、実体を持って溢れ出してくるようだった。


 まるで生き物のように蠢く闇。


 それは、呪い。


 長年、プロイの内側に潜み続けていたもの。


 俺の虚数視座が告げている。これは突発的なものではない。


 かなり前から、彼の中にソレはあったのだ。


 おそらく、俺が追放されたあの日よりも、もっと前から。


 自覚もないまま、彼は闇魔法に侵されていた。


 だが、それでも彼の強靭な精神が、必死にそれを押しとどめていた。


 ――だが。


 父の死、遺言の衝撃、俺への嫉妬、屈辱、そして裏切られたという絶望。


 それら全てが積み重なり、ついに彼の理性は呪いに負けたのだ。


 「プロイ……っ」


 俺が名を呼ぶより早く、黒い靄がその身体を包み込んだ。


 次の瞬間、そこにいたのは人の姿ではなかった。


 四肢が異常に膨張し、角のようなものが額から突き出す。


 背筋を貫く棘と、裂けた顎からは、獣の咆哮が響いた。


 ――魔物。それ以外の何物でもなかった。


 俺に向けて、吠える。


 視線が合う。


 獣の目に、もう「人間の理性」は残っていない。


 その巨躯が、突進してくる。


 速い。重い。殺意に満ちた魔力の奔流。


 迷っている暇などなかった。


 「くそっ……!」


 俺は懐から一枚の札を抜き、虚数空間を展開する。


 空間を裂いて飛び出したのは、収めていた魔術具――禍々しい短剣と、閃光を帯びた宝珠。


 どちらも、もしもの時のために手に入れておいた対魔用の装備だ。


 ――戦うしかないのか。


 相手は、かつての兄だというのに。




 魔物と化したプロイが、咆哮とともに床を砕いて跳んできた。


 その突進は、雷のような速さだった。


 足場を砕き、柱を割り、俺の目の前に迫る赤黒い巨影。


 思考よりも早く、身体が動いていた。


 「ッ――はっ!」


 虚数空間に手を差し入れ、込めていた魔術具を呼び出す。


 放たれた閃光魔石が、魔物の目を眩ませる。その隙に横へ跳び、すれ違いざまに短剣を振るった。


 だが。


 刃は、触れた瞬間、黒い瘴気に呑まれ、音もなく崩れた。


 肉を裂くどころか、皮膚に触れることすらできなかった。


 嘘だろ、かなり値の張る呪具だぞ、この短剣。


 「強すぎる、だろ……兄さん」


 口の端が引きつった。


 恐怖か。絶望か。いや、もっと複雑な――情けなさだ。


 兄さん、と自然に呼んでしまった。今まで一度も兄だと口にしたこともないのに。


 もう、そこにいるのは兄ではないというのに。


 


 「本当に、あんたが……」


 プロイとの関係性は薄い。会話らしい会話もしていない。それでも――俺は憐れみを抱いていた。


 プロイの、その手が、牙が、今――俺の命を奪おうとしている。


 魔物が吠えた。


 それは、もはや人の言葉ではなかった。


 けれど、ほんの一瞬、俺には聞こえた気がした。


 ――「なぜだ」


 ――「どうしてお前が」


 ――「俺より……先に……!」


 嫉妬だったのか。


 絶望だったのか。


 それとも、もっと複雑な、名付けようのない感情だったのか。


 呪いに蝕まれ、心を喰い尽くされた彼の内側に、まだ人としての一部が残っているのだとしたら。


 「なら……なおさら、止めなきゃいけねぇよな」


 もう、迷わない。


 剣が通じないのなら、虚数空間に干渉する。


 俺は、再び指を虚空に滑り込ませる。


 空間がゆがみ、異なる法則が渦を巻く。


 見えない網目が、魔物の動きに重なる。


 「見える……あんたを縛る、呪いの核が」


 虚数の視座――この異能の、本質。


 俺にしかできない戦い方がある。


 魔物が、突進する。


 俺は、魔力の指先でその核に触れる。


 黒い糸が瞬時に絡みつき、俺の精神を引きずり込もうとする。


 視界が歪み、地の底のような悪意が、脳を焼く。


 でも――俺は、目をそらさない。


 「……今、楽にしてやるよ。呪いの苦しみから解放する」


 その声が、聞こえていたかどうかはわからない。


 だが、魔物の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


 その刹那、俺は核を掴み、虚数空間へと引きずり込んだ。


 深く、暗く、あらゆる概念が飲み込まれる場所へ。


 世界が、静かになった。


 それは、戦いの終わりの合図だった。


 気づけば、倒れ伏した魔物の姿があった。


 いや……。


 「プロイ兄さん……」


 その顔は、確かにプロイのものだった。


 痩せ、苦悶の痕跡を刻んだその横顔は、呪いに苦しんだ証だった。


 俺は、そっと彼の傍に膝をついた。


 兄弟として最期に交わせるものが、まだある気がして。


 「俺、あんたのこと、苦手だったよ。……でも、嫌いじゃなかった。こんな目に合わなければならないほど、悪人でもないだろ」


 声が震えた。


 冷たい風が、砕けた窓から吹き込んだ。


 「本当は、ずっと……もっと話してみたいと思ってたのに」


 けれどもう、その思いを伝えることは叶わない。


 プロイの目は、閉じられたまま、二度と開くことはなかった。




 俺が、プロイの見開かれた目をそっと閉じようとしていたとき、部屋の扉が軋む音を立てて開いた。


 入ってきたのは、避難の指揮を執っていた姉――いや、姉と呼んでよいのかもわからない女性だった。名前も知らないし。


 彼女は魔力のこもった外套を羽織り、こちらに向かって無言のまま近づいてきた。足取りは軽くも重くもない。ただ冷え切っていた。


 俺の隣で倒れた兄、プロイを一瞥し、血の跡を避けるように立ち止まる。


 「……終わったのね」


 呟くように言ってから、俺に視線を向けた


 「何があったのか、聞かせて」


 促されるまま、俺は事の顛末を手短に話した。


 魔法で捏造された遺言状、それに込められた呪い、そしてプロイの精神が壊れた瞬間におきたこと。


 俺の説明が終わる頃には、姉の目は伏せられていた。


 そして深いため息と共に、感情のこもらない声が落とされる。


 「なるほどね。遺書の捏造に、プロ兄を魔物にした第三者がいる、と」


 頷くことで、俺はそれを肯定した。


 けれど、それを聞いた彼女の次の言葉は、まるで氷の刃のようだった。


 「それにしても、アンタ。まるで疫病神ね」


 発言の意図がわからなかった。今ここで俺を罵倒する理由が。たしかに、兄の死因は俺だ。でも、貴族である姉が他の親族がいるなか、感情のままに発言するとは思えなかった。


 だから、俺は顔を上げたまま、しばし彼女の瞳を見つめてしまう。


 その冷ややかで、決して揺らがない色を。


 「実母だけでなく、プロ兄まで死に追いやるなんてさ。運が悪いとか、不幸体質とか、そんな生易しい言葉じゃ済まされないよ」


 俺は、反論できなかった。


 その通りだったからだ。俺が関わると、人が死ぬ。


 「故意じゃないってのが、余計に質悪いよ、アンタ。もう存在自体が悪って言えるんじゃない?」


 場にいた誰もが、沈黙したままだった。


 誰も、彼女を咎めなかった。


 誰も、俺を庇わなかった。


 ――ああ、そうか。これが、この家の総意なんだ。


 俺はようやく、心の奥底で気づいた。


 俺はずっと、異物だったのだ。


 この世界に居場所なんて、最初からなかった。


 「それで? これからどうする気?」


 


 姉の問いは、吐き捨てるような声音だった。

 


 「また、薄汚い傭兵でもするつもりなの?」


 俺は小さく、首を横に振った。


 「違う。俺には、しなくちゃならないことがある」


 「……は?」


 「黒幕を探す」


 


 自分でも驚くほど、静かな声だった。けれど、濁りはなかった。


 


 「あの遺言を捏造し、プロイを魔物に変えたヤツ。そいつを――必ず、見つける」


 姉は眉ひとつ動かさなかった。まるで、俺の言葉になど何の価値もないと言わんばかりに。


 そして、そういう反応こそが、俺にとってはもう予想通りだった。


 「勝手にすれば」


 


 それだけを残し、姉は踵を返した。


 まるで、もう俺に用はないとばかりに。まるで、弟なんて最初からいなかったとでも言うように。


 立ち尽くす俺の中に、冷たい風が吹いた。


 ふと視線を落とすと、そこには、眠るように横たわるプロイの姿。


 ――不本意だと言いながらも、あんたは「弟」と呼んでくれた。きっと、あれが最初で最後だったな。


 「……ありがとう、兄さん」


 つぶやいたその言葉は、誰にも届かない。


 だけどそれでいい。もう、届かなくていい。


 俺は立ち上がった。


 今もどこかで暗躍する黒幕を、見つけ出すために。


 異物である俺にしか見えないものが、きっとあるはずだから。





 黒幕は、案外あっけなく見つかった。


 母の兄。


 俺の伯父にあたる男――名を、ヴァイン。


 静かに暮らしていたはずの隠れ屋敷には、虚数空間の歪みがはっきりと残っていた。


 俺の能力がなければ見落としていたかもしれないが、奴は俺を狙っていたのだ。当然、俺にだけ届くような痕跡を残していた。


 対面したヴァインは、やけに楽しそうに笑っていた。


 「お前が来ると思っていたよ。ようこそ、呪いの子」


 動機は、俺への復讐。


 恩讐に焦がれた心が、時間と共に形を変え

、怨嗟の獣と化した。


 彼は、俺の異質さに、そのすべての原因を見出した。


 


 「お前さえいなければ、俺の妹は――お前の母は、死ななかったんだ!」


 だから奪った。俺の兄を、家を。


 すべては「俺の存在を否定する」ための筋書きだった。


 けれど、あまりにも手遅れな対話だった。


 俺は剣を構えた。


 だが、相手は強すぎた。幾重にも積み重ねられた呪術と禁術、闇属性の異能――すべてが俺を圧倒した。


 限界だった。


 血を吐き、膝をつく。呼吸さえ、喉を焼くようだった。


 そのとき、俺は決めた。


 ――解禁するしか、ない。



 俺が母の命を代償に得た異能――虚数空間の異能、その本質。


 


 それを、今ここで解き放つ。


 指先に集めた虚無が、世界を歪めていく。


 因果律すら巻き込む異常空間が、俺の肉体と精神を引き裂きながら暴走する。


 ヴァインが叫ぶ。「やめろ、お前まで消える気か!」


 ……そんなこと、最初からわかってる。


 この力は、等価交換だ。


 存在を超える力を行使する代償に、己という存在そのものを差し出す契約。


 俺はその代償を、とうに支払う覚悟をしていた。


 白い光が爆ぜ、世界が音をなくす。


 そして次の瞬間――意識が、どこか遠くへ、流れていった。


 


 


 ――気づけば、俺は立っていた。どこか知らない、穏やかな村に。


 季節は春。どこまでも続く菜の花畑。どこまでも澄んだ空。


 そこに、見覚えのある背中が見えた。


 母だった。


 隣には、プロイ。笑っている。そんな表情は見たことがない。


 母も笑っている。父もいた。姉もいた。


 誰も欠けることなく、平和に暮らしている。


 俺はいなかった。


 そうだ、ここは、俺が転生しなかった世界なのだ。


 俺という異物がいなければ、すべてがこんなにも平和で、綺麗だった――。


 「……ああ、なんだ、やっぱり俺なんだな。全部」


 そのとき、ようやく理解した。


 災厄の連鎖は、黒幕でも運命でもない。俺という存在が、その根源だったのだと。


 母を殺し、兄を狂わせ、家を壊した。


 転生なんてしなければ、誰も死ななかった。


 ……なのに、俺は「物語の主人公」気取りで、存在してしまった。


 俺こそが、「この世界にとっての害悪」だったのだ。


 心が、静かに崩れていく。


 それは涙でも悲鳴でもなく、ただ、ひとつの納得だった。


 俺は、生まれてはいけなかった。本当の害悪は俺だった。


 そう、深く、深く思った――。

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