第8章 クラリス・アウアー
"笑うのは簡単だった。苦しかったのは、そのあと"
朝、ヴァイスはすでに地下室にこもっていた。
クラリスは一人、キッチンで紅茶を淹れていた。
細く切り揃えられたレモンを浮かべ、ベルガモットの香りが静かな部屋に広がる。
カップを手に、クラリスはリビングの窓辺に腰を下ろした。
曇り空。どこまでも灰色の雲。植木鉢の白い花だけが、外の世界に少しだけ色を加えていた。
ヴァイスがこの家に惚れ込んだのは、地下室だった。
湿度と温度、そして音のない空間。
彼にとっては理想のアトリエだったが、クラリスにとってはどこか“距離”を感じさせる場所だった。
彼女はふと、壁にかけられた一枚の書簡のコピーを見た。
カンペンドンクが誰かに宛てた葉書。
それは、彼女自身が古紙市場で見つけ、加工して仕上げたものだった。
「これが “証拠” になるなんてね……」
誰に言うでもなく、呟く。
まるで、人生のどこかで繰り返してきた “演技” のように。
クラリスは目を伏せ、記憶の奥へと沈んでいった。
「あの頃も、こうして紅茶を飲みながら、何かを誤魔化していたような気がする……。」
──その昔、スイスのルツェルンで暮らしていた頃。
父はいなかった。クラリスがまだ幼い頃に病で亡くなったのだと、母から聞かされた。 そのせいか、母はことさら家庭の体裁に敏感だった。 「未亡人の娘」として見られることを極端に嫌い、品位と完璧さだけを盾に家族を守ろうとした。 クラリスはそんな母の期待に応えるように、ひたすら “正しい娘” を演じ続けた。
クラリスの家は、石造りの古いアパートの一室だった。外観は立派だったが、中身は質素で、母親の見栄だけがやたらと目立っていた。
母はよく言った。「姿勢は品格。食器は言葉。服装は家族の証明よ」
「はい、お母様」とクラリスは毎回、決まったように返していた。
ピアノ、フランス語、社交のマナー。厳しく叩き込まれ、間違えるたびに「もう一度」と冷たい声が飛んだ。
姿勢が崩れれば背中を軽く叩かれ、ナイフの使い方を誤ればその手を取られてやり直させられた。
「姿勢がすべてなのよ。心の弱さは、背中に出るの」
「はい……お母様」
クラリスは微笑むことを “求められた”。そうすることで、場が保たれると教えられてきた。
泣くこと、怒ること、黙ることすら許されなかった。それでは “家庭教師の子” に見えると。
だからクラリスは、微笑みを “覚えた”。息が詰まっても、紅茶の香りで誤魔化した。
学校でも、友人の前でも、クラリスは常に演じていた。優等生、知的な令嬢、話を合わせるのが上手な子。全ては “自分を守るため” だった。
だがある日、帰宅途中の雨の中でびしょ濡れになったクラリスが家に戻ると、玄関の扉を開けた瞬間、母の怒声が響いた。
「ちょっと、何その格好!服が台無しじゃない!髪もグシャグシャで、まるで浮浪者みたいよ!」
クラリスが何か言いかける前に、さらに言葉が飛ぶ。
「傘は?持ってたでしょ?なぜ差さなかったの?下品に見えるわよ、みっともない!」
クラリスは小さな声で、「風が強くて……壊れてしまいました。」と言った。 だが、母はその言葉にさらに苛立ちを募らせた。
「言い訳はやめなさい。理由があれば見苦しくてもいいの?あなたの言葉は、誰の印象も変えないのよ!」
その夜、クラリスはタオルで髪を拭きながら鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。 それでも、母の前では翌朝、また何事もなかったかのように微笑むのだった。
──演じることは、いつの間にか呼吸になっていた。
*
ルツェルンの高校を卒業する頃には、クラリスの “微笑み” は誰にも疑われることのない仮面になっていた。 ドイツへ移り、フライブルクの大学で言語と歴史を学びながら、クラリスは週末に雑誌モデルのアルバイトを始めた。
撮影現場では、指示された角度で笑い、衣装の雰囲気に合わせて表情を作る。
「クラリス、その目線、いいね」「やっぱり品があるわ」
——カメラマンや編集者の言葉が、承認のように胸を満たす一方で、どこか冷めた自分がいた。
“また、誰かが望むクラリスになっている”
そんな生活が1年ほど続いた頃だった。
クラリスはベルリンで開かれたある建築関連の展示会に、モデルの仕事で主催者側の案内係として招かれていた。 黒いドレスに身を包み、来場者にグラスを渡しながら微笑む役目。
そのとき、クラリスの前に青年が。 ネイビーのスーツに控えめな眼鏡、名刺を差し出す仕草がやけに丁寧で、どこか誠実さを感じさせた。
「グラーフ建築事務所のレオナルド・グラーフです。……お手間を取らせてすみません」
その一言で、クラリスはふと気を緩めた。 彼の目は、他の誰とも違っていた。クラリスを “仕事としての女性” ではなく、一人の人間として見ていた。
展示が一段落した頃、レオナルドはクラリスに声をかけた。 「もしよければ、コーヒーでも付き合ってくれませんか?」
その日、彼らは展示会場近くの小さなカフェに入った。 建築の話、仕事の話、音楽や旅行のこと。 気づけば2時間が過ぎていた。
クラリスは、“演じずにいられた” 時間に驚いていた。 彼は最初からクラリスの肩書きや見た目ではなく、「君って、静かだけど、よく人を見てるね」と言った。
それがうれしかった。
クラリスも心を開こうとした。何度か食事を重ね、週末には湖に出かけたり、建築雑誌を読み合ったりした。
けれど、ふとした会話の中で、レオナルドが真顔で言った。
「ねぇクラリス。君って、どこまでが本当なの?」
心臓が少し跳ねた。 クラリスは笑って、「全部よ」と返した。けれど、その笑顔は、自分でも作りものだとわかった。
「いや、ごめん。別に責めたいわけじゃない。ただ、たまに君が “誰かの言葉” を使ってる気がして……怖くなる」
それから、距離ができた。 メッセージは減り、呼び出されるのは “都合のいい時間” ばかりになった。 最後は、彼の方から別れを切り出した。
「たぶん、僕は君の “外側” と恋をしてたんだと思う」
その日、クラリスは一人でカフェに残り、紅茶を飲んだ。 苦味だけが、口に残った。
演じることは、誰かを惹きつけるための武器だった。 でも、誰かと生きていくには、それだけでは足りなかった。
それに気づいた時、クラリスは静かに笑い、そして泣いた。
*
クラリスはモデルの仕事を徐々に減らし、街を歩く時間が増えていった。 人混みのなかに身を置くと、誰でもない自分になれる気がした。
ある日、駅のベンチで読んでいた古い文芸雑誌に、ふと目を奪われた。 “本物と偽物の違いは、熱にある” ──そんな言葉が書かれていた。
クラリスはその一文を、何度も読み返した。 意味は曖昧だったが、どこか心の奥に刺さるものがあった。
彼女はそのページをそっと閉じ、立ち上がった。 何かが、少しずつ変わり始めているような気がした。
*
そして、クラリスは、あのカフェでのことを時々思い出す。
──当時の彼は、少し影のある青年に見えた。けれど、どこか真っ直ぐで、曖昧なものを嫌うような空気を纏っていた。目には、どこか“静かな仮面”があって、まるで、自分と同じように、誰にも見せない何かを隠しているような。
クラリスは、ヴァイスが "贋作" と言ったとき一瞬だけ息を呑んだ。
絵が “本物” に見えたからではない。
それが “偽物” であるとヴァイスが告げたとき、その事実に驚いたはずなのに、なぜか心の奥では静かに納得していた。
”嘘なのに、こんなにまっすぐに伝わるものがあるんだ”
そう思えたのは、生まれて初めてだった。
──そうか、この人は “演じる” ために筆を持つんだ。その絵には、確かに“熱”があった。誰かの続きを描いているはずなのに、どこか、彼自身の声のようにも思えた。“贋作” という言葉に抵抗がなかったわけじゃない。
その瞬間、クラリスは、レオナルドに見せられなかった “仮面の奥” を、この青年には見せてもいいかもしれない、そう思った。
ヴァイスは、クラリスの嘘を「役割」として受け入れてくれる人だった。
“この人となら、わたしの演技は、ようやく終わるかもしれない”
「クラリス!」
地下から彼の声が響いた。 その瞬間、クラリスは現実に引き戻された。 キッチンの時計がわずかに音を立てた。 すっかり冷めた紅茶を片手に、彼女は静かに立ち上がる。
「クラリス、いい絵が描けたぞ!」
その声は、どこか子供のように無邪気で、光を帯びていた。 クラリスは自然と微笑み、カップを置いた。
「じゃあ、見せてもらおうかしら」
そう言って、彼のいる階段の方へと足を運んだ。