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第7章 生きた絵

シュピースの件を境に、歯車は急速に回り始めた。


ヴァイスは描き、クラリスは動いた。


一枚完成すれば、次の構想がすぐに始まり、その間にクラリスは写真を整え、物語を組み立て、専門家の扉を叩く。


”お会計はこちら、ありがとう、さようなら”


まるでフリーマーケットのようなやり取り。大金が動くのにこんなにもあっけない取引が二人にとって普通に感じてきた。


だがそれは、彼らにとって何より効率的な “生業” だった。



その日ヴァイスは、カンペンドンクの贋作を描いていた。1914年の空白を埋める一枚。

題して『ラスカー・シューラーに捧ぐ』。


ラスカー・シューラー ──表現主義詩人であり、カンペンドンクと一時期親交のあった人物。ラスカー・シューラーとカンペンドンクの関係は、実際には数枚の葉書しか証拠が残っていない。


だが、ヴァイスにとってそれが好都合だった。

キャンバスの中心には、幻想的な光に包まれた女性像。アーチと光の乱舞、騎馬の躍動、その中のひとつ、窓の奥に、子供のような人物がいた。

ごく小さく、しかし妙にリアルな筆致で描かれている。跳ねた髪、無表情な目、そしてちょこんとある、あの髭。


クラリスは作品を見て、眉をひそめた。


「…これ、子供?」


「なんかに似てないかい?」


ヴァイスは不敵な笑みで返した。


「えっ、ヒトラーに似てない?」


「おー、やっぱわかるか。子供のヒトラーを描いたんだよ。」


「えっ?……ちょっと、さすがにこれは……バレるんじゃない?」


「微妙なところだね。というか、専門家がどんな反応するか見てみたくないかい?」


「えー、やめてよ。心配だわ。」


「大丈夫、バレたら『確かに似てますね』って合わせればいいだけだよ。」


ヴァイスは笑いながら、その絵をクラリスに託した。





「……素晴らしい」


老鑑定士がルーペ越しに、うっとりと呟いた。


「この構図、筆圧、色の重なり。1914年の様式そのままです。カンペンドンクの “青の時代” とも重なりますな」


クラリスがそっと微笑む。


「お目にかなって、光栄ですわ」


鑑定士は慎重にキャンバスを傾けながら、裏面の印まで確認する。

ルーペの先が、窓の奥の “あれ” に近づいた瞬間、ヴァイスの心臓が一瞬だけ跳ねた。


「……?」


だが、何も言わず、スルリと通り過ぎる。

ヴァイスは内心で吹き出しそうになるのをこらえた。


「ところで」


鑑定士がふと顔を上げた。


「この絵の購入証や領収書は、お持ちですか?」


一瞬の間をおいて、クラリスが首を振る。


「祖父の死後に発見されたものです。聞いた話では、第二次大戦の際に、記録の多くが焼けてしまったそうで……残念ですが、証明できる書類は一切ありません」


老鑑定士はふむと頷いた。


「いや、仕方ありません。戦時下ではよくある話です」


そう言いながら、彼は再び絵に見入った。


「しかし…これだけの作品が、何十年も見つからなかったとは。まさに奇跡ですな。とりあえず、お会計はこれでどうでしょう?」


「…ありがとうございます」


二人は小さく頭を下げる。


「いやぁ、よかった。ありがとうございます、では、これで。」




買取金額 ──58万ドイツマルク






1983年の春、ふたりは結婚。 理由は、愛情の確認ではなく、生活と仕事の都合だった。


複数の名前を使い分け、身分を偽り、美術商や専門家の前で “親戚” や “秘書” として振る舞ううちに、 いっそ籍を入れた方が何かと都合が良い、という結論に至ったのだ。


名義の統一、書類の説得力、そして何より、表向きの “正しさ” を少しだけまとうために。 それは、贋作師とその共犯者にとって、最も現実的な選択だった。


「じゃあ、これで私たちも “公的には” 夫婦ね」 クラリスが古書店で買った金の指輪をくるくると指に通しながら、にやりと笑った。


「公的にはね。でも、非公開の取引はずっと前から夫婦みたいなもんだっただろ」


ヴァイスが封筒を揃えながら言うと、クラリスは肩をすくめた。


「それを言うなら、身分偽装も、経歴も、祖父の話も、全部 “夫婦の共同作業” よ」


「まるで詐欺師の誓いみたいだな」


「ちがうわ。芸術家の誓いよ」


ふたりは顔を見合わせて、声をひそめて笑った。






ある日の昼下がり


「引越し?」


クラリスがヴァイスに聞き返した。


「うん、モンペリエはいいとこなんだけど……正直、高すぎる。それに気取ってる」


ヴァイスがコーヒーカップを揺らしながら言った。


「こっちが本物の作品を売ってるのに、買う側が本物ぶってくるからね」


クラリスが冗談めかして言うと、ヴァイスは真顔で頷いた。


「……いや、わかる。誰よりも贋物(にせもの)みたいな奴が “これは本物ですか?” って聞いてくる感じ」


「ふーん……じゃあ、ドイツはどう?」


「ドイツ?」


「ケルンの近くにある田舎町。ベルギッシュ・グラートバッハってとこ。昔、父方の親戚が住んでてね、いまは空き家らしいの」


「ケルンってことは……西側か。」


「そこは広い地下室もあるの。」


「おー、地下室か」


ヴァイスは眉を上げて少し興奮する感じで頷いた。


「えぇ。ちょっと古いけど大きな窓もあるの。光の入り方が絵にちょうど良さそうよ」


「もうそこにしよう」 ヴァイスが即答した。


「えっ、見もせずに?」


「家なんかどうでもいい。地下室があれば、それでいい」


「本当にあなたは変な人ね」





週末、ふたりは車でベルギッシュ・グラートバッハへ向かった。 小さな坂道を登ると、クラリスがかつて数回だけ訪れたことのある家が、雑草に覆われながらも静かに佇んでいた。


「ここが……」


クラリスが鍵を開けると、扉のきしむ音が中に響いた。

家具はすでに運び出されていたが、空間は思いのほか広く、静かだった。 玄関の奥にあった階段を見つけたヴァイスは、まっすぐそこへ向かった。


「地下室……この辺りの家には、たいていあるって聞いたけど」


ギぃ、と軋む扉を開けると、冷たい空気がふっと流れ出た。 裸電球がぶら下がるだけの、コンクリートむき出しの空間。 しかしヴァイスの目は、すぐに輝き始めた。


「いいな。湿度もある。音も響かない。しかも日が入らない」


「普通、それを “嫌だ” って言うのよ?」


クラリスが眉をひそめる。


「違うよ! ここなら、描いた線が時間にさらされない。 誰にも触れられずに、ただ静かに残っていく。 それって、表現としては……完璧じゃないか?」


クラリスは階段の上で立ち止まり、そんなヴァイスを見下ろしていた。 少し呆れたように、それでいて、少し誇らしげに。


「じゃあ、ここで新たに作業に励めるのね」


「あぁ、どんどん描けるぞ。素晴らしい “地下要塞” だな」


「はいはい、じゃあ色々と片付けたり掃除もしなくちゃね。」







ベルギッシュ・グラートバッハでの生活は、静かで、慎ましく、そして贋作制作にとって理想的だった。

ヴァイスは地下室にこもる時間を徐々に増やし、光と湿度を管理した環境の中で、以前よりもさらに緻密な筆致を追求するようになっていた。


ヴァイスは顔料にもこだわりはじめた。


(この青、もっと深くできないか……カンペンドンクの “夜の青” には、まだ遠い。)


珍しい鉱物を使った天然顔料を取り寄せ、接着剤や下地も当時の製法に合わせて調合し直す。 ピグメントの配合比、筆圧の微妙な差。ヴァイスは研究者のようにメモを取り、同時に複数の下絵を試すようになった。


クラリスも同様に、贋作の “背景” づくりに拍車をかけた。 新たな写真、書簡、家系図。ときには美術雑誌に小さな匿名記事を載せることすらあった。


資金は、取引で得た報酬の多くを顔料や道具、紙類、古物商への賄賂などに回す形で消えていった。 だが、二人にとってそれは浪費ではなく、むしろ「作品の一部」だった。


「これが “仕込み” よ。贋作は、描く前から始まってるの」


クラリスがそう言って笑うたびに、ヴァイスは筆を止めて頷いた。





一方その頃、デュッセルドルフ。


鑑定士事務所の一角、まだ若い捜査官ローゼンが、分厚いファイルに目を通していた。


「カンペンドンクの贋作かもしれないと……」


「えぇ、かなり精巧に描かれてますが、もしかしたら、ですね。」


ローゼンの手元には、近年出回った “未発表作品” の写真と来歴一覧が並んでいた。 いずれも鑑定済み、評価済み。 だが、そのどれもが、専門家と鑑定士の間でどこか腑に落ちないところも。


「出てくるタイミングも、背景も…よくできすぎてる」


机の上には、他の捜査員が置いていった小さなメモがあった。


《出所:フランス経由/売却先:複数》


「この数年、同じ名の美術商が、定期的に “発見” してる。だが買い手はばらばら……まるで、計画的に分散されてる」


ローゼンはペンを指先で転がしながら、静かに呟いた。


「何かがある」



次の日の午前、ベルリン州警察本部にて、ローゼンは上司に呼び出された。


「ローゼン、最近カンペンドンク作品に関してかなり調べてるようだな」


「はい、何か気になる点が多くて……」


「そうか、なら、ペンツベルクにあるカンペンドンク・コレクションに行くといい。そこの学芸責任者が、カンペンドンクのオタクだから。いやそこでは精通していると言えばいいか。とにかく研究では国内でも指折りの人物だ」


「そうですか、どんな人ですか?」


「女性だよ。確か…ブリュックナーと言ったかな。 そうだ、確か名刺が……」


「はぁ。」


「ほれ、これがブリュックナー氏の名刺だ。少し気難しいが、頼めば話はしてくれる。君のような若者には案外悪くないはずだ」


ローゼンは小さく頷いた。


「かしこまりました、行ってみます」


──Katharina Brückner/Museum Penzberg – Sammlung Campendonk


ローゼンは名刺を胸ポケットにしまい、コートを羽織った。


美の裏側にある、もうひとつの真実を探しに。





どんよりとした午後。ペンツベルク美術館は静かだった。


平日とあって、観覧客もまばらな展示室の中央で、一人の女性がじっと絵を見つめていた。 黒のタートルネックに赤いスカート、スリムな眼鏡の奥に知的な光が宿る。


──カタリーナ・ブリュックナー。ペンツベルク美術館、ハインリッヒ・カンペンドンク・コレクションの学芸責任者。


その背中に、控えめな声が届いた。


「カタリーナ主任、お客様が」


受付係に案内され、ローゼンが静かに頭を下げた。


「ベルリン州警察本部のローゼンと申します。突然のご訪問、失礼します」


カタリーナは少し驚いたように眉を動かし、ローゼンの姿を見つめた。


「警察?…何かあったんですか?」


受付係が小声で説明を加えると、カタリーナは表情を引き締め、軽く頷いた。


「こちらへどうぞ」


二人は館内の奥、関係者専用の廊下を抜け、小さなオフィスへと向かった。


壁一面にアーカイブ資料と画集が並ぶ部屋。 中央のテーブルに着席すると、ローゼンは上着の内ポケットから数枚の写真と資料を取り出した。


「……実は、近年立て続けに市場に現れている “未発表のカンペンドンク作品” について、気になる点がありまして」


カタリーナは腕を組み、写真に目を落とす。 その表情には微かな緊張と興味が混じっていた。


「贋作の可能性をお疑いですか?」


ローゼンは頷いた。


「はい。鑑定士の方たち曰く "完璧すぎる" と。時代背景も来歴も、あまりに整いすぎているので、カンペンドンクが描いていた未発表の作品かもしれないと。」


カタリーナは腕を組んだまま、しばらく沈黙した。


「……写真だけ見ていると、本物に見えるのも無理はないと思います。正直、贋作と言われるまで本物に近いから……精巧ですね。」


カタリーナはしばらくして、あることに気づいた。


「でも、じっくり見ていると、どれも少し “明るい” の。……色のトーンが…軽い。人物の輪郭も、どこか理想化されすぎている。カンペンドンクはもっと…こう、沈んでいるというか、奥底に孤独がある」


ローゼンが興味深げに頷くと、カタリーナは資料棚から一冊の古い画集を引き出してきた。


「彼はドイツ西部のクレーフェルトという町で生まれて、織物商の家庭で育ちました。裕福ではなく、美術学校に通うことも親に反対されて──18歳で退学。無一文で家から追い出されて、絶望の中で描き続けた画家です」


彼女は一枚のページを開き、当時のカンペンドンクの自画像を指差した。


「彼の人物画に、美しい女性はいません。表情は様式化されて、どこか影がある。華やかすぎるものを、彼は描きませんでした。それが “カンペン・ドンク” なんです」


ローゼンが静かに呟いた。


「つまり、今出回っている作品は……あまりにも生き生きしている」


カタリーナは頷いた。


「芸術とは、作者との対話です。その “声” が聞こえない絵──それは、本物とは言えない」


「実は私も、ある時期から妙な違和感を覚えていました。目の奥に “熱” がない作品がある。筆致は完璧でも、呼吸が感じられない」


「ただし、証明するのは困難です。紙も絵具も正しい。鑑定士たちは皆、首を縦に振る」


ローゼンは深く頷いた。


「その “気づき” を、どうやって証明に変えるか。それが、私の任務です」


「せっかくだから──ホールに本物を見に行きましょうか」


カタリーナはそう言って立ち上がり、ローゼンを展示室へと案内した。 白壁に囲まれた高い天井のホールには、厳選されたカンペンドンク作品が並んでいる。


その一枚の前で立ち止まる。


「これは1912年の作品。青の使い方が独特でしょう? 暗さの中に、どこか光を恐れるような沈みがあります」


ローゼンは無言でうなずき、目を凝らした。


「カンペンドンクの絵は、色彩が鮮やかでも “沈んで” いるんです。孤独とか、苦悩とか、あの人が生きたものが、絵に残ってる」


カタリーナは他の一枚へ移る。


「こっちは1915年。戦争で友人を失ってからの作品です。ほら、色はあっても、人物の表情はどこか空虚でしょう?」


ローゼンは資料の贋作と見比べるように目を細めた。


「確かに……贋作は、どこか “生き生きしすぎている” 」


カタリーナは小さく微笑み、腕を組んだ。


「そう。“明るすぎる” のよ。絵が語りすぎている。カンペンドンクはもっと寡黙だった」



ホールの出口で、ローゼンは立ち止まり、名刺を差し出した。


「本日はありがとうございました。進展がありましたら、またご連絡させていただきます」


「ええ、またいつでもどうぞ」


カタリーナはローゼンを見送り、静かなホールへ戻った。 贋作の資料写真を手にしながら、呟いた。


「それにしても……よくこんなこと考えたわね。空白期間を埋める……。フッ、誰かが金儲けをしようとしてるだけだわ」


そのとき、後ろから声がした。


「この絵、わたし好き」


振り返ると、小さな女の子が笑顔で一枚の絵を指していた。


──それは、カタリーナがローゼンから預かった贋作リストの写真の一枚だった。


女の子はテーブルの上に置かれていた資料にふと目を留め、無邪気な笑顔で言ったのだ。

カタリーナは一瞬だけ表情を曇らせたが、その少女の純粋な言葉に、何も返せなかった。





よく晴れた土曜のケルン。


市内の現代美術ギャラリーでは、「カンペンドンクとその時代展」が開催されていた。


カタログには “個人所蔵による新収蔵作品も特別展示” と記されている。


ヴァイスは、ベルギッシュ・グラートバッハから車で1時間足らずの距離ということもあり、気晴らしにふと思い立って足を運んでいた。


『贋作ばかり描いてると、自分が何者かわからなくなる』そう笑ってクラリスに言い残し、数時間の小旅行に出かけたのだった。


ギャラリーはそこそこの来場者で賑わっていた。ヴァイスは特に目的もなく歩いていたが、ふと、ある一点で足を止める。


「ん?」


──見覚えがある。


「……まさか」


額縁の中にある絵に、彼は引き寄せられた。


騎馬と女性像、幻想的なアーチ。自分の癖にしか見えない筆致。光の差し方、構図、全てが既視感。


「……これ、俺が描いたやつか」


苦笑が漏れる。なぜか他人の作品のように展示されている。


そして、その絵の前に立っていたのが──若い男だった。


──ローゼン。


彼はその日、休日返上でデュッセルドルフでの捜査の合間に、勉強がてらこの展覧会に立ち寄ったばかりだった。


もちろん、ヴァイスはローゼンという男が誰なのか知らない。 ただ、絵を見つめる真剣な横顔が気になった。


「……どう思います?」


ヴァイスは好奇心で声をかけた。


ローゼンは少し驚いて振り返るが、警戒した様子はなかった。


「ええ、綺麗な絵ですね。美術のことはあまり詳しくないですが、僕は好きですね。ただ……少し、明るすぎるような気もします」


「明るい?そうですか。」


「……あなたは美術に詳しいんですか?」


「まぁ、趣味で少しだけ」


二人の会話は、それ以上深まることはなかった。 ローゼンは少し会釈をしながら、その場を離れていく。


ヴァイスは絵の前でしばらく立ち尽くし、肩をすくめた。


「悪くないな……」


そして、そのまま背を向けて、ギャラリーを後にした。

数十年後、自らが描いたカンペンドンクの一枚が、思わぬ形で注目を集めることになるとも知らずに。

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