第6章 扮装
モンペリエの空は、夕暮れでもなお眩しく、建物の壁を黄金色に染めていた。ヴァイスは自分のアトリエ兼アパートにクラリスと一緒に住んで3週間が経とうとしていた。
そして、その一室で、二人の共犯者が準備を進めていたのだ。
クラリスは部屋の隅で、静かにノートを閉じる。
「……じゃあ、いよいよ “売る” のね」
「うん」
ヴァイスはわずかに頷いた。
「完成してる。これはエルンストの “空白” を埋める一枚だ。……あとは、背景だけだ」
「つまり “物語” ね」
クラリスはためらいなく机の上に地図を広げた。数日前から用意していたヨーロッパの古い邸宅地図。その隅には赤インクの印がいくつも打たれている。
「こことか、ここ。昔からコレクターが多かった地方。“祖父の屋敷の屋根裏から見つかった” っていう設定にするのはどう?定番だけど、逆にそれが信じられる」
「なるほど、ありきたりだがいいかもな。そしたらすぐに額縁も用意する。ラベルは当時の来歴──“1931年 ケルン近郊の収集家による私的記録より”。これが一番しっくりくる」
「あと、写真も必要よ。贋作と “祖母” が一緒に写っているもの」
「うん……、どうするか」
二人は悩む。するとヴァイスが
「君が祖母に変装するのはどうだい?」
「あー、それで一緒にその絵を置いて当時のような感じで写真を撮るのね」
「そう、背景もセットも当時にありそうなものを置いて、カメラも古いので撮る」
「オッケー、いいわよ」
クラリスは笑って立ち上がり、クローゼットの中を物色し始めた。
「60年代の古着、何着か持ってるの。髪もアップにして、白黒写真にすれば完璧よ」
「背景は任せてくれ。古道具屋で埃っぽいソファと鏡、それからカーテンも調達してくる」
「わかったわ、準備期間は一週間。完璧に仕上げましょう。」
クラリスの瞳に浮かんでいたのは、あのときのカフェで見せた微笑みではなかった。
それは舞台の幕が上がる直前の役者の目だった。ヴァイスもまた、静かにその視線に応じた。
──1980年、ヨーロッパ。
時代は静かに揺れていた。
ソ連とアメリカによる冷戦は緊張の真っ只中で、人々は「真実」と「虚構」の境界に敏感になっていた。芸術の世界でも、それは同じだった。
ポストモダン芸術の波が広がりはじめる一方で、富裕層のコレクターや画商たちは、20世紀前半の「失われた名画」の発掘に熱を上げていた。ナチス政権下で散逸した絵画、戦火の混乱に紛れて消息を絶った作品。そうした「空白の一枚」が、新たに現れるたびに、ヨーロッパ中の注目を集めた。
携帯電話はおろか、インターネットもまだ一般的に知られていないこの時代。情報の真偽は、書面と人づての噂に頼るしかなく、それゆえに “物語” は、事実以上に力を持った。
1980年代は「アナログで騙せる最後の時代」だった。
──1週間後
土曜の正午になる前だった。アトリエの扉が、コン、コンと静かに叩かれた。
ヴァイスが目を向けると、クラリスもそっと顔を上げた。
──来た。
扉を開けると、そこにはグレーのスーツに身を包んだ年配の男性が立っていた。
「ヴェルナー・シュピースさん?」
そう、訪問してきたのはエルンストのカタログ・レゾネを監修している美術界の重鎮だった。
数週間前、クラリスはエルンストの贋作に“来歴”と“証拠写真”を添え、控えめな文面で──だが確実に、彼の興味を引くように仕組まれた手紙を送っていたのだ。
クラリスの社交性と観察眼、そして舞台装置のように準備された “背景” が功を奏したのだ。
まさか本当にヴェルナー・シュピースが訪れるとは、とヴァイスは内心で呟いたが、それを表には出さなかった。男は穏やかな笑みを浮かべ、軽く右手を上げた。
「これは、驚いたよ。まさか、未発見のエルンストがあるかもしれないなんてね」
その声音には、皮肉でも懐疑でもない、純粋な興味と喜びが滲んでいた。
「わたくしも驚きました。さぁ、どうぞ中へ」
クラリスは中へ案内し、すぐにコーヒーを出したが、シュピースはやんわりと微笑みながら首を振った。
「あー、すまないね。ありがとう。でも——時間があまりないんだ。さっそく、エルンストの妻が言っていたという “亡き夫が描いた最も美しい森” を見せてもらえないだろうか」
「あっ、そうですか……、かしこまりました。じゃあ、あなた見せてあげて。」
アトリエの奥、白布に覆われたキャンバスへヴァイスが案内する。
ゆっくりと布を外すと、そこに現れたのは、森と群衆を融合させた幻想的な構図。
「……これは……」
シュピースの瞳が見開かれ、言葉を失ったように沈黙する。
数歩近づき、食い入るように筆致と色使いを観察し、構図の奥に視線を滑らせた。
クラリスが静かに経緯を説明する。
「亡くなった祖母の屋敷を整理していた際、屋根裏でこの絵を見つけました。手紙や記録、写真が一緒に保管されていて……そのすべてを揃えて、今日持ってまいりました」
「見せていただけますか?」
シュピースは資料に目を通しながら、時折絵を振り返り、最後には深く頷いた。
「間違いない……これは “空白の期間” に描かれたとされる、失われたエルンストの作風そのものだ……」
「ホントですか?」
クラリスはわざとビックリするように振る舞った。
「これは……太鼓判を押させてもらう。エルンストの未発見作として、間違いなく公的に認定できるだろう」
そして彼は一枚の名刺を差し出し、控えめに口元を緩めながら言った。
「……もし売却をお考えなら、私の方で責任をもって取り計らいますよ。金額としてだいたい…… 100万ドイツマルク 程度になるかと」
クラリスとヴァイスは、一瞬だけ顔を見合わせた。
その瞳の奥にあったのは、緊張の色ではなく、完璧な舞台を演じきった者だけが知る、静かな達成感だった。
「……100万ドイツマルクですか」とヴァイスが小さく繰り返した。
当時の価値にして、およそ6〜7000万円相当。
——数字が、現実としての重さを持ち始めた。
シュピースは腕時計をちらりと見て立ち上がった。
「今はこれ以上は滞在できませんが、正式な鑑定書と、販売経路の手配については、改めてご連絡させていただきます」
そして、クラリスの方を見て優雅に微笑む。
「本当に、素晴らしい一枚です。まさか、この目でこんな発見に立ち会えるとは思ってもみなかった」
クラリスはにこやかに頭を下げながらも、心のどこかで、その笑顔がどこまで真実を見抜いているのかを探っていた。
「必要な書類や連絡先はすべて名刺の裏に書いておきました。後日、こちらに担当者を向かわせます」
ヴァイスは黙って頷いた。
シュピースはコートを手に取り、扉の前で一瞬だけ振り返った。
「それにしても……本当にエルンストの“失われた森”だと思う。ありがとう、感動したよ」
扉が静かに閉まり、その気配が完全に遠ざかるまで、部屋の中に言葉はなかった。
ヴァイスはそのまま、数秒ほど動かずに立ち尽くしていたが、やがて椅子に腰を下ろし、テーブルに肘をついた。
「ハァ……終わったな」
クラリスはゆっくりと頷き、髪をかき上げながらソファに沈む。
「これでいいの?信じられない。ねぇ、さっきの金額……あなた、ちゃんと聞いてた?」
「……100万ドイツマルク。頭の中でゼロが崩れ落ちていったよ」
「たった一枚の、“物語付きの” 絵で」
ヴァイスは乾いた喉を潤すように、水をひと口含んだ。
「筆を持って、描いて、古道具屋で埃をかぶった鏡とカーテンを買って、君が “祖母” になってくれて……。それだけで、100万」
クラリスは吹き出しかけて、なんとか堪えた。
「同じこと言うけど……、これでいいの?簡単すぎじゃない?シュピースもこんな簡単に騙されるなんて」
「ホント、とんでもないぞクラリス!」
二人は一瞬の放心や沈黙の後、ゆっくり実感が込み上げてきて──それがじわじわ笑いに変わる
「えっ?100万よ?だってパッと見ただけで 『間違いない、これはエルンストの失われた絵だ』 」
クラリスはシュピースを小馬鹿にするように真似をした。
「ハハ、シュピースを馬鹿にしちゃダメだぞ、あの人の "パッと見の判断" のおかげなんだから感謝しないと」
ヴァイスもクラリスに便乗しながら馬鹿にする
「そんなあなたも馬鹿にしてるじゃない!」
「フッ……それにしても、いやー……100万かぁ」
「……ねえ、私たち、何かとんでもないことを始めてしまったんじゃない?」
「とんでもないことをやるために組んだんじゃなかったか?」
ふたりはしばらく目を合わせ、勢いのままに抱き合い、笑い声が部屋いっぱいに弾けた。
部屋の空気が揺れるほどに。
── 一方、ベルリン州警察本部。
美術犯罪捜査課の方でバタバタと足音が近づく。
「失礼します!」
見習い刑事のような青年がドアを開けた。まだ初々しさの残る顔立ち、鋭い目つきに、明らかな緊張の色。
「すまないな、急に呼び出して」
デスクに座っていた年配の上司が言う。分厚いファイルを手にしていたが、手を止めてその青年を見つめた。
「えーと……、」
「ローゼン、ローゼン・フランツです!」
「そうだ……ローゼン、聞いているよ、すまないね。成績優秀だったそうだな」
「いえ、ありがとうございます。あの……」
男は一枚の書類を抜き出して彼に見せた。
「君の配属先が変わってな…… “美術犯罪捜査課” だ」
「美術……ですか?」
少し目を丸くするローゼン。
「驚くか?ここは意外と忙しいぞ。最近じゃ、ナチス時代に消えた絵が次々と “見つかってる” からな。おかげで画商も、美術館も警察も、全部慌ただしい。で、ローゼン。君はこれからそれを追うことになる」
「……はい!」
目を伏せながらも、どこか興味を惹かれたような表情のローゼン。
ローゼンは渡されたファイルを静かに開き、膨大なリストに目を通し始めた。 作者不詳の油絵、謎の来歴を持つ彫刻、贋作疑惑がつきまとう水彩画── 書き込まれた数々の名前の中に、「カンペンドンク」の五文字があった。
『カンペンドンク作品 出所不明 寄贈:1973年 ケルン西部・私設コレクターより』
ヴァイスがかつて描いた贋作もそのリストに入っていたのだ。ローゼンはその項目に一瞬だけ眉を寄せたが、特に反応を見せずに次のページへと視線を移した。
その絵が、のちに美術界を揺るがす “贋作” だと気づくのは、まだずっと先の話である。