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第5章 最愛の共犯者

ブリュールの冬は、いつも静かだった。


煉瓦(レンガ)の壁に雪が音もなく積もり、通りを行く人影もまばらだ。

ヴァイスは薄暗いアトリエの中で、窓の外をじっと見つめていた。


贋作は、すでに四枚目になる。 空白を埋めることに夢中になっていたはずなのに、最近、絵に魂が乗らなくなっている気がしていた。


ここに来て3年。ヴァイスは毎日同じように、エルンストの空白を埋めることだけに没頭してきた。だが、何かが欠けていた。


かつて神聖に思えたこの場所が、今では少し息苦しく感じられることに気づいた。


——もう、ここで描く理由はないのかもしれない。


そう思いながら、乾いたキャンバスに目をやった。






雲ひとつない青空の下。ヴァイスはモンペリエの駅にいた。


そう、フランスに戻ってきたのだ。


最初はただの放浪だったが、今回は違う。ヴァイスは、エルンストの足跡をなぞるために来たのだ。

パリでも、マルセイユでもなく、この街に。


「約3年ぶりのモンペリエか……、ものすごく昔にいた感じがするな」



スケッチブックの表紙に、薄く日焼けの跡が残っている。

モンペリエの朝は、ブリュールよりもずっと光が強い。空気は乾いていて、通りのカフェではすでに誰かが赤ワインを飲んでいた。


ヴァイスは、小さなアパートのバルコニーに腰かけ、空を仰いだ。


——次はここで、“フランス時代のエルンスト” を描く。


モンペリエにアトリエを借りたのは、正解だった。 ブリュールでは描けなかった種類の光と、時間の流れがここにはある。


かつてエルンストが憧れ、そして過ごしたこの土地で、 新しい出会いが待っていることを、ヴァイスはまだ知らなかった。






とある本屋。その奥で、詩集と美術書の棚のあいだに、ヴァイスは立っていた。この店にはもう何度も来ている。旧市街の小さな石畳の通りにひっそりと佇む、古くて静かな本屋だ。


紙の匂い。革張りの背表紙。陽が当たらない場所にだけ時間が積もるような、そんな空気がここにはあった。


ヴァイスはラディゲの詩集をめくっていた。

詩ではなく “筆跡” を見るために。若くして亡くなった詩人の言葉の余白に、エルンストが残しそうな気配を探すように。


そのときだった。

扉の鈴が鳴る音がして、誰かが入ってきた。


足音が柔らかい。ヒールではない、けれど歩き慣れた足取りだった。

視線を移す前に、ヴァイスはその “気配” だけで振り返っていた。


白いコート。肩までの明るい髪。黒縁の眼鏡。

落ち着いたベージュのパンツに、洒落たブーツ。

視線を隠すように棚の背後に入ったその女性は、美しかった。


だが、それ以上に目を引いたのは、彼女が手に取った本だった。

『20世紀美術館の時代』──フランス語版の、装丁の地味な評論集。


その本を選ぶ人間はそう多くない。

ましてや、こんな静かな町の古書店で。


ヴァイスは思わずページを閉じ、彼女の横顔を盗み見た。

まるで “演じている” かのように自然な所作。

ふと目が合いそうになり、ヴァイスは急いで視線を逸らした。


何かを試されているような気がした。


そして彼女は、それ以上店内を歩くこともなく、ゆっくりと本を戻し、何も買わずに出ていった。

扉の鈴が、もう一度だけ静かに鳴った。


しばらくその場を動けなかった。

この本屋には長く通っているが、あのような女性を見たのは初めてだった。


──ただの偶然。


そう思いながらも、ヴァイスの胸の奥に、薄く何かが引っかかっていた。






ヴァイスのアトリエには、静かにクラシックのレコードが流れていた。

窓の外では市場が開かれ、人々の声がかすかに届く。


ヴァイスはキャンバスに向かい、今日もまた “あるかもしれなかった一作” を。描くのはエルンスト、ではなくエミリー・シャーミ。

パリで活躍していた女性画家で、資料によってはある時期の作品が消えているとされている。


幾つかのスケッチと展覧会記録から、シャーミが描きそうな女性像の構図を起こした。

髪をまとめた横顔、窓辺に座るポーズ、テーブルに置かれた薄手の布。

色調はフォーヴ的だが、どこか沈んでいる。


だが、筆を入れていくうちに、違和感が生まれた。

本来この人物の顔はぼやけているはずだったのに、ヴァイスの手は、思いのほか精緻に目元と口元を描き込んでしまっていた。輪郭が、昨日の本屋で見かけた女性の横顔に似ている。


白いコート。静かな眼差し。

そして、何も言わずに本を棚に戻して立ち去った後ろ姿。


ヴァイスは思わず筆を止めた。

だが、描き直そうとは思わなかった。


(この絵はシャーミの贋作だ。だが……誰を描いてしまったのか、俺にもはっきりとはわからない)



ヴァイスはラベルを書き、裏に貼った。


──1930年 パリ・モンマルトル、未出展作品。


絵は乾かしの棚に立てかけられ、他の作品と同じようにそこに置かれた。

けれどその一枚だけが、彼にとって少しだけ異質だった。






1980年、ドイツ・ハノーファー近郊。

ヴァイスはここで広めのアトリエ付きアパートを借りて暮らしていた。

贋作師としての仕事は、すでに10年になろうとしていた。


カンペンドンク。

次なる標的の画家として、その色彩と構図を徹底的に調べ上げていた。

幼少期に父から教え込まれた筆遣いが、皮肉にもカンペンドンクの線に似ていたのは、奇妙な巡り合わせだった。


この頃のヴァイスは、贋作で得た金でそこそこの暮らしをしていた。

フランスやスイスのコレクターからも声がかかるようになり、

「発見された作品」を市場に送り出す手際も洗練されてきていた。


アトリエの一角には、過去に描いた贋作が数点、布をかけて積まれている棚がある。それらは売るには早すぎたもの、あるいは設定が甘く保留にしているものだった。

カンペンドンクのスケッチを片づけた手で、ヴァイスはふと、その棚の布をめくった。数枚の中に、ひときわ視線を引く絵があった。


それはあの肖像だった。


エミリー・シャーミの空白期として描いた贋作。

それはヴァイス自身が忘れかけていた1枚だった。


だが、女性の顔を見た瞬間、ヴァイスの胸の奥に淡い痛みがよみがえった。


モンペリエの古い本屋。

静かに本を手に取って、何も買わずに出て行った白いコートの女性。

それきり、一度も会っていない。


(名前も知らないまま、もう何年経っただろう)


絵を手に取り、光にかざす。

筆跡は自分のものでありながら、自分のものではないような感覚。

何かが、宿っていた。


気づけば、荷造り用のトランクを引き出していた。

旅の支度など、ここ数年していなかったのに。


「……行ってみるか」


旅行でも、調査でもない。

ただ一度、自分の絵に宿った “誰か” を、もう一度確かめてみたかった。





モンペリエの街は、相変わらず静かだった。太陽の角度だけが、過ぎた時間を教えてくれる。


ヴァイスは久しぶりにあの本屋に立ち寄った。だが、彼女の姿はなかった。 当然だと思った。あのときの一瞬が、またここで繰り返されるはずもない。それでもどこかで期待していた自分に、ヴァイスは小さくため息をついた。


数日後、ヴァイスは映画館の座席に沈み込んでいた。フランス映画の再上映。気分転換のつもりだった。


すると、左前方の席に横顔の輪郭が見えた。髪の色、首のライン。


どこかで見たような──


だが暗がりの中では、確信は持てなかった。映画が終わり、劇場の外に出たとき、その女性が振り返った。


──彼女だ


ヴァイスはゆっくりと歩み寄り、少しだけ息を吸い込んだ。


「すみません!」


女性はハッとさせられ、不思議そうにこちらを見た。


「……こういうこと、あまりしないんですが……。映画より、あなたの横顔が気になってしまって。」


女性は少し目を丸くし、すぐに小さく笑った。


(……何、この人。)


女性は少しだけ首を傾げた。呆れたような、でもどこか楽しげな苦笑いだった。


ヴァイスは、なぜかその表情にほっとしていた。


「近くに、落ち着けるカフェを知ってるんです。コーヒーでも、どうですか?」


「えっ?コーヒーですか?」


クラリスは一瞬、迷うように視線を外した。


「うーん……」


(……見ず知らずの人と、いきなりお茶なんて。)


ヴァイスは一拍おいて、控えめに差し出した。


「すみません、名前も名乗らずに。アーダルベルト・ヴァイスといいます」


女性は小さく目を見開き、少し口元をゆるめた。


「クラリス。クラリス・アウアーです」


ヴァイスはもう一歩だけ踏み出した。


「アウアーさん、もし今ここであなたに声をかけなかったら、きっと……後悔すると思ったんです」


クラリスは肩の力を抜いたように、ふっと息を漏らした。


「うーん、……まぁ、少しだけなら?…いいですよ。」


彼女は軽くうなずいた。ヴァイスの鼓動が、わずかに早まるのを感じた。





午後三時すぎ、ふたりはモンペリエ旧市街の中心、サン・ロック広場(Place Saint-Roch)に面したカフェのテラス席に腰を下ろしていた。通りの緩やかな日差しが、テーブルの縁を照らしていた。軽やかに響くカップと皿の音、どこかから漂うタルトの甘い香り。


クラリスはストレートの紅茶を、ヴァイスはエスプレッソを頼んだ。


言葉を探すようにしていたヴァイスが、ふと口を開いた。


「……実は、君に会うのは、これが初めてじゃないんだ」


クラリスが紅茶を口に運ぶ手を止め、軽く片眉を上げた。


「数年前にこの町の古本屋で、見かけたことがあってね」


「古本屋?」


「詩集の棚の前だった。白いコートを着ていて……黒縁の眼鏡をかけていた君が、ある一冊の本を手に取ったんだよ」


クラリスはゆっくりと頬を緩めた。


「『20世紀美術館の時代』──でしょ?」


ヴァイスは少し驚いて、うなずいた。


「そう!覚えてたんだね!」


クラリスは紅茶に目を落としながら、小さくつぶやいた。


「……ちょうどあの頃、真贋しんがんやオーセンティシティに関する本を集めていたの。あの本を手に取ったのも偶然じゃなかったのよ」


「はは……そうなんだね」


「それに──なんとなく、あのときの本屋は空気が違ってた。後ろから誰かの視線を感じたような気がして……それで、少しだけ期待してたの。誰かに声をかけられるんじゃないかって。でも、そんな都合よくはいかないわよね」


「ええ。あのときは……何も言えなかった」


クラリスは紅茶のカップを指先で軽く回した。


「ねえ、ヴァイスさん。あなたは何をしている人なの?」


ヴァイスは少しだけ言葉に詰まり、笑みを浮かべて返した。


「画家だよ。誰かの人生を辿って、そこに残された空白を埋めていくような仕事をしてる」


「……少し詩的すぎて、余計に怪しいわね」


クラリスがそう言って微笑むと、ヴァイスもつられるように笑った。


「それでも、たまには信じてもらえることもある」


言葉のやりとりは自然と続き、ふたりの距離もわずかずつ近づいていった。そして、日が傾く頃には、次に会う約束が交わされていた。






数日後の午後、ふたりは再び顔を合わせた。今度はカフェではなく、小さな路地裏のギャラリーを巡ったあと、ヴァイスのアパートメントへと足を運ぶことになった。


アトリエ兼の部屋。高い天井と木の床、窓際には描きかけのキャンバスがいくつも並んでいた。


「どうぞ。くつろいで」


クラリスは部屋を見渡しながら、椅子に腰を下ろした。


「あなたの作品、いくつか見せてもらえるかしら?」


「もちろん」


ヴァイスは棚から何枚かを選び、そっと並べていく。その絵のひとつを見つめながら、クラリスが口を開いた。


「不思議ね。どれも “知ってるようで知らない” 顔をしてる……というか、なんだか見たことあるような」


ヴァイスは笑い、グラスにワインを注いだ。


「それが僕の仕事だからね」


ワインを口にしながら、気持ちが緩んでいく。そしてその夜、ふとした間に、ヴァイスは口を滑らせてしまう。


「実は……これはね…… 贋がん 作さくなんだ」


クラリスがワインのグラスを止め、目を見開いた。


「……今、何て?」


その声は明らかに驚愕に満ちていた。静かな部屋の空気が、一瞬だけ張りつめた。


ヴァイスは視線をそらしながら、肩を落として言葉を探した。


「贋作……つまり、本物の画家があたかもこういう絵を描くだろうと想像して描いた絵なんだ。……だからまぁ、これは僕のオリジナルだよ。」


クラリスはしばらく無言のまま絵を見つめた。


「……つまり、模写じゃないけど、誰かが描きそうな “ありそうな一枚” ってこと?ピカソやゴッホが描きそうな絵をあなたが描いたと」


ヴァイスは軽くうなずいた。


「そう。世界に一枚しかない “ありえた本物” を、僕が描いたんだ」


クラリスはゆっくりと背もたれに身を預け、天井を見上げた。 しばらくそうしてから、ふぅっと深く息を吐き、視線をグラスへと落とした。


(信じられない……まさか、贋作師だったなんて)


彼女は無言のまま、並べられた絵を一枚ずつ見つめていった。


最初は疑念と困惑が混じっていた。 だが──時間が経つにつれ、絵に宿る不思議な熱に気づいた。


その構成。その色使い。その説得力。


絵の魅力なのか、やり方なのか、それとも──彼自身の魅力なのか。


気づけばクラリスは、心のどこかで思っていた。


(この人は、私にとって腹心の共かもしれない)


クラリスはようやく口を開いた。


「……それを、どうやって売るの?」


ヴァイスは少し驚いたように彼女を見た。


「贋作を完成させただけじゃ意味がないわよね?市場に出すための “物語” が要るでしょう?」


ヴァイスはワインをひと口飲み、ゆっくりとうなずいた。


「絵そのものじゃなく、“出所” を作るんだ。古い屋根裏から出てきた、という設定で。時には贈答用だった証拠の手紙や、古びた写真も添える」


クラリスはその説明に、どこか心を奪われていた。


「つまり、絵の横に添える “物語” こそが、本物の証明になるってことね」


ヴァイスはクラリスが思いのほか興味を示しているのを感じ、さらに詳しく語りはじめた。


「本だけじゃない。例えば古い額縁を探しに蚤の市に行ったり、裏面に貼る展覧会のラベルを複製したり。場合によっては、当時の新聞に小さく載った展示会の記事を捏造することもある」


「徹底してるのね……」


「信じてもらうためには、どんな細部も疑われちゃいけない。時代の紙質、印刷インク、筆跡、経年劣化のクセ──全部を “そこにあったもの” として揃えるんだ」


クラリスは、知らぬ間に指先でワイングラスをなぞっていた。


ヴァイスはグラスを持ち上げながら、少し照れたように笑った。


「実はさ……マックス・エルンストの贋作は、これまでに4、5枚ほど描いてきたんだ。でも売ったのは、ブリュールの小さな骨董品屋だけ。地味なやつだよ」


「どうして? もっと大胆に売らなかったの?」


「いや、実は……モンペリエに来てからずっと、ある計画を温めてたんだ。エルンストの“群衆と森”の空白期間にあったかもしれない最後の集大成の一枚を描いてね。それを、ヴェルナー・シュピース──あのカタログ・レゾネの監修をしていた重鎮に、本物として売り込むつもりだった」


クラリスは、思わずワインのグラスを止めた。


「え、それって本気で?」


「うーん、半分。でも……途中まで準備したけど、結局やめちゃったんだ。自信がなかったわけじゃない。ただ、何かが足りない気がしてね」


クラリスはしばらく沈黙し、そして言った。


「足りなかったのは、“物語” じゃない?」


ヴァイスは彼女を見た。クラリスはグラスを傾けながら、目を細めた。


「……それ、私が作ってあげる」


その声には確かな意志があった。


その夜から、ふたりの関係は “共犯者” へと、静かに、確実に変わっていった。

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