第4章 憑依
ヴァイスは、故郷のドイツへ向かっていた。列車がブリュール駅に近づく頃、静かに目を閉じた。
「エルンスト。——その空白を、俺が埋める。」
カタン、と小さな音がして車輪が止まる。ヴァイスは立ち上がり、古びた駅舎を抜け、街へと足を踏み入れた。低い建物、苔むした石畳、手入れの行き届いた公園。遠くから教会の鐘の音がかすかに響いてくる。
しばらくして、大きな広場にポツンとあるベンチに、絵を描いている老人が目に入った。
「こんにちは、よくここで絵を描いてるんですか?」
「ん? あー、天気がよければいつも描いてるよ。それがわたしの日課でね。」
「そうなんですね。」
「お兄さんはここらに住んでるのかい?」
「いえ、出身はヴェストファーレン州のヘクスターです。ブリュールにはマックス・エルンストが好きなので一度来てみたかったんですよ。」
「ははー、それはそれは。お兄さん、マックス・エルンストはここのベンチに座って絵を描いていたらしいよ。」
「えっ!?そうなんですか?」
「わたしがここで描くようになったのもそういうこと。」
ヴァイスの背筋に、静かに電流が走った。
——偶然ではない。やはりここに来るべくして来たのだ。
ヴァイスは老人の隣に座った。
——ここで、エルンストは絵を描いていたのか。
「おじいさん、いつも何時から描いてるんですか?」
「何時か?……うーん、11時頃かな。日が暮れる前にはやめてるな。」
「そうですか、僕もここで描いてみたいのでおじいさんが来る前までやってていいですか?」
「面白いこと言うね君、ここはわたしの庭じゃないんだから許可などいらんよ。」
「そうですね。でも、邪魔してしまってはと思いまして。」
老人はヴァイスに聞いた。
「君は絵で食って行きたいのかい?」
「えっ……、」
ヴァイスは言葉に詰まった。
「もしそうなら、わしのことは気にせずここでずっと絵を描けばいい。わしはどこか空いてるところで描く」
老人はニコッと笑い、再び描き始めた。
「ありがとうございます。」
ヴァイスはベンチを見つめた。かつてのエルンストもここに座り、絵を描いていた。
——ならば、自分もここで描こう。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに温かくなった。
しばらくその場に座っていたヴァイスは、ゆっくりと立ち上がった。
煉瓦造りの小道を曲がり、静かな川沿いへと足を運ぶ。風、匂い、光。すべてを身体に刻みつけるように、ヴァイスは街の隅々を歩いた。
やがて、エルンストが幼少期を過ごしたという家の近くに、小さなアパートを見つけた。時代に取り残されたような古い建物だった。
ヴァイスは迷わず契約し、その一室に住み始めた。
狭く、寒い部屋。だが、窓の外に広がる街並みは、確かにエルンストがかつて見たものと地続きだった。
数日後——
ヴァイスは町役場を訪れ、エルンストの通った学校の記録や、当時の住民名簿を調べた。
本名 ———マクシミリアン・エルンスト
そこから、近辺に住む、エルンストの幼なじみだった女性の名前と住所を突き止めることに成功した。
ヴァイスは小さな家の呼び鈴を鳴らし、戸口に現れた杖をついた老婦人に向かって、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。突然すみません。マクシミリアン・エルンストの幼なじみだったイルゼさんでしょうか?」
「え?……そうだけど……あなたは?」
老婦人は不審な気配を感じながら目を細め、ヴァイスを見つめた。
「すみません、怪しいものではなく、僕は画家をしている者なんですが、マックス・エルンストの絵を追いかけて、彼が育ったブリュールに滞在しています。絵だけじゃなく、彼が何を感じて、何を見て生きていたのか——それを少しでも知りたくて。調べていく中で、イルゼさんのお名前にたどり着きました。もし差し支えなければ、当時のお話を聞かせていただけませんか?」
「はぁ、エルンスト? 懐かしいわね。……まあ、いいですけど。どうぞ、中へ」
ヴァイスは深く頭を下げ、イルゼのあとに続いて家の中へ入った。
部屋の奥、暖炉の前の古びたソファに腰を下ろしながら、イルゼは思い出すように語り始めた。
「マックスはね、小さい頃はとても内気で、不器用な子だったのよ。でも、絵を描くときだけは別だった。水彩でも、木炭でも、何でもすぐに吸い込むように上手くなったわ。十代の終わり頃からかな、あまり会わなくなって……。マックスはパリに行くって言ってたわ。わたしは結局ブリュールに残って、普通に結婚して……」
イルゼは遠くを見るような目で語った。
「……それでも、忘れられなかったの。時々、手紙をくれてね。何でもない話ばかり。でも、マックスの言葉は、いつも自由で、楽しそうだった。」
彼女は奥から古い引き出しを開け、黄ばんだ封筒を取り出した。
「これ、マックスが若い頃に送ってくれた手紙よ。」
封筒を開けると、中には一枚の便箋。ブルーグレーのインクで綴られた、奔放で温かみのある筆跡。ヴァイスはそっとそれに触れた。
紙のざらつき、インクのにじみ、若さのほとばしる言葉——
それは確かに、生きたマックス・エルンストの "気配" だった。
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
これだ。——俺は、これごと描かなければならない。
しばらく沈黙が流れた。 ヴァイスは手紙を丁寧に封筒へ戻し、両手で抱えるようにして差し出した。
「大切なものを、ありがとうございました。」
イルゼは微笑み、手紙を受け取った。
「あなたみたいな若い人が、彼のことを思い出してくれるなんてね。マックスも、きっと喜ぶわ。」
ヴァイスは深く礼をし、玄関先まで見送られた。 ドアが閉まる音が背中で静かに響いた。
外に出ると、夕方の空気はひんやりとしていて、風が頬をかすめた。 空には少しだけ夕焼けが残っていた。
アパートに戻ると、ヴァイスはアトリエを作った。
キャンバスを立て、古い画布を使い、エルンストの呼吸を再現するかのように筆を走らせた。ただ模倣するのではない。エルンストのリズムで、エルンストの感情で、エルンストが吸った空気ごと——
いくつもの構図を試し、何度も筆を止めた。 だが、不思議と迷いはなかった。 時が経つのも忘れ、気づけば朝が来ていた。
そして一枚の絵が、そこに完成していた。
それは、木々の間を縫うように広がる夢の森だった。 不自然に傾いた幹、逆さまに実った果実、浮遊する岩の上に佇む動物たち。 エルンストの「森のシリーズ」の空気を色濃くまといながら、どこにも存在しない “もうひとつの森” 。 中央には、仮面のような顔をした人物が、何かを見つめて立っていた。 背景には歪んだ月と、異様に近い地平線。
——まさに空白の5年間にあってもおかしくない、ありえたかもしれない “失われた一作” 。
それはまるで、見えない誰かの手を借りて描かれたかのようだった。そしてヴァイスは、絵の裏に古ぼけたギャラリーラベルを自作し、貼り付けた。
「1931年 ケルン個展出品作」——古びた書体で記された、存在しない展示会の記録。
さらに、額縁にも微細な傷を施した。
数日後——
ヴァイスは小さな骨董屋の前に立っていた。 ドアの前で立ち止まり、額に手をあてる。
——本当に、これでいいのか?
胸の奥がざわつく。嘘をつくわけではないが、真実でもない。 それでも、描いたのは自分だ。これは、存在しなかったはずの一枚。
覚悟を決めて、扉を押した。
「こんにちは。」
中にいた店主が顔を上げた。
「これ、古い家の屋根裏で見つかったものです。正確な来歴まではわかりませんが、気になって……」
ヴァイスはそう言って、包んできた絵をそっと差し出した。
店主は黙って手袋をはめ、慎重に絵を持ち上げた。絵を眺めたあと、裏側のラベルをじっと見つめ、何度も指でなぞる。額縁を軽く叩き、耳を澄ます。
ヴァイスは心臓の鼓動が耳に響くのを感じた。絵を見られるより、裏側のラベルを見られる時は特に。まるで、目の前で誰かにナイフを向けられているような感覚だった。
——バレるかもしれない。いや、大丈夫だ。
ヴァイスはじっと息を潜めた。
店主は額縁を軽く叩き、耳を澄ます。そしてまた、絵をしっかり見つめる。
ヴァイスの喉はカラカラに乾き、背中に冷たい汗が滲む。
目の前で、時間だけが異様にゆっくり流れていく。
すると、
「……この筆致、もしや……」 店主が呟いた。
ヴァイスは思わず指先に力が入る。額に汗がにじんでいるのに、自分では気づかなかった。
(頼む、深く詮索するな……)
しばらく沈黙が続いた後、店主が顔を上げた。
「マックス・エルンストをご存知か?」
ヴァイスは一瞬だけ間を置き、できるだけ無関心そうな顔で答えた。
「名前だけは、聞いたことがあります。詳しいことは……。屋根裏で見つけて、なんだか凄そうな絵だったので。」
「そうかい。」
店主はヴァイスをじっと見つめたが、それ以上追及しなかった。
「えっ?!それってその、マックス・エルンストの絵なんですか?」
店主はヴァイスの質問には答えず、黙々と絵を鑑定する。何分経ったかわからないが、ヴァイスにはとても長く感じた。
そして、店主がゆっくり口を開いた。
「……いいだろう。引き取る。」
「えっ、てことは、マックス・エルンストの絵画なんですか?」
「その可能性はあると言っておこうか、いまは。」
そして、提示された金額は——1000マルクだった。 ヴァイスが心の中で期待していた3000マルクには、遠く及ばなかった。 (当時の西ドイツでは、ドイツマルク(Deutsche Mark)が通貨だった。1000マルクは当時の日本円で約10万円弱ほどに相当し、現在のユーロ換算では約500ユーロほどにあたる。) それでもヴァイスは静かに頷き、契約書にサインした。
店を出たヴァイスは、曇った空を仰いだ。
——これで終わりじゃない。この絵は、やがて誰かの手に渡り、いつか本物として認識されるかもしれない──
確かに、何かが始まった。ヴァイスは小さく笑い、再び歩き出した。
初めて描いた贋作、初めて売れた一枚。 世間から見れば、たったひとつの小さな出来事にすぎないかもしれない。 だがヴァイスにとっては——自らの存在を証明するための、とてつもなく大きな一歩だった。
そして何より、美術界にとって、この一歩は確実に波紋を広げていくことになる。 まだ誰も、それに気づいてはいなかった。