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第3章 空白の発見

モンペリエの春は、あたたかさと埃が、空気をぼんやりと滲ませていた。

週末だけ開かれる蚤の市(のみのいち)

布地屋、古道具屋、がらくたを積んだ露天商——、並んだ店先を無言で眺めながら、ヴァイスは雑多な人混みを縫うように歩いていた。


目当ては、まだ誰にも拾われていない、余白だった。


古びたキャンバス、歪んだ木枠、ちぎれかけた額縁。その中で、ヴァイスは一枚、くすんだ布のキャンバスを手に取った。

光にかざすと、細やかな織り目がかすかに生きている。


すぐ隣の地面では、古ぼけた帽子をかぶった老人が、ぼろ布の上にガラクタを並べて、腰を下ろしていた。埃まみれの置物、錆びたスプーン、誰にも見向きもされない古本の束。


老人はヴァイスをちらりと見上げ、しゃがれた声で言った。


「……それ、買うのかい?」


話し相手がほしかっただけのような、かすれた問いかけだった。


ヴァイスは答えず、キャンバスを逆光にかざして織り目を確かめた。


「へっ、目利きかもしれねぇな」


老人はそうつぶやき、また静かに自分のガラクタに目を落とした。


ヴァイスは古いキャンバスと破れかけた額縁を買い取り、蚤の市をあとにした。


街の中心に向かう坂道を下っていくと、小さな書店が目に留まった。

古びた木の扉で、色褪せた看板。ショーウィンドウには埃の積もった古書が並んでいた。


ヴァイスは扉を押し、乾いたベルの音を鳴らした。


中は狭く、天井まで積み上げられた本が迷路のように続いていた。

彼は棚の間を歩き、気の向くままに本を手に取った。


文学、歴史、詩集——

いくつか立ち読みしてみたが、どれも心には引っかからなかった。

ただ、ページをめくる指先だけが、紙の重みを感じ続けていた。


そんなときだった。


美術書コーナーの片隅に、埃をかぶった分厚い一冊があった。

ヴァイスは自然と、その背表紙に手を伸ばす。

金文字で書かれた、かすれた名前。


──マックス・エルンスト。


何かに導かれるように、ヴァイスはその場で本を開いた。

ページをめくるたび、広がる奇妙な光景。

深い森。(うごめく)群衆。

ざらついた絵肌、夢とも現ともつかない静かな恐ろしさ。


ヴァイスは、無意識に息を殺していた。


──好きだ。


ただ、それだけだった。理由も、意味もない。

この世界に、自分の感覚がしっくりと馴染んでいくのを、ただ受け止めた。本を閉じたヴァイスは、その画集を静かにレジへ運んだ。


その夜、窓から乾いた夜風が入り込む安宿の部屋で、ヴァイスは手に入れたキャンバスを広げ、机にスケッチブックを開いた。

そして、ひたすら描いた。


森、闇、蠢く何か。

エルンストの世界を、ただ夢中でなぞり続けた。

描き写すたび、線は揺れ、形はにじんだ。だが、それでもかまわなかった。誰かに見せるためでもない。売るためでもない。


ただ、自分の中にある “何か” と、あの世界が呼応こおうしているのを感じたかった。ヴァイスは静かに、静かに、夜を塗りつぶしていった。






ヴァイスは日夜、エルンストの絵を描いた。最初はただの模写。

乾いた筆致をなぞり、線を追い、色を重ねる。これが、描けば描くほど、

ヴァイスの中に、自分なりのリズムが芽生え始めていた。


そして、線はどこか少しだけ柔らかくなり、色は、エルンストよりもわずかに温度を持った。この自分なりの工夫が、エルンスト本人を超えたような感じがあって、たまらなかった。


──もっと上手くなりたい。


意識していたわけではない。

ただ、気がつけば、無意識にそう思っていた。


宿にこもる日々、

ヴァイスはエルンストだけでなく、クレー、ミロ、カンディンスキー、シャガール、バルテュス……

有名な画家も、マイナーな画家も、片っ端から模写した。


昼は描き、夜は古びた画集や展覧会記録をむさぼり読んだ。

眠ることすら惜しかったのだ。学校で教わった知識なんかより、今、自分で掴み取っている感覚のほうが、よほど世界を生きていた。


誰に言われたわけでもない。

ただ、内側から湧き上がる欲求に、ヴァイスは従っていた。


もっと、もっと、

この世界に近づきたかった。






気づけば、モンペリエに来てから一年以上が過ぎていた。


街は季節をいくつも巡り、ヴァイスのスケッチブックは、安宿の片隅に山となって積み重なっていた。



ある夜。


ヴァイスは、机の端に置かれた埃まみれの画集を、

ふとした拍子に手に取った。


灯りの下で、ページをめくる。


──1927年。


深い森。

押し寄せる木々。

夜の闇に沈む緑。


──1928年。


さらに森。

荒れた筆致。

押し寄せる幻想。


──1929年。


また森。

80点以上もの作品が、わずか数年で描かれていた。


だが──次のページ。


──1934年。


そこには、群衆の絵があった。


ぎゅうぎゅうに押し込められた顔。

溶けた目。叫ぶ口。


ヴァイスは眉をひそめた。


「……おかしいな」


呟きながら、ページを何度も行き来する。


──1929年から1934年まで。

森の終わりと群衆の始まりのあいだ。

たった一枚の作品も記されていなかった。


まるで、誰かが森を切り倒し、

無理やり群衆を押し込めたように。


そんな唐突な変化が、あるだろうか?


誰にも知られず、

誰にも描かれず、

ひっそりと失われた、空白の時代。


ヴァイスは、画集をぱたんと閉じると、

ふっと口元を緩めた。


そして、

ニヤリと笑った。


「これは、いけるかもしれないな」


スケッチブックを開き、筆を握る。


森と群衆のあいだ。

誰も見たことのない、世界の端を。


必要なのは、たった一つ。

名を捨てる勇気ではない。


──存在しなかったものを、存在させる勇気だった。

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