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第2章 旅の始まり

ヴァイスがドイツを離れたのは、十八の春だった。 学校を辞めた翌月、彼は迷う間もなく列車に乗っていた。理由はシンプル。


「このまま何者かになってしまうより、いったん “誰でもないなにか” を見つけたかった」


よくある抽象的な目的を抱く若者。とはいえ、それがヴァイスの、——最初の動機だった。



まず降り立った先は、パリ。

でも、“芸術の都” なんて響きは、着いた途端に薄っぺらく感じた。 駅前には酔っぱらいと観光客が入り混じり、埃とガソリン、焼けたパンの匂いが混ざって、どこか(よど)んだ空気が街を覆っていた。


時代はヒッピー。道行く女たちはカラフルなスカートに大ぶりのピアス、男たちはサングラスを額に乗せ、長髪とヒゲ面を風に揺らしているのが多く見られる。


路上には、絵描きの老人がパイプを咥え、キャンバスを並べていた。 その隣では、若者がギターを奏でる。奏でると言っても演奏は下手。でも歌声にはブルースを唄ってるかのような情熱があった。


ヴァイスはまず、パリにあるモンマルトルという街に向かった。そこは小高い丘があり、街周辺には芸術家も多く、歓楽街として活気がある街だ。

坂を登ると、くたびれた靴底が石畳に引っかかりそうになる。


ヴァイスはカフェに入ってみたかったが、金銭的にそんな余裕もなく雰囲気だけを味わった。モンマルトルのカフェから流れる音楽はジャン・フェラの《La montagne》が流れ、その向かいにある壁には落書きが。「MAKE LOVE, NOT WAR」「L'ART OU LA GUERRE(芸術か、戦争か)」と。

混沌の時代に多くの個性が生まれたのが垣間見れるパリに、ヴァイスは全てを吸収してた。




街の雰囲気を楽しんだヴァイスは一旦、モンマルトルの外れにある安宿に泊まった。 天井は低く、壁は薄く、隣のベッドでは誰かが靴を履いたまま寝息を立てていた。 だが、ヴァイスにとっては初めて “自分の時間” が手に入った場所だった。


そしてヴァイスは描いた。

紙がなければマッチ箱の裏に、酒瓶のラベルに。 スケッチブックには「誰の絵でもない線」を試し続けた。けれど、どこかで誰かの筆跡(ひっせき)に似てしまう。 そうなるたびにページを破り、丸め、窓から投げた。



ある夜、路地裏でスケッチをしていると、ひとりの男が立ち止まった。 油絵の匂いをまとい、スーツの下に絵の具の染みたセーターを着ていた。


「……それ、ピカソの模写か?」 かすれた声だった。


「あっ? これは俺のだよ」


「ハハッ、でも似てるじゃねーか」 男は煙草を取り出し、火をつける。ラベンダーのような、甘ったるい匂いがした。


「今の時代、“似てる” ってだけじゃ誰も見向きもしないぞ。……名前がいるんだよ、坊や」


「名前、か」


「そう。名前ってのはな、ラベルだ。人はラベルの貼ってない缶詰なんて開けないんだよ」


男は煙をくゆらせ、夜の坂道へ消えていった。 煙の匂いはしばらくそこに残り、ヴァイスはそのまま描きかけの紙を破った。




翌日、坂の上で路上パフォーマンスをしていたヴァイスと同い年くらいの若者に誘われた。 「今夜は外で焚き火しながら楽しいことするから君も来なよ」 行き先も聞かず、ヴァイスはただ頷いた。


その夜、ヴァイスが行ったのはセーヌ川沿い。石の広場に小さな火が灯され、10人ほどの若者が輪になっていた。 石の上に置かれたラジカセでローリング・ストーンズの《Gimme Shelter》を流しながら、みんなでビール、ワインを飲みながら、好きなことや、夢を語った。時折、アコギでボブディランの《Lay, Lady, Lay》を弾いて女の子を落とそうとする奴も。中には、日常のように葉っぱを巻いてる奴もいた。


すると、一人が火をつけて吸った後、ヴァイスに渡した。


「ほれ」


「えっ?」


「吸ったことないのか?」


ヴァイスは少し躊躇するが、試しに吸ってみた。

煙は甘く、そして少し重たくて、鼻の奥をゆっくり刺すような感覚だった。 頭がふわりと浮いたような気がして、時間がいつもより1.5倍遅く流れる気がした。


「名前ってさ、呪いみたいなもんだよな」


焚き火の向こうで誰かが言った。


「そうだな」


「でも、ないと自分が消える気もする」


「消えたっていいんじゃねぇの? 残るのは、線だ」


その言葉が、ヴァイスに響いた。


そしてヴァイスはスケッチブックを広げた。 焚き火と煙と音楽と、誰かの言葉の断片。 “誰でもない自分” が描いた線が、そこに現れていった。






季節が変わるたびに、ヴァイスは街を変えていった。

ブリュッセル、アムステルダム、バルセロナ、ミュンヘン、フィレンツェ。 絵を描き、売れなければ捨てて、また描いた。 どこにいても、名前のない線は、すぐに誰かの影をまとった。


そんなある日、モロッコ北西部の港町、エッサウィラでのことだった。焚き火の夜、ラグの上に広げたスケッチを見ていた一人の若者がぽつりと言った。


「お前のこれ……まるで、カンペンドンクみたいだな」


その名を聞いた瞬間、ヴァイスの背中がぴくりと反応した。カンペンドンクは、誰もが知っているような画家ではない。


(なぜその名前を知っている?)


記憶の奥に沈んでいた名前が、突然目の前に引き寄せられたような感覚だった。 それがどこで見たものだったかは思い出せなかったが、父の古い画集のどこかに、その名が載っていたような気がした。


「違う。俺が描いたんだ」


そう言った自分の声に、確信はなかった。若者は何も言わず、ただ肩をすくめて別の仲間と話しはじめた。


その夜、ヴァイスは眠れなかった。焚き火の匂いと潮の風に包まれながら、スケッチブックを広げていた。 線が手元から伸びていく。どこにも属さず、誰にも似せず、ただ自分のリズムで。だが、描き終えたあとでふとよぎる。


──これは、自分の線か? ──名前を消せば、自由になれるのか。名前を捨てても、自分は在れるのか。


翌朝、ヴァイスは荷物をまとめ、旅を続けた。






数週間後、彼は南フランスのモンペリエにたどり着いた。特に理由があったわけじゃない。ただ、風がぬるく、石畳が乾いていた。それだけだった。


細い路地の奥、白壁にアイビーが絡まる古い建物に、小さなギャラリーの看板を見つけた。「EXPOSITION(展覧会)」とだけ書かれた鉄の看板。 何に惹かれたのかはわからない。ただ、気がつくと扉を押していた。


中は静かだった。白い壁。古い床。誰もいない空間に、ぽつんと飾られた数枚の絵。 そのうちの一枚の前で、ヴァイスは足を止めた。


それは誰の名前も書かれていなかった。でも、どこかで見たことがあるような風景。 まるで、誰かが彼の記憶の奥から盗んで描いたような、妙な既視感があった。


「これ、誰の作品ですか?」


ギャラリーの隅にいた年配の女性が答えた。


「名前はないの。でも、好きな人は好きみたいよ」


「つまり、無名?の画家、ですか?」


「えぇ、だから好きな人がいればこの絵は価値があるってことね」


ヴァイスはしばらくその絵を見ていた。

その夜、彼は安宿に戻り、スケッチブックを開いた。


描いたのは、街でも風景でもない。ただ、白い紙に向かって、静かに一本の線を引いた。 誰にも見せるつもりはなかった。けれどその線は、どこかで初めて “自分だけの線” に近づいた気がしていた。


空白は、まだ埋まっていなかった。 だがその夜、ヴァイスは初めて、 「その空白とともに、生きていく」 という選択肢があることに気づいた。


そして、“誰かになる” ためではなく、“誰にもならないまま描く” 旅を続けようと思った。


“空白” が、思いもよらない出会いを呼び寄せるとも知らずに。

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