最終章 すべてを越えて
ケルン市民ホール──午後。
街の喧騒から少し離れたこの場所で、ひっそりとひとつの展示会が開かれていた。
会場の壁には、いずれも同じ人物の署名が入った作品が整然と並ぶ。
その名は、アーダルベルト・ヴァイス。
かつて贋作師と呼ばれた男が、いま“本名”で世に出した、正真正銘の新作たちだった。
高窓から射し込む柔らかな光が白壁を滑り、絵の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
その前に立つのは、ペンツベルク美術館の館長・カタリーナと、ローゼン。
ふたりは言葉少なに、静かに絵を見上げていた。
「……まさか贋作師が本名で壁を飾るなんて、美術史の冗談みたいだわ。」
声には賞賛と戸惑いが入り混じっている。ローゼンはゆっくり頷き、顎に手を当てた。
「偽物でも、人の心を打つことはあるのかな。」
「長いあいだ否定してきたはずなのに……こうして目の前に並ぶと、否応なく考えさせられるわね。」
「初めてこの線を見たとき、嘘で描かれたはずなのに、そこに真実が宿っているように思えたんだ。」
ローゼンの声は低く落ち着いている。カタリーナは横目で彼を見やり、肩をすくめた。
「皮肉よね。私たちが追い詰めた画家の作品に、こんなにも慰められるなんて。本物と偽物の境界は、結局、私たち自身の中にあるのかもしれない。」
カタリーナは絵へ視線を戻し、そっと息を吐く。
「それでも私は、歴史に嘘を刻む手助けはできないわ。……けれど芸術という名の下なら、人は矛盾さえ抱き締められる。難しいものね。」
「……あいつに聞いてみたいこととか、あるかい?」
カタリーナは鼻で笑った。
「まさか。」
そう言ったものの、そのあとで少しだけ視線を落とし、表情を引き締める。
「……彼にとって、“本物”ってなんなのかしらね。」
ふたりはそれ以上言葉を交わさず、ただ並んでヴァイスの作品を見つめ続けた。
*
ローゼンはギャラリーを後にし、石畳の道を一人歩いていた。
手には展示会でもらった薄いパンフレット。いつもなら鞄の底に沈むような紙切れなのに、今日はずっと握っている。
まったく……
嫌っていたはずなのに、またこうして線を追いかけてる。
足を止め、雲間に残る夕焼けを仰ぐ。
嘘から始まった絵だ。
なのに、人を動かしてしまう。
ややこしい話だ。
近くのベンチに腰を下ろし、膝の上でパンフレットを眺める。
そこに印刷されたヴァイスの名前が、何度見ても妙に引っかかる。
罪は罪。
それは変わらない。
でも、あの線まで裁けるかと言われたら――たぶん、無理だ。
しばらく黙ったあと、パンフレットを二つ折りにして内ポケットへしまい、立ち上がる。
――物語はまだ終わっちゃいない、か。
「……よし、仕事に戻るか。」
石畳に靴音を響かせながら、ローゼンは静かに歩き出した。
夕暮れの街が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
*
パリ――午後。
曇り空の下、ヴァイスとクラリスはセーヌ川沿いの裏通りをゆっくり歩いていた。
観光地からは少し離れた、誰も足を止めないような道。
ただ、風がちょうどよくて、歩くにはそれだけで十分だった。
ふと、ヴァイスの記憶に、ぼんやりと遠い日の風景がよぎった。
若い頃、クラリスと出会うずっと前――
あのセーヌの河原で、名前も知らない連中と焚き火を囲み、酒を飲みながら夜が明けるまで語っていた日があった。
翌朝にはもう誰もいなくて、残ったのは寝袋と煙の匂いだけ。
特別な意味もなく、ただそういう季節だった。
(……そういえば、あれもこの辺りだったか)
思い出に浸りたくて来たわけじゃない。ただ、歩いていたらふと浮かんだ。それだけだった。
細い路地を抜けた先、レンガの壁に描かれた一枚の壁画の前で、ヴァイスが不意に足を止めた。
色と線がどこか懐かしく、けれど自分では描かない何かがそこにあった。
その絵の前に、小さな女の子が立っていた。
ひとりで、まっすぐに、絵を見上げている。
少女はしばらくして、気配を感じたように振り返った。
「この絵、すき。」
目をまっすぐに向けて、そう言った。
ヴァイスは一瞬驚き、それからゆっくりと微笑んだ。
「……そうか。描いた人はきっと喜んでいると思うよ。」
少女はまた前を向き、絵に目を戻した。
その小さな背中を見つめながら、ヴァイスは自分の中で何かがそっとほどけていくのを感じた。
複雑な過去も、背負ってきたものも、ひとつずつ、静かに地面に置いていくような感覚だった。
それからふたりは歩き出し、特に観光らしいこともせず、ふつうの街角の風景を眺めながらホテルへ戻った。
パリ・シャルル・ド・ゴール空港、帰路の機内。
窓の外には夜の帳が下り、点在する街の灯りが地上に滲んでいた。
ヴァイスとクラリスは並んで座っていたが、言葉は少なかった。
無言の時間が、ふたりのあいだにただ流れている。
けれどそれは沈黙ではなく、満ち足りた静けさだった。
クラリスが、ふと窓の外を見たまま口を開く。
「……どうだった?」
ヴァイスは少し考え込むように前を見つめ、それからつぶやく。
「……思ったより、子どもが多かったな。」
クラリスは笑った。
「それ、絵の話? 街の話?」
「どっちも。」
ヴァイスは少しだけ口元をゆるめた。
「なんだか、ああいう目って苦手だったはずなんだけど……今日は平気だった。」
クラリスは横顔を見つめながら言う。
「変わったんだと思う。」
「そうなのかもな。」
ヴァイスは天井を仰ぐように目を閉じたあと、ぼそりと続けた。
「……壁の絵を見てたあの女の子。あの子が“すき”って言ったとき、なんだか……少しだけ救われた気がした。」
クラリスはヴァイスの顔を見たが、何も言わず、ただ静かにうなずいた。
それで十分だった。
ヴァイスは窓の外に視線を戻し、まばらな光が滲む街を見つめる。
機体は、ケルン・ボン空港へゆるやかに角度を変えながら着陸へ向かった。
滑走路に機体が触れた瞬間、小さな揺れとともに、ふたりの日常がまた始まったような感覚があった。
入国審査と手荷物を済ませ、空港を出ると、タクシー乗り場には冷たい夜風が吹き抜けていた。
運転手に住所を告げ、後部座席に身を預ける。
窓の外を流れる街の灯りはしだいにまばらになり、車は静かな住宅街へと入っていった。
低いエンジン音だけが、夜道に優しく響く。
やがてタクシーは、ふたりの住む家の前で滑るように停まった。
クラリスが小さく「ありがとう」と告げ、料金を払い終えると、車は音もなく夜道へ戻っていった。
玄関の鍵を開けると、室内に残っていたわずかな冷気が迎えた。
クラリスはコートを脱ぎながら、
「軽く食べましょう。ワインも開けるわ」
とだけ言い、キッチンへ向かった。
テーブルに並んだのは、パン、チーズ、オリーブ、そして温かなミネストローネ。ワインボトルの栓が軽い音を立て、まろやかな香りが広がる。
グラスに赤が注がれ、二人の間で小さく鳴った。
「乾杯。」
重ねたグラスの澄んだ音が、静かな家にほのかに響いた。
食事を終えると、ヴァイスはワイングラスを手に立ち上がり、リビングの壁へ視線を向けた。
そこには、刑務所で描いた一枚の絵が掛かっている。
粗いキャンバスに鉛筆の線が重ねられ、限られた顔料で滲むような色が置かれた作品だ。
クラリスが椅子の背にもたれ、グラスを揺らしながらつぶやく。
「この絵、好きよ。」
ヴァイスは絵を見つめたまま、低く答えた。
「これは……贋作じゃない。ただの“俺”の絵だ。」
「ずっと、そうだったと思う。」
クラリスの声は落ち着いていた。
火を灯す前のロウソクの芯のように、静かに熱を持つ声。
ヴァイスはしばらく沈黙し、やがてゆっくり言葉を探した。
「……“贋作”って言葉、ずっと胸に引っかかってた。
誰かの名前を借りて描いたのは事実だ。
でも──あの線は、俺の手からしか生まれなかった。」
クラリスはグラスの底の赤を見つめ、ゆっくり首を振る。
「だからこそ、人を動かせたんじゃないかしら。借りた名前の向こうに、あなた自身がいたから。」
窓の外では、夜風がそっと木の葉を揺らしている。
ヴァイスはグラスをテーブルに置き、静かに椅子を離れた。
「……もう少し描いてくる。」
クラリスは目だけで頷き、その背中を見送った。
照明の落ちた廊下の先、アトリエのドアが閉まる音がわずかに響く。
*
──2018年。
ふたりは今、スイスの山あいの町、エンゲルベルクで暮らしている。
深い森と谷に囲まれたこの町には、長い歴史を持つ修道院と、凛とした静けさが残っている。
どこまでも透き通る空気のなかで、季節ごとに変わる山の表情が、日々の生活に緩やかなリズムを与えていた。
数年前にドイツを離れ、名を変えることも隠れることもなかったが、あらためて暮らしを整え、描く時間を大切にするための決断だった。
“過去から逃げる”のではなく、“未来に居場所をつくる”ための移住だった。
ヴァイスのアトリエは、もとは地元のダンスホールだった建物を改装したものだ。
高い天井と無骨な木の梁がそのまま残されていて、床を歩くとかすかに音が返ってくる。
壁には、彼が描き続けてきた新作が静かに並んでいた。
どれも、どこか懐かしく、けれど確かに“いま”を生きている。
かつてのような模倣の影はなく、色も線も、すべてが彼のものだった。
クラリスは、絵を一枚ずつ丁寧に見てまわっていた。
ときどき立ち止まり、手帳に何かを走り書きする。
「……どうするつもりなの?」
ふいに問いかける声に、ヴァイスは筆を持つ手を止めた。
「少し、まとめてみようかと思ってる。」
短く、けれど迷いのない口調だった。
クラリスは何も言わずに頷いた。遠くで鐘の音が鳴り、アトリエの白壁にやわらかく響いた。
その音は、ひとつの季節の終わりを告げるようであり、また次の季節の始まりを示す合図のようでもあった。
*
スイス・チューリヒの市街地からほど近い、歴史ある劇場。
その小ホールに設けられたトークイベントの会場は、開演前からやわらかな熱気に包まれていた。
壇上には、二脚の椅子と一つのテーブル。
装飾は控えめだが、観客の視線が自然と集まるよう、緻密に設計された空間だった。
この日のゲストは──アーダルベルト・ヴァイスと、妻のクラリス・ヴァイス。
事件から八年。
すでに刑期を終えたヴァイスは、今や現代アートの“異端の巨匠”として、静かな再評価を受けつつあった。
司会者の紹介を受けて、ふたりがゆっくりと登壇する。
拍手は熱狂ではなく、敬意を含んだ音として場内を満たした。
あの日の記憶をなぞるような歩み。
けれど、その姿は、確かに遠くへ来たことを物語っていた。
トークは穏やかに始まった。
かつての作品のこと、事件後の心境、クラリスの存在──
ヴァイスは時折クラリスを見やりながら、淡々と、けれど正直に語っていった。
「……罪は罪です。嘘をついていた。
ただ、筆は──いつも真実を求めていました。
もし、どこかの誰かが、“描かれなかったはずの一枚”を“見た”と感じてくれたなら……私は、それで十分だったと思っています。」
クラリスがそっと手を重ねる。
その仕草に、客席の奥から、かすかな鼻をすする音が聞こえた。
終盤、司会者が「どなたかご質問があれば」と促すと、しばしの沈黙ののち、後方の席からひとりの女性が手を挙げた。
年配の女性だった。
落ち着いたスーツの襟元には、古びたブローチが留められている。
どこかで見たことのあるような、深緑の石のかたち。
ヴァイスはその小さな光を一瞥し、静かに視線を戻した。
ゆっくりと立ち上がり、マイクを受け取った彼女は、一呼吸おいてからヴァイスをまっすぐに見つめ、問いかけた。
「あなたにとって、“本物”とは、どういう意味を持っていますか?」
場内が静まり返る。
ヴァイスは目を細めると、しばらく考え──やがて前を見据えて、はっきりと答えた。
「芸術とは、作者との対話です。
筆をとる人間と、それを受け取る人間。
そのあいだに生まれる“感情”こそが、作品を“本物”にする。
私は、そう思っています。」
その瞬間、クラリスがふっと微笑んだ。
舞台の照明がわずかに温度を上げたようにも見えた。
女性は静かに一礼し、席についた。
トークイベントは拍手に包まれ、静かに幕を下ろす。
舞台の照明が落ちていくなか、ふたりの姿だけが、しばらくその場に残っていた。
──その夜、チューリヒの空には、風に乗って雲が流れていた。
長い贋作の旅路の果てに、一本の線がヴァイスの中にあった“空白”を、静かに埋めはじめていた。
それは誰にも見えない線。
名前も評価も必要ない、ただ描きたくて描かれた線。
偽りから始まった人生が、ようやく本当の輪郭を持ちはじめる。
筆をとることは、過去をなぞることではない。
それは、まだ見ぬ未来へと伸びる線を信じることだ。
描くことでしか、自分を見つけられない人がいる。
そして描いた先に、誰かが“それは本物だ”と頷いてくれる日が、きっと来る。
静けさのなかの希望。
筆先は止まらない。
──すべてを越えて、ようやく“自分”に還る線だった。