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最終章 すべてを越えて

ケルン市民ホール──午後。

街の喧騒から少し離れたこの場所で、ひっそりとひとつの展示会が開かれていた。

会場の壁には、いずれも同じ人物の署名が入った作品が整然と並ぶ。

その名は、アーダルベルト・ヴァイス。

かつて贋作師と呼ばれた男が、いま“本名”で世に出した、正真正銘の新作たちだった。


高窓から射し込む柔らかな光が白壁を滑り、絵の輪郭を淡く浮かび上がらせる。

その前に立つのは、ペンツベルク美術館の館長・カタリーナと、ローゼン。

ふたりは言葉少なに、静かに絵を見上げていた。


「……まさか贋作師が本名で壁を飾るなんて、美術史の冗談みたいだわ。」


声には賞賛と戸惑いが入り混じっている。ローゼンはゆっくり頷き、顎に手を当てた。


「偽物でも、人の心を打つことはあるのかな。」


「長いあいだ否定してきたはずなのに……こうして目の前に並ぶと、否応なく考えさせられるわね。」


「初めてこの線を見たとき、嘘で描かれたはずなのに、そこに真実が宿っているように思えたんだ。」


ローゼンの声は低く落ち着いている。カタリーナは横目で彼を見やり、肩をすくめた。


「皮肉よね。私たちが追い詰めた画家の作品に、こんなにも慰められるなんて。本物と偽物の境界は、結局、私たち自身の中にあるのかもしれない。」


カタリーナは絵へ視線を戻し、そっと息を吐く。


「それでも私は、歴史に嘘を刻む手助けはできないわ。……けれど芸術という名の下なら、人は矛盾さえ抱き締められる。難しいものね。」


「……あいつに聞いてみたいこととか、あるかい?」


カタリーナは鼻で笑った。


「まさか。」


そう言ったものの、そのあとで少しだけ視線を落とし、表情を引き締める。


「……彼にとって、“本物”ってなんなのかしらね。」


ふたりはそれ以上言葉を交わさず、ただ並んでヴァイスの作品を見つめ続けた。



ローゼンはギャラリーを後にし、石畳の道を一人歩いていた。

手には展示会でもらった薄いパンフレット。いつもなら鞄の底に沈むような紙切れなのに、今日はずっと握っている。


まったく……

嫌っていたはずなのに、またこうして線を追いかけてる。


足を止め、雲間に残る夕焼けを仰ぐ。

嘘から始まった絵だ。

なのに、人を動かしてしまう。

ややこしい話だ。


近くのベンチに腰を下ろし、膝の上でパンフレットを眺める。

そこに印刷されたヴァイスの名前が、何度見ても妙に引っかかる。


罪は罪。

それは変わらない。

でも、あの線まで裁けるかと言われたら――たぶん、無理だ。


しばらく黙ったあと、パンフレットを二つ折りにして内ポケットへしまい、立ち上がる。


――物語はまだ終わっちゃいない、か。


「……よし、仕事に戻るか。」


石畳に靴音を響かせながら、ローゼンは静かに歩き出した。

夕暮れの街が、ゆっくりと後ろへ流れていく。



パリ――午後。

曇り空の下、ヴァイスとクラリスはセーヌ川沿いの裏通りをゆっくり歩いていた。

観光地からは少し離れた、誰も足を止めないような道。

ただ、風がちょうどよくて、歩くにはそれだけで十分だった。


ふと、ヴァイスの記憶に、ぼんやりと遠い日の風景がよぎった。

若い頃、クラリスと出会うずっと前――

あのセーヌの河原で、名前も知らない連中と焚き火を囲み、酒を飲みながら夜が明けるまで語っていた日があった。

翌朝にはもう誰もいなくて、残ったのは寝袋と煙の匂いだけ。

特別な意味もなく、ただそういう季節だった。


(……そういえば、あれもこの辺りだったか)

思い出に浸りたくて来たわけじゃない。ただ、歩いていたらふと浮かんだ。それだけだった。


細い路地を抜けた先、レンガの壁に描かれた一枚の壁画の前で、ヴァイスが不意に足を止めた。

色と線がどこか懐かしく、けれど自分では描かない何かがそこにあった。


その絵の前に、小さな女の子が立っていた。

ひとりで、まっすぐに、絵を見上げている。


少女はしばらくして、気配を感じたように振り返った。


「この絵、すき。」


目をまっすぐに向けて、そう言った。


ヴァイスは一瞬驚き、それからゆっくりと微笑んだ。

「……そうか。描いた人はきっと喜んでいると思うよ。」


少女はまた前を向き、絵に目を戻した。

その小さな背中を見つめながら、ヴァイスは自分の中で何かがそっとほどけていくのを感じた。

複雑な過去も、背負ってきたものも、ひとつずつ、静かに地面に置いていくような感覚だった。


それからふたりは歩き出し、特に観光らしいこともせず、ふつうの街角の風景を眺めながらホテルへ戻った。



パリ・シャルル・ド・ゴール空港、帰路の機内。

窓の外には夜の帳が下り、点在する街の灯りが地上に滲んでいた。

ヴァイスとクラリスは並んで座っていたが、言葉は少なかった。

無言の時間が、ふたりのあいだにただ流れている。

けれどそれは沈黙ではなく、満ち足りた静けさだった。


クラリスが、ふと窓の外を見たまま口を開く。


「……どうだった?」


ヴァイスは少し考え込むように前を見つめ、それからつぶやく。


「……思ったより、子どもが多かったな。」


クラリスは笑った。


「それ、絵の話? 街の話?」


「どっちも。」


ヴァイスは少しだけ口元をゆるめた。


「なんだか、ああいう目って苦手だったはずなんだけど……今日は平気だった。」


クラリスは横顔を見つめながら言う。


「変わったんだと思う。」


「そうなのかもな。」


ヴァイスは天井を仰ぐように目を閉じたあと、ぼそりと続けた。


「……壁の絵を見てたあの女の子。あの子が“すき”って言ったとき、なんだか……少しだけ救われた気がした。」


クラリスはヴァイスの顔を見たが、何も言わず、ただ静かにうなずいた。

それで十分だった。


ヴァイスは窓の外に視線を戻し、まばらな光が滲む街を見つめる。

機体は、ケルン・ボン空港へゆるやかに角度を変えながら着陸へ向かった。


滑走路に機体が触れた瞬間、小さな揺れとともに、ふたりの日常がまた始まったような感覚があった。


入国審査と手荷物を済ませ、空港を出ると、タクシー乗り場には冷たい夜風が吹き抜けていた。

運転手に住所を告げ、後部座席に身を預ける。


窓の外を流れる街の灯りはしだいにまばらになり、車は静かな住宅街へと入っていった。

低いエンジン音だけが、夜道に優しく響く。


やがてタクシーは、ふたりの住む家の前で滑るように停まった。

クラリスが小さく「ありがとう」と告げ、料金を払い終えると、車は音もなく夜道へ戻っていった。


玄関の鍵を開けると、室内に残っていたわずかな冷気が迎えた。

クラリスはコートを脱ぎながら、

「軽く食べましょう。ワインも開けるわ」

とだけ言い、キッチンへ向かった。


テーブルに並んだのは、パン、チーズ、オリーブ、そして温かなミネストローネ。ワインボトルの栓が軽い音を立て、まろやかな香りが広がる。

グラスに赤が注がれ、二人の間で小さく鳴った。


「乾杯。」


重ねたグラスの澄んだ音が、静かな家にほのかに響いた。


食事を終えると、ヴァイスはワイングラスを手に立ち上がり、リビングの壁へ視線を向けた。

そこには、刑務所で描いた一枚の絵が掛かっている。

粗いキャンバスに鉛筆の線が重ねられ、限られた顔料で滲むような色が置かれた作品だ。


クラリスが椅子の背にもたれ、グラスを揺らしながらつぶやく。


「この絵、好きよ。」


ヴァイスは絵を見つめたまま、低く答えた。


「これは……贋作じゃない。ただの“俺”の絵だ。」


「ずっと、そうだったと思う。」


クラリスの声は落ち着いていた。

火を灯す前のロウソクの芯のように、静かに熱を持つ声。

ヴァイスはしばらく沈黙し、やがてゆっくり言葉を探した。


「……“贋作”って言葉、ずっと胸に引っかかってた。

 誰かの名前を借りて描いたのは事実だ。

 でも──あの線は、俺の手からしか生まれなかった。」


クラリスはグラスの底の赤を見つめ、ゆっくり首を振る。


「だからこそ、人を動かせたんじゃないかしら。借りた名前の向こうに、あなた自身がいたから。」


窓の外では、夜風がそっと木の葉を揺らしている。


ヴァイスはグラスをテーブルに置き、静かに椅子を離れた。


「……もう少し描いてくる。」


クラリスは目だけで頷き、その背中を見送った。

照明の落ちた廊下の先、アトリエのドアが閉まる音がわずかに響く。



──2018年。

ふたりは今、スイスの山あいの町、エンゲルベルクで暮らしている。

深い森と谷に囲まれたこの町には、長い歴史を持つ修道院と、凛とした静けさが残っている。

どこまでも透き通る空気のなかで、季節ごとに変わる山の表情が、日々の生活に緩やかなリズムを与えていた。


数年前にドイツを離れ、名を変えることも隠れることもなかったが、あらためて暮らしを整え、描く時間を大切にするための決断だった。

“過去から逃げる”のではなく、“未来に居場所をつくる”ための移住だった。


ヴァイスのアトリエは、もとは地元のダンスホールだった建物を改装したものだ。

高い天井と無骨な木の梁がそのまま残されていて、床を歩くとかすかに音が返ってくる。

壁には、彼が描き続けてきた新作が静かに並んでいた。


どれも、どこか懐かしく、けれど確かに“いま”を生きている。

かつてのような模倣の影はなく、色も線も、すべてが彼のものだった。


クラリスは、絵を一枚ずつ丁寧に見てまわっていた。

ときどき立ち止まり、手帳に何かを走り書きする。


「……どうするつもりなの?」


ふいに問いかける声に、ヴァイスは筆を持つ手を止めた。


「少し、まとめてみようかと思ってる。」


短く、けれど迷いのない口調だった。


クラリスは何も言わずに頷いた。遠くで鐘の音が鳴り、アトリエの白壁にやわらかく響いた。

その音は、ひとつの季節の終わりを告げるようであり、また次の季節の始まりを示す合図のようでもあった。



スイス・チューリヒの市街地からほど近い、歴史ある劇場。

その小ホールに設けられたトークイベントの会場は、開演前からやわらかな熱気に包まれていた。

壇上には、二脚の椅子と一つのテーブル。

装飾は控えめだが、観客の視線が自然と集まるよう、緻密に設計された空間だった。


この日のゲストは──アーダルベルト・ヴァイスと、妻のクラリス・ヴァイス。

事件から八年。

すでに刑期を終えたヴァイスは、今や現代アートの“異端の巨匠”として、静かな再評価を受けつつあった。


司会者の紹介を受けて、ふたりがゆっくりと登壇する。

拍手は熱狂ではなく、敬意を含んだ音として場内を満たした。


あの日の記憶をなぞるような歩み。

けれど、その姿は、確かに遠くへ来たことを物語っていた。


トークは穏やかに始まった。

かつての作品のこと、事件後の心境、クラリスの存在──

ヴァイスは時折クラリスを見やりながら、淡々と、けれど正直に語っていった。


「……罪は罪です。嘘をついていた。

 ただ、筆は──いつも真実を求めていました。

 もし、どこかの誰かが、“描かれなかったはずの一枚”を“見た”と感じてくれたなら……私は、それで十分だったと思っています。」


クラリスがそっと手を重ねる。

その仕草に、客席の奥から、かすかな鼻をすする音が聞こえた。


終盤、司会者が「どなたかご質問があれば」と促すと、しばしの沈黙ののち、後方の席からひとりの女性が手を挙げた。


年配の女性だった。

落ち着いたスーツの襟元には、古びたブローチが留められている。

どこかで見たことのあるような、深緑の石のかたち。

ヴァイスはその小さな光を一瞥し、静かに視線を戻した。

ゆっくりと立ち上がり、マイクを受け取った彼女は、一呼吸おいてからヴァイスをまっすぐに見つめ、問いかけた。


「あなたにとって、“本物”とは、どういう意味を持っていますか?」


場内が静まり返る。

ヴァイスは目を細めると、しばらく考え──やがて前を見据えて、はっきりと答えた。


「芸術とは、作者との対話です。

 筆をとる人間と、それを受け取る人間。

 そのあいだに生まれる“感情”こそが、作品を“本物”にする。

 私は、そう思っています。」


その瞬間、クラリスがふっと微笑んだ。

舞台の照明がわずかに温度を上げたようにも見えた。


女性は静かに一礼し、席についた。


トークイベントは拍手に包まれ、静かに幕を下ろす。

舞台の照明が落ちていくなか、ふたりの姿だけが、しばらくその場に残っていた。


──その夜、チューリヒの空には、風に乗って雲が流れていた。


長い贋作の旅路の果てに、一本の線がヴァイスの中にあった“空白”を、静かに埋めはじめていた。

それは誰にも見えない線。

名前も評価も必要ない、ただ描きたくて描かれた線。

偽りから始まった人生が、ようやく本当の輪郭を持ちはじめる。

筆をとることは、過去をなぞることではない。

それは、まだ見ぬ未来へと伸びる線を信じることだ。

描くことでしか、自分を見つけられない人がいる。

そして描いた先に、誰かが“それは本物だ”と頷いてくれる日が、きっと来る。

静けさのなかの希望。

筆先は止まらない。

──すべてを越えて、ようやく“自分”に還る線だった。

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