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第21章 沈黙のあとで

朝の光が、まだ少し見慣れない天井を照らしていた。


クラリスとヴァイスが、久々に二人きりの生活へ戻って数日が経っていたが、家は静かだった。


時間の流れに余白があり、音を探すようにして生活が進む。カーテンの隙間から差し込むその光は、やわらかく静かで、まるで音まで吸い込んでしまうようだった。


食卓の上には、白いカップがふたつ。クラリスは小さな鍋でコーヒーを温め直しながら、そのカップにそっと注いだ。湯気がふわりと立ちのぼる。


「……コーヒー、少し薄めたわ。慣れるまで、時間がかかるでしょう?」


ヴァイスは椅子に腰を下ろし、微笑みながらその一杯を受け取った。


「ありがとう。」


カップの縁に、ゆっくりと口をつける。沈黙はあった。けれど、それは決して居心地の悪いものではなかった。


家具は少なく、壁もまだどこかよそよそしい。それでも、テーブルの上に置かれた一輪の花や、折り畳まれた新聞紙、ふたつの影が寄り添う朝の光景が、確かに "ここにある暮らし" を形づくり始めていた。


言葉よりも、カップの湯気や視線のやりとりが、二人の距離を少しずつ埋めていく。戻ってきたというよりも、新しく始めたと言ったほうが、しっくりくる気がした。


ヴァイスはカップを軽く傾けると、その視線をふと部屋の奥へと向けた。古い木製の棚が目に入る。そこには、かつて使っていたキャンバスや道具箱が置かれたままになっていた。


しばらくそれを見つめたあと、ヴァイスは静かに席を立った。クラリスはその背中を目で追いながら、黙ってカップを口に運ぶ。


彼は、棚から薄いキャンバスを一枚取り出し、片手に木製のパレットと数本の筆を持つと、窓際の机へと向かった。そこは食事や読書にも使われる多目的なスペースだったが、今は簡素な布が敷かれ、即席の作業台として整えられていた。


窓からはやわらかな光が差し込み、道具の影を淡く映し出している。ヴァイスは立ったままキャンバスに向かい、筆を走らせ始めた。


その動きは慎重で、しかし迷いはなかった。まるで“自分にとって大切なもの”がどこにあるのか、すでに分かっているかのように。


クラリスは席を立ち、扉の外からそっと様子を覗く。ヴァイスは、何かを確かめるように筆を動かしていた。線と線のあいだに、呼吸のような間があった。そしてふと、彼がぽつりと呟いた。


「……やっぱり、これがないと、生きてる感じがしない」


クラリスは目を伏せて微笑み、音を立てないように扉を閉じた。窓の外、風がゆっくりと雲を運んでいた。その雲のかたちが、どこか描きかけの風景に見えた。



それから数日が経った朝。クラリスとヴァイスは、街へ足を運んでいた。


歩道には人の流れがあり、すれ違う人々の視線が、自分たちに向けられていないとわかっていても、どこか足元が落ち着かない。二人とも、自然と肩をすぼめるように歩いていた。その空気にすんなりと溶け込むには、まだ少しだけ時間が必要だった。


ふとヴァイスが、通りの角にある小さな雑貨屋の前で立ち止まった。クラリスも立ち止まり、そっと彼を見上げる。その瞬間、どちらも自分が少し息を詰めていたことに気づいた。


「……何もかもが、少しだけ違って見えるよな」ヴァイスが遠くを見るように言い、視線は通りの先の歩道を曖昧に見つめている。クラリスは俯きながら答える。「ええ。色も、声も、気配も…前と同じようで、どこか“ずれてる”。」ほんの少しの間があり、彼女は続けた。「私、戻ってきたはずなのに──慣れるには、もっと時間が必要みたい。」


ヴァイスはふっと肩をすくめて、「うん」と短く応えた。そして、少しだけ周囲を見渡す。「どこか、落ち着けそうな場所、あるかな?」


クラリスが顔を上げ、通りの向こうにあるテラス席のあるカフェを指さす。「……あの店、あの小さなカフェ。雰囲気も静かそうだし、ちょっと休もう?」


ヴァイスの口元に静かな笑みが戻った。「そうだね。ちょうどいい。」


ふたりは歩き出し、手をほどよく距離を保ちながら、カフェへと向かった。木枠の大きな窓からは朝の光が漏れ、店内には控えめな植物の緑が見えた。風に揺れるラベンダーの一輪が、入口でそっと迎えてくれていた。


やがて、若いウェイトレスがメニューを手に現れた。


「ご注文はお決まりですか?」


クラリスは微笑んで「コーヒーを」と答え、ヴァイスは「ラテを」と静かに応じた。ウェイトレスは軽く会釈して店内へ戻っていく。


ほどなくして、それぞれのカップが運ばれてきた。「お待たせしました。……おかえりなさいませ、ヴァイス夫妻」


その一言に、ふたりは驚いたように顔を上げた。ウェイトレスは微笑んだまま、何も言わずにその場を去っていった。


通りを行き交う人々の姿を眺めながら、ふたりはそっとカップに口をつけた。苦味と温かさが、ようやく今の体温に馴染んでいく。


クラリスが、静かに呟いた。


「こうしてると、昔に戻ったみたい」


ヴァイスは窓の外を見ながら、少し考えるようにして答える。「でも、前よりも悪くない」「……どうして?」


「うまく言えないけどさ。昔は、“どう見られるか”ばかり気にしてた気がする。でも今は……“見せたいもの”が少しずつ見えてきたというか」


クラリスは驚いたようにヴァイスを見たあと、ゆっくりと微笑んだ。「それって、ずっと描きたかった“あなた自身”じゃない?」


ヴァイスは、視線をラベンダーの花に落とした。


「……たぶん、そうかもしれない」


静かに時が流れる。その沈黙のなかに、かつてとは違う温度があった。何かが戻ったわけじゃない。けれど、“いま”のほうが、ヴァイスとクラリスの心に馴染んでいるようだった。



その晩、クラリスがパソコンを開くと、新着メールの通知がひとつ届いていた。送信者はエヴァ・クラインという人物だった。件名は『お話を伺いたくて』。本文には、丁寧で静かな文体でこう綴られていた。


──ヴァイス氏へ。私は以前より、あなたの描く線と、その奥に潜む“視点”に関心を抱いてきました。あなたが“他人になりきる”ようにして描いた贋作の数々は、単なる模倣とは異なるものです。


なぜ人は、他人の記憶を想像し、他人の手を借りて自分を語ろうとするのか。その問いは、私の専門である精神の領域にも通じるものがあります。


もしよろしければ、一度お話を伺えれば幸いです。


エヴァ・クライン精神分析クリニック〈ベルリン、ヴァンゼー アムクライン……〉


クラリスはメールを読み終えると、無言でパソコンの画面をヴァイスに向けた。ヴァイスは何も言わずにモニターを見つめ、件名の「お話を伺いたくて」という言葉に、まず眉をひそめた。


「……精神科医、か」


本文を静かにスクロールして読み進める。その視線は慎重で、少し警戒を含んでいた。


「なんだか……見透かされてるみたいだな。まるでこっちの心の奥に手を突っ込んでくるような文章だ」


クラリスは苦笑した。「それだけ、あなたの絵が“見せてる”ってことかもしれない」


「見せたつもりはないよ。……それに、ほんとにこれ、悪意ないんだろうな?」


「ここまで丁寧に書いてるのに?」


「最近の詐欺は、礼儀正しいって話もあるぞ」


クラリスは吹き出しかけたが、真顔で返す。「住所もあるし、いいんじゃない? 私の方で返信するわよ」


「……冗談じゃない」ヴァイスはようやく口元を緩め、モニターに再び目をやった。


「住所は……」そう言いながら、本文の下まで目を走らせる。「……あるな。ヴァンゼー。湖のそばか。地図で見れば、まあ行けない距離じゃないな。」


数秒の沈黙。その間、ヴァイスは視線を画面とクラリスのあいだで揺らす。そして、ようやく口を開いた。


「まぁ……話すことで、整理できることもあるのかもな」「うん。あなたの線が、誰かに届いたってことだし」


ヴァイスは短く息を吐き、肩の力を少しだけ抜いた。「じゃあ……返信しておいてくれ」


クラリスが小さく頷くと、彼はふと、いたずらっぽく口角を上げた。


「ただし──ギャラの交渉だけは、しっかり頼むぞ」


クラリスは思わず笑いながら頷いた。「了解。あなたの線一本ぶん、きっちり請求するわ」


ヴァイスはコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。



エヴァ・クラインのメールから数日後。ヴァンゼーの森にほど近い一軒の建物へヴァイスは一人訪れていた。ベルリン郊外とは思えないほど静かな住宅地の一角。石畳の小道を進み、低い鉄柵の扉を押して中へ入ると、すぐに緑の匂いと古木の影が迎えてくれた。


エヴァ・クラインのクリニックは、古い邸宅を改装したもののようだった。玄関を入ると、柔らかな照明と木の香りが広がっていた。廊下の先、左手の部屋へと通される。


ヴァイスが通された部屋は、温かみのあるグレーを基調にした空間だった。大きな窓のそばには本棚があり、数冊の画集や哲学書が背表紙を揃えていた。窓際には木製の小さな時計と観葉植物。壁には絵も写真も飾られていないが、不思議と完成された余白を感じさせた。


急かすことのない、落ち着いた口調で


「お越しいただいて、ありがとうございます」


と、エヴァ・クラインはヴァイスに向かってゆっくりと微笑んだ。ヴァイスは椅子に腰を下ろすと、周囲を一度見渡してから応じた。


「……ずいぶん静かな場所ですね。ここに来るまでに、2回くらい足を止めました。音が何も聞こえなくて」


「ええ。このあたり、昔からそうなんです。でも、音がしない場所だからこそ、心の中の“音”がよく響くんですよ」


ヴァイスはふっと鼻で笑った。「詩的な言い方をするんですね。精神科医っていうのは、もっと冷たく分析するものかと」


「詩も、精神も、同じくらい言葉を選ぶものだと思っています」


エヴァの視線は柔らかいが、どこかで彼の微細な動きを観察しているようでもあった。


「いまは、どんな気持ちですか?」


ヴァイスは、少し間を置いてから答えた。


「……落ち着いています。でも、“何か”が残っているような感じがしていて」


「よければ、少しずつ……話してみませんか」


彼女が水の入ったグラスを手渡しながら、ヴァイスも深くうなずいた。


ヴァイスはグラスの水に口をつけたあと、ゆっくりと椅子にもたれた。外から聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけ。その静けさの中で、エヴァが口を開く。


「私はあなたの作品を、以前から見ていました。とくに……“描かれていないもの”に対するアプローチに、強く惹かれてきたんです」


ヴァイスは目線をやや下に落としながら聞いていた。「……描かれていないもの、ですか」


「はい。たとえば、“森”の連作と“群衆”の連作のあいだにある、沈黙のような空白。あなたは、画家があえて描かなかったその間隙にこそ、創作の余地があると考えたように感じられました」


ヴァイスは少し笑った。「……今思うと、描かなかったんじゃなくて、“描けなかった”のかもしれません。でも……どうしても手を伸ばしたくなった。 ──そこに、何かが残されてるような気がして」


「それは“模倣”ではなく、“創作”です」


エヴァはすぐに言った。


「……でも、贋作と呼ばれるなら、反論はできない。わたしにとっては“その人が描いていたかもしれない、もう一枚”だった。それだけです」


エヴァは、手にしていたメモ帳から視線を上げた。「あなたが描いたものは、“観た者”にとっては“本物”に等しい衝撃を与えた。それは──芸術の力そのものだと思います」


ヴァイスは少しだけ息をつき、窓の外に目を向けた。


「……ありがたい言葉です。でも、そんな風に言ってくれる人はあまりいなかった」


彼は、ふと記憶をたどるように、遠くを見た。


「思えば、わたしにとって“絵”が人生の中心になったのは、もっとずっと前のことでした。父が教会の壁画を修復していて、自然と筆を握るようになったんです。たしか、五歳の頃でした」


「お父様も、芸術に関わるお仕事だったんですね」


「ええ。でも、父の線はとても静かでした。乱れがなく、綺麗すぎて……なんだか暗く感じたんだ。だから自分が描くときは自然と明るい感じになっていたかもしれない。」


「それが、あなたの“線”の原点なんですね」


「たぶん。学校ではまったく馴染めなかったけど、白い紙の前にいるときだけは、自分でいられた」


エヴァは軽く頷いた。「それが、今の“あなたらしさ”につながっている。そう思います」


彼女は少し身を乗り出すと、声のトーンを落とした。


「──ところで、あなたの絵を観た人の中に、“音が聞こえるようだ”と言った方がいます。ご自身に、そういう経験はありませんか?」


ヴァイスは少し驚いたように目を開いた。そして、ふと目線を落とし、静かに語り始めた。


「……あります。10歳のとき、美術館で。 父に連れられて初めて訪れたときに、ある冬の風景画を見て──」


「……ヘンドリック・アーフェルカンプの《スケートをする人々のいる冬景色》。スケートの刃が氷を削る音や、馬橇の鈴の音、子供たちの笑い声…… 全部、本当に聞こえたんです。絵の中に吸い込まれるような感覚で」


ヴァイスは少し微笑む。


「その時思ったんです。『ああ、だから人は美術館に来るのか』と」


エヴァは静かに目を伏せた。


「アーフェルカンプは、生まれつき聴覚を持たなかったと言われています」


「……そうだったんですか」


「だからこそ、あなたがあの絵から“音”を感じ取ったことには、特別な意味があると思うんです」


ヴァイスはしばらく言葉を失っていた。その後、ゆっくりと視線を床に落としながら、ぽつりと呟いた。


「……あの“音”は、いまでも、たまに聞こえる気がします」


エヴァは微笑みながら言った。


「──その音、私も聞いてみたかった」


静けさの中に、何かがそっと置かれたような、優しい余韻が広がった。しばらくふたりは、言葉を交わさずに座っていた。



クラリスは、家の一角にある簡素な部屋を少しだけ模様替えした。かつて使われていた古い額縁を丁寧に磨き直し、未発表の小さな作品たちを壁に掛けていく。展示スペースというより、“彼の呼吸が染みついた時間”を、ひとつずつ並べているようだった。


額縁の高さ、壁との間隔、照明の角度──そのすべてに、慎重で静かな配慮が込められていた。


ヴァイスは、ふらりとその前に立ち、飾られた絵をひとつずつ見て回った。そして、手を伸ばして額縁の角度を微調整したり、ライトの光をやや下げたりする。


「……ここ、明るすぎるかな」


「いいのよ。あなたの線は、光に映える」クラリスの言葉に、ヴァイスは小さく頷いた。


窓辺には小さな一輪挿し。机の上には筆洗いと、乾きかけの布。音もなく、絵が呼吸しているようだった。



数日後、クラリスは小さなギャラリーで展示の準備を進めていたエリック・マイヤーを訪ねた。彼は控えめに歓迎しつつ、テーブルの上に並んだ資料をクラリスに見せた。


「最近、国外のアートメディアからも問い合わせが来てる。 この展示が、本格的な再出発になるかもしれない」


クラリスは静かに頷いた。


「……ひとつ、訊いてもいいかな」エリックが声のトーンを落とす。「君は──彼を“芸術家”として、この先も世に出していくつもりかい?」


クラリスは、ほんの一瞬だけ考えるそぶりを見せて、口元をやわらかくほころばせた。


「私は、彼の“芸術”を見せたいんじゃない。彼の“生き方”を見せたいの」


エリックはその言葉を聞くと、しばらく沈黙したあと、小さく頷いた。「……それなら、何も言うことはないよ」


その夜。クラリスはアトリエの机の前に座り、パソコンを開いた。灯りの落ちた部屋には、キーボードを打つ音だけが静かに響いていた。


《描くことを選んだ彼のそばで、私は今も静かに立っています。 芸術に罪はなく、その輪郭はいつだって誰かの心を照らす。》


Twitterの投稿を打ち終えると、しばらく画面を見つめ、やがてクラリスはエンターキーをそっと押した。


その光が消えたあと、彼女はアトリエの方へと目を向けた。カーテン越しに見えるヴァイスの影が、また新たな作品へと筆を進めていた。


──静けさの中で、ふたりの新しい季節が、ゆっくりと始まろうとしていた。

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