第20章 再会とその後ろで
デュッセルドルフ警察庁。分厚い雲が垂れ込めた午前、ローゼンは無言で上司の執務室に入った。重厚なドアの音が閉じると、室内の空気がわずかに緊張する。
上司は椅子にもたれ、机の上の書類に視線を落としたまま、ふっと呟く。「……また動いたな」
声は抑えた調子だったが、どこか皮肉が滲んでいた。ローゼンは眉ひとつ動かさずに答える。
「……動いたのは市民です。私は……ただ、それを見ていただけです」
上司は苦笑し、ゆっくりと顔を上げる。「見ていただけ、か……」
そして、机の端から一枚の書類をすっと差し出した。その紙には、既にいくつかの印が押されていた。
「釈放手続き。お前に任せる」
ローゼンは書類を受け取り、一瞥しただけで静かに頷いた。その目に、一瞬だけ迷いにも似た陰りが差したが、すぐに消えた。
ラインラント州・ブリュール刑務所。午後の作業棟には、ビニールが擦れる音と、遠くの機械音が断続的に響いていた。
ヴァイスは透明な封筒に印刷物を一枚ずつ入れていた。自治体向けのアンケート用紙。数をこなすだけの単純作業だったが、無心でいられる時間でもあった。
そのとき、足音が近づく。刑務官が立ち止まり、少し間を置いて声を発した。
「……どういうわけか、世の中には、おかしな連中がいるもんだな。誰がお前みたいな詐欺師に、金なんか払うんだか……」
その声音には、呆れ、皮肉、そしてわずかな苛立ちが混じっていた。
ヴァイスは封筒の手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……どういうことだ?」
「釈放だよ。クラウドファンディングってやつで、保釈金が全額払われた。」
「……クラウドファンディング」
ヴァイスはその言葉を繰り返し、ふと目を伏せた。思い出したのは、数ヶ月前に読んだ雑誌の記事だった。アート支援のプロジェクト、記事には、誰も知らない作家に支援が集まった話が載っていた。ただの奇跡のように思えた――あのときは。
「詳細はまた知らせる。作業は続けてろ」
そう言い残し、刑務官はくるりと背を向けて去っていった。
ヴァイスはしばらく作業台を見つめた。次に封入すべき紙が目の前にあるのに、手は動かない。
代わりに、そっと窓の方へと視線を向けた。金網越しに見える曇り空。その向こうに、本当に自分が立つ場所があるのか確かめるように、目を細めた。
*
お昼前。空気はまだ冷たく、廊下に足音が静かに響いていた。ヴァイスは更衣室の隅で、自分の私物を一つずつ紙袋に収めていた。支給された衣類、数冊の雑誌、そして描きかけの絵葉書が一枚。
廊下の奥から、軽い足音が近づいてくる。現れたのは、若い看守だった。普段は言葉少なな彼が、やや緊張した面持ちで立ち止まる。
「……アーダルベルト」
ヴァイスが振り返ると、看守は言葉を探すように一拍おき、
声をかけたあと、少しだけ言葉を探すような沈黙があった。
「……外に出るのは怖くないか?」
唐突な質問に、ヴァイスはゆっくりと顔を上げた。看守は目を逸らさず、まっすぐに続けた。
「俺だったら……この中のほうが楽かもしれないって、思っちゃう気がして」
ヴァイスは小さく笑ったような表情を浮かべたが、すぐに目線を落とす。
「……正直なところ、自分でも出ていいのかどうか、わからない」
看守はほんの一瞬だけうなずいてから、ふっと笑った。
「……たくさん絵を描いてくれ。そしたら展示会に行くよ」
それ以上は何も言わず、廊下の奥へと歩いていった。ヴァイスは軽くうなずき、紙袋を片手に立ち上がった。
*
正午ちょうど。ブリュール刑務所の正門前には、予想を上回る人だかりができていた。カメラ、スマートフォン、手作りのプラカード。そして中央には、一枚の横断幕が風に揺れている。
――「Willkommen zurück, Weiss(おかえり、ヴァイス)」――
門の内側では、鉄扉がゆっくりと開く音が響いた。その瞬間、群衆のざわめきが一段階上がり、報道陣のフラッシュが一斉に光を放った。
「ヴァイスさん!いまのお気持ちは?」「罪について、どのように受け止めていますか?」「贋作は芸術だと思いますか?」
浴びせられる言葉。目の前で次々に差し出されるマイク。それらすべてを前に、ヴァイスはただゆっくりと門を出た。
戸惑い。困惑。そして、ほんのわずかな安堵。そのすべてが、無言の顔に滲んでいた。
足を進める途中、群衆の隙間から声が飛ぶ。
「ヴァイスさん!」
振り返ると、数人の若者たちがいた。手にクラウドファンディングのロゴが入った紙袋と、にじんだマーカーで書かれたボード。その言葉は読めなかったが、色だけがやけに鮮やかだった。
ヴァイスは立ち止まり、静かに頭を下げた。一礼。それだけ。だが、それは何よりも雄弁だった。
報道陣の奥には、警視庁のエンブレムが貼られた社用車が停まっている。助手席の男が素早く降り、群衆を押し分けるようにしてヴァイスの前に立った。
「こちらへどうぞ」
ヴァイスはうなずき、無言で車に乗り込む。
後部座席にはローゼンがいた。彼は前を見たまま、一度も振り返らなかった。
「……ずいぶん、静かな騒ぎだな」
そう言ったヴァイスに、ローゼンは鼻を鳴らした。
「君が思ってる以上に、世界は見てたってことだ」
「クラリスの家……報道には知られてないのか?」
「ああ、当然だ。俺の部下が防いでる。マスコミより早く君を送る、それが条件だった」
「ありがとう……助かる」
ヴァイスはフロントガラスの向こうに広がる街並みに目をやった。さっきまで塀の中から遠く眺めていた風景が、今は窓のすぐ外にある。ゆっくりと、深く息を吐いた。
車が郊外の住宅街に入ると、喧騒はゆっくりと後ろへ遠ざかっていった。午後の光は柔らかく、通りには人の姿もまばらだった。
舗装された細い道を進むと、車はやがて、一軒の家の近くでゆっくりと止まった。
ブレーキ音はなかった。後部座席にいたヴァイスは、フロントガラス越しにその姿を見つけた。
家の前にはクラリスが、立っていた。一歩も動かず、ただこちらを見つめていた。まっすぐに、こちらを見ている。淡いベージュのコートの裾が、穏やかな風にふわりと揺れていた。
ヴァイスはゆっくりと車から降りた。懐かしい澄んだ空気が頬に触れた。聞こえるのは、遠くの風の音と、葉擦れの気配だけ。「……よし、戻るぞ」
ローゼンが一言、静かに声をかけた。
部下はハンドルを切ってすぐに車をUターンさせた。後部座席から見える彼の横顔には、どこか満足げな静けさがあった。
クラリスとヴァイス、お互いの足元の砂利が、ひとつふたつ、音を立て、距離が縮まるごとに、胸の奥に固まっていたものが、静かにほどけていくようだった。
そして、何も言わず、強く、静かに抱きしめ合った。その場に残されたのは、二人と、風の音だけだった。
*
静まり返った夜のベルリン郊外。小さな診療所の灯りだけが、外からもはっきりと見えていた。
院長室の棚には分厚い専門書とともに、美術に関する書籍や画集が所狭しと並んでいる。マックス・エルンスト、カンペンドンク、クレー、そしてカンディンスキー。抽象と幻想のあいだを揺れるようなその装丁は、どれも使い込まれており、何度もページをめくられた跡があった。
机の上には開かれたファイルと数枚の新聞記事。一枚には、釈放されたヴァイスの姿が写っていた。他にも、彼の過去の展示を追ったレビュー記事、関係者の名前が下線で引かれたリスト、そして「家庭環境・精神履歴(要再審査)」というラベル付きの封筒が並んでいた。
デスクに座っていたのは、40代後半と思しき女性だった。肩にかかるブロンドの髪は丁寧に整えられ、グレーのカーディガンを静かに羽織っている。眼鏡はかけていないが、その目には冷静で研ぎ澄まされた視線が宿っていた。表情には感情の起伏はなく、ただ読み、選び、並べる。その動作だけが、彼女の存在を際立たせていた。
彼女はページを一枚めくり、既に用意されたメモの上に、新たな紙片をそっと重ねた。それから、少しだけ椅子にもたれ、無言のままただ資料を読むことに没頭するその姿には、“診る”というより“観る”という言葉がよく似合った。
部屋の照明はすでに落とされており、スタンドライトだけが淡く机を照らしている。光の輪郭のなかで、指先が一枚ずつ、静かに資料をめくっていく。
室内には紙のこすれる音すら止み、時計の秒針だけが、音もなく時間を刻んでいた。
その目は、沈黙の中で、誰かを追っていた。




