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第19章 知らせ

ヴァイスは、いつものように静かな午後を迎えていた。


刑務所の中庭から差し込む淡い光が、読んでいた雑誌のページに斜めに落ちている。美術専門誌。数か月遅れで回ってきたものだった。


その中に──彼の名があった。


『クラウドファンディング開始──画家ヴァイス釈放支援の動き』


目を細めながら、その見出しを読み返す。


「クラウド……ファンディング?」


小さく声に出して読んでみる。初めて聞く言葉だった。


向かいのベッドで横になっていた若い受刑者が、ちらりと顔を向けた。金髪を短く刈り込んだ、痩せ型で端正な顔立ちの青年。腕にはいくつかの簡素なタトゥーが入っている。


「それ、いま流行ってますよ。ネットで資金集めるやつっす」


ヴァイスは眉をひそめた。


「ネットで……お金を集める?」


若者は肩をすくめて軽く笑った。


「そうっす。なんか、釈放を願ってる人が動いてるらしいっすよ。画家の人、すごいっすね」


ヴァイスはその言葉に、すぐに返すことができなかった。ただ、ページの端に載った自身の絵をじっと見つめ、雑誌を静かに閉じた。



ローゼンは、警察庁の控え室で事件資料に目を通していた。


捜査も裁判もとうに終わった今、彼にとってそれは“仕事”というより“癖”に近かった。ファイルの間に挟まっていた一枚の雑誌の切り抜きが、ふと視界に入る──ヴァイス支援のクラウドファンディング。


彼の名前が、まだ社会のどこかに響いている。


そんなとき、机の端に置いたスマートフォンが振動した。編集者からの連絡だった。


「この贋作事件を特集したい。できれば、当時の捜査責任者の証言を記事にしたいのですが」


最初は断るつもりだった。だが、添えられていた一文が、ローゼンの手を止めさせた。


──“真贋よりも、『信じる力』について掘り下げたいのです。”



その数時間後、ローゼンは編集者と並んでカフェのテーブルに座っていた。


「それで……どうして、彼の絵はあれほどまでに“本物”に見えたのか。あなたの目には、どう映っていたんでしょう?」


若い編集者がノートを手に、真剣なまなざしで問いかける。


ローゼンはカップの縁に口をつけ、深くひと息ついてから答えた。


「……線が、生きていた。いや、“生きすぎていた”かもしれない。まるで、その瞬間にしか描けないような……」


編集者は少し黙って頷いた。


「なるほど。贋作なのに、“オリジナルのような息吹”があった……と?」


ローゼンは軽く首を振り、少し考えるように目を伏せた。


「これまでにも多くの贋作事件を見てきた。ある者はマティスを模倣し、またある者はピカソの影を追った。なかには絵の具や筆致は巧妙でも、ただの“模倣”に過ぎないものばかりだった。だが、ヴァイスの絵は違った。彼は“模倣”ではなく、“継承”しようとしていたんだ」


編集者の手が止まり、じっとローゼンを見つめる。


「正確には、贋作という概念が、彼の絵にはあまり似合わなかった。筆跡、絵具、ラベル、全てが完璧だった。でも、もっとも彼らしか作れなかったのは“物語”だったんじゃないかと、今は思ってる」



その夜、クラリスはキッチンで夕食の支度をしていた。


スープが鍋の中で静かに音を立て、香りが部屋の空気を温めていく。手元には包丁。まな板の上に並んだ野菜。


彼女の表情は落ち着いていたが、ほんの少しだけ、遠くを見つめているようだった。


ふと、奥のテーブルにあるノートパソコンの通知音が鳴る。


キッチンペーパーで手を拭きながら、クラリスは歩み寄り、画面を覗き込んだ。


──『目標額の20%達成。明日の午前中にメディア記事が出ます。ご確認ください』


彼女は静かに頷き、画面をそっと閉じた。


──もう、動き始めている。


心の中で、誰にも聞こえないように呟いた。火を弱め、鍋の蓋をほんの少しだけずらす。その動作に、どこか丁寧な祈りのような所作があった。



数日後、クラリスは一通のメールを受け取る。


ギャラリー責任者のエリック・マイヤーからだった。


「『真贋の狭間に立った画家』。それが次の展示会のテーマだ。貴方の協力を願いたい。」


メールを読み終えたクラリスは、すぐには返事をしなかった。だがその日から、他の紙文書と一緒に、少しずつ実務的な近況を確認し始めていた。


自分たちを信じた人々が、あの展覧会の結末に何を見たのか──その問いは、心の奥でまだ息づいていた。



マリナたちは、ある古い茶屋を借りていた。


大学の仲間たちと、次なるウェブドキュメンタリーの制作を進めている。


テーマは「来歴や財産を超えて、経験を形にした画家」。


ノートパソコンを開いたマリナの目は真剣で、どこか温かい光を湛えていた。


メンバーのひとりが、静かに語る。


「この絵を見て、生きようと思った人がいたの。私も、そう」


マリナは頷くと、画面に向かって一本のドキュメンタリー案を書き始めた。


指先が動くたびに、小さな希望の火が、確かに灯されていく。



刑務所の実務プログラム。


静かな作業室で、ヴァイスは与えられたわずかな時間に、自由に絵を描いていた。


机の上には白紙のスケッチ用紙。


その裏面に、彼は静かな風景画を一枚描いた。


それは、どこかで見たような、しかし確かに自分だけの景色だった。


少しの迷いののち、彼は初めてそこに名前を記す。


――Adalbert――


それは、他人の名でも、模倣した作家の名でもない。


ようやく描き始めた、自分自身の絵だった。


誰に見せるでもなく、それをそっと机の引き出しにしまった。



早朝。


クラリスがいつものようにパソコンを開き、メールをチェックしていると、ひときわ目を引く件名があった。


──「保釈金受理と釈放手続きのお知らせ」──


指が止まる。心拍が一瞬、大きく波打つ。


ゆっくりとメールを開く。


『ご本人アーダルベルト・ヴァイス氏の保釈申請が正式に受理されました。保釈金はクラウドファンディングを通じて全額支払われました』


息を詰めるように、クラリスは立ち尽くした。


パソコンの画面だけが、静かに、確かに光を放っていた。

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