第1章 誰かに 為(な) る線
——あの頃、まだ「線」の意味を知らなかった。
時は1965年。戦後のドイツが少しずつ活気を取り戻しつつあった頃だった。大都市では自動車やネオンが行き交い、近代化の波が押し寄せていたが、物語の舞台である、ドイツ西部のヘクスターのような小さな町には、まだ昔ながらの街並みと静けさが色濃く残っていた。
街には古い石畳と、木組みの家々が肩を寄せ合って並んでいた。テレビと冷蔵庫がようやく一般家庭に普及しはじめ、人々は未来を語りながらも、どこかで過去の影を引きずっていた。
ある日曜の朝。
教会の鐘が、ヘクスターの町の空気を鈍く揺らしていた。
少年アーダルベルト・ヴァイス(当時、14歳) は、父の背中を見つめていた。
父は教会の天井を見上げ、長い刷毛を持って壁画の補修作業を続けていた。色あせた天使の翼に、淡く金色を差していく。ひと筆ひと筆に時間が溶けるようで、静寂があたりを包んでいた。
ヴァイス少年は片手にパレットを持ち、父の指示で絵具を練る。色を合わせ、黙って差し出す。会話は少ない。
だが、こうした作業を日常のように繰り返すうちに、筆の運びや色の調合、構図の感覚といった “基礎” が、いつの間にか身体に染み込んでいた。
厳しくも丁寧な父のやり方をそばで見続けることが、アーダルベルト・ヴァイスにとっての最初の “美術教育” だった。
「違う、もう少し赤を入れてみなさい」
それが、今朝最初に聞いた父の声だった。
父は美術修復家であり、かつては壁画職人としても名を馳せた人だった。戦後、あちこちの教会から仕事が舞い込んできたが、彼は多くを語らなかった。戦争中、ロシアとフランスで捕虜になったことがあると、母がぽつりと漏らしたことがあった。
そのせいか、ヴァイスから見る父の線はいつも “静か” だった。
慎重で、乱れず、まるで過去の傷をなぞるかのような線のように。
ヴァイスは当時、その線に、どこか窮屈さを感じていた。正確だが、命がないように思えたのだ。
やがて作業が終わると、父は静かに刷毛を洗い、教会の窓辺で一服を始めた。ヴァイスは壁画の前に立ち、描かれた天使の目と視線を合わせる。
「見てるのは、お前じゃない」
父が背後から言った。ヴァイスは振り返らず、小さな声で尋ねた。
「じゃあ、誰?」
「描いた者だけが、知っている」
それが父の教えだった。すると、
「よし、ちょっとそこで待ってなさい」
父はふと立ち上がると、引き出しの奥から一枚の古びた紙を取り出して、ヴァイスに差し出した。
「これを模写してみなさい」
そのページには母子が海辺に佇む静謐せいひつな構図の絵があった。どこか影を引きずるような暗さがあって、表情にも光が乏しかった。
(なんだか、少し暗いな……)
ヴァイスはそう思いながらも、素直に頷いた。
父はしばらく絵を見つめ、
(数週間はかかるだろう)
と、心の中で呟き、そのまま先に自宅へ戻っていった。
当時のヴァイスは、その絵がピカソの1902年〜1903年頃の「青の時代」に描かれた作品『海辺の母子像』であることを知らなかった。
しかし、作品者が誰であろうが、ヴァイスにとって自由になれる時間が訪れたのである。ただ手元の線と色に夢中になりながら絵を描いていった。
週末の二日間、ヴァイスはほとんど部屋から出ずに描き続けた。線を引き、色を重ね、時折少しだけ表情を明るく、そして、柔らかくしてみたり——
自分なりの感覚を加えながら、あたかも “もう一度描きなおす” ように絵と向き合った。
完成したのは、その週末の終わりだった。
父が想像していたより、はるかに早く。
*
月曜の朝、ヴァイスは父にその絵を見せた。
しばらく黙って絵を見る父。
「ふーん……。」
と、ひとつ頷いて、それ以上何も言わずにヴァイスの父は踵を返した。
だがヴァイスの父の背中には、いつもと違う硬さがあった。
驚きと戸惑いを無理に押し殺したような、無言の動揺があった。
その日の夕方。
学校から帰ったヴァイスは、気になって屋根裏に足を運んだ。
あの絵の作者が誰なのか、なぜか無性に知りたくなったのだ。
屋根裏の古びた棚を探っていると、一冊の分厚い画集が埃をかぶって眠っていた。
ページをめくっていくうち、ある一枚の絵で手が止まった。
そこには、あのとき模写した絵が載っていた。
タイトルは『海辺の母子像』
作者の名は——パブロ・ピカソ。その名を見た瞬間、ヴァイスの胸に何かが灯った。
立方体のような構成、鋭角な輪郭、異様な人物の目。
彼は紙を取り出し、模写を始めた。
模写というより、なぞるというより、
自分の線でそれを「もう一度生み出す」ように。
翌日、学校で教師に絵を見せた。
教員室の机の上に置かれた模写。
「これは君が描いたのか?……似ていないな。 まぁでも、上手く描けてるね」アーダルベルトは何も言わず、ただ頷いた。
それが最初だった。
自分の線が “違う” と拒まれる感覚と、それでも心が静かに満たされているという感覚。
絵を描くときだけ、彼は “誰か” になれる気がした。
*
17歳の春、ヴァイスは学校を中退した。
ヴァイスが通っていたのは、ギムナジウムと呼ばれる大学進学コースだった。
教師からは「君はもっと上を目指せる」と言われ、母もその道を信じて疑わなかった。
ヴァイスは、成績も悪くなかった。
だが、ヴァイスにとって教室で学ぶことの多くは、すでに “答えのある退屈な模写” のように感じられていた。
ある朝、朝食を終えたヴァイスは洗い物をする母に向かって突然そのことを告げたのである。
「そんな訳で、学校を辞めたい。 いや、辞めるよ。」
ヴァイスの母は洗い物をやめ、蛇口を閉めてからしばらく沈黙した。
この当時、外では学生たちの抗議運動が頻発し、新聞やテレビでは “時代の転換” という言葉が踊っていた。
ヴァイス自身、それを積極的に声にするわけではなかったが、どこかで感じていた。
「これまで通り」に黙って従うことへの違和感。
社会も、学校も、答えのある世界に見えた。
ヴァイスの母は不思議に思った。
「どうして? あなた、絵の授業だって嫌いじゃなかったでしょう?」
「嫌いじゃない。でも……あそこには、描くものがない」
「大学にも行けるって、先生も言ってたじゃない。あなたは頭がいいのに、どうして……」
母は言葉に詰まり、戸惑いの色を浮かべた。
「だからって、学校をやめる理由にはならないわ。もう少し考え直して——」
「考えたよ」
「考えたって……、あなた!あなたからも何か言ってちょうだい!」
母が声を上げると、父はゆっくりと顔を上げた。
「アーダルベルト、自分で決めたんだろ?」
「うん」
「……なら、それでいいんじゃないか?」
母は驚いたように父を見た。
「本気なの? あなたまで何も言わないの?」
そして、父はしばらくしてこう言った。
「人に言われて描く線なんて、見ている者の心を動かさない。」
いままでヴァイスに手伝わせてきた父が漏らした本音だった。
この父の言葉がヴァイスにとって妙に頭から離れなかった。
「……はぁ。」
母は小さなため息をつき、そのあとは何も言わずに洗い物を再び続けた。
その夜、父は何も言わず、棚の奥から古い画集を一冊取り出して、静かにヴァイスの机の上に置いた。
ヴァイスは部屋に行くと、置かれた本があることにすぐ気づいた。そのページをめくると、そこにこう書かれていた。
《少女と白鳥 1919年 ハインリヒ・カンペンドンク 所在不明》
写真も、詳細も、何もなかった。
あるのは、ただ “空白” だけだった。
その空白を見つめながら、アーダルベルトは微かに笑った。
「描いた者が本当の作者なら——僕は、在ることになる」