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第14章 本物を超える想い

 通り雨が過ぎたばかりの午後、フリードリヒカフェには、珍しく静けさが漂っていた。店内の窓際、木製の椅子に腰かける男の姿がある。ローゼンだ。


 彼は一杯のエスプレッソを前に、静かに窓の外を見つめていた。 濡れた石畳を行き交う人々を目で追いながら、時折、時計に視線を落とす。約束の時間を3分過ぎた頃、長めのコートを羽織った女性が近づいてきた。


──クラリス・ヴァイス。


 彼女は静かに歩を進め、ローゼンの向かいに腰を下ろす。


「俺だけだ。約束した通り誰もいない。家族は無事か?」


「えぇ。家族は大丈夫よ」


「お前は何がしたい?」


「最後に、話しておきたかったの。あなたにだけは」


 クラリスの声には、疲労とどこかの安堵が混ざっていた。「なぜあれほど綿密に“嘘の来歴”を作った? なぜ、そこまでの演出を?」


ローゼンは静かに問いかけたあと、クラリスは微笑むように答えた。「確かに、数多くの嘘を重ねてきた。けれど、あの絵たちは本当に存在していたものなの。誰かの“延長”ではなく、彼──アーダルベルト自身が生み出した線。私は、それに物語を与えた」


「それでも、世の中はそれを“贋作”と呼ぶ」


 クラリスはゆっくりとうなずいた。「そうね。でも、誰かに発見されなければ、あの絵たちは誰にも知られずに朽ちていくしかなかった。私は……彼の筆跡を、ちゃんと誰かに届けたかったの」


「贋作として?」「贋作は贋作。そしてやってきたことは、間違いなく犯罪だったわ。嘘に嘘を重ねて、見る人の目を欺いてきた。でも──」


 彼女はそこで言葉を切り、窓の外に視線を向ける。「それでも、私はあの絵に“存在の意味”を与えたかったの。どんなに小さくても、誰かの心を動かすなら、それはもう“無かったこと”にはできない。私は、その責任を取るわ」


 そして少し間を置いて、彼女は続けた。「描かれたものが“誰によって”ではなく、“何を伝えたか”で価値を持つとしたら──。そう考えるようになったの。私は、贋作を通して、本物というものの定義を何度も問い直すことになった。本物って、なんなのかしら? 署名のあること? 鑑定書がついていること? それとも、心を揺さぶる力?」「“本物、偽物に意味がある”なんて、警察の机上には載らない理屈だ。けど──あんたの言葉を、そう簡単に断じることもできない」


「私はね、答えなんて出ていないと思ってる。ただ、あの絵たちは、少なくとも“なかったこと”にはできない。それが贋作でも、本物以上の何かを伝えたとしたら──それでも、否定しきれるのかしら」


 少しの沈黙が流れたあと、クラリスは視線を落とした。「私はね、あの人の絵を守りたかったの。あの人が、自分の名前で描けるようになる、その日まで」


 ローゼンは目を伏せたまま、短く息を吐いた。「彼には言わないで欲しいの。私は、これで終わりにします」「自首するのか?」「ええ。すべて、私が演出したこと。彼の筆は、ただの“絵”だった」


 ローゼンはゆっくりと目を閉じた。クラリスは静かにバッグから小さな封筒を取り出し、テーブルに置いた。「これは、あなたに。誰にも見せないで」 ローゼンは受け取ったが、すぐには開けなかった。


「それと、ひとつだけお願いがあるの」 クラリスはゆっくりと言葉を選びながら続けた。「あなたの家族……奥様と、息子さんに。どうか、もう一度向き合ってあげてほしい」「……それが、お前の“取引条件”か?」「違う。取引なんかじゃない。ただの、願いよ。あなたがまた父親として生きてくれるなら、私は……きっと、あの子も報われると思う」


 クラリスは椅子から立ち上がり、ローゼンに背を向けた。「あなたがいたから、私は安心して終わりを選べたのよ」


そして、扉の前でふと立ち止まり、振り返らずに言った。


「警察は“法”を優先するなら、私は、“本物を超える想い”を選ぶわ」


そのまま、店を出ていく。


 ローゼンは彼女の背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。やがて、内ポケットから古びた名刺入れを取り出す。中には、小さな写真。息子がまだ3歳だった頃の、笑顔のスナップ。 ローゼンはそれを静かに見つめていた。



朝のアトリエに、薄い光が差し込んでいた。ヴァイスはキッチンで淹れたコーヒーを持ったまま、静かに部屋を見回す。


「……クラリス?」 寝室は空っぽだった。バッグも、上着もなかった。 買い物だろうか、それとも散歩にでも出たのか。 それにしては、遅い——そう思いながら、彼はテレビのリモコンを手に取る。


 画面が切り替わる。『贋作事件に進展。関係者の女性が昨夜、ケルン中央警察署に出頭。十数点の絵画を…』


ヴァイスの手元が震え、カップがかすかに音を立てた。「……クラリス」


胸の奥が締め付けられるような感覚。無意識にソファから立ち上がる。


──その瞬間だった。コンコン、とドアが鳴った。静かすぎる家の中で、その音だけがやけに大きく響いた。


「……まさか」


ヴァイスは躊躇(ためら)いながらドアを開ける。コート姿の男が立っていた。ローゼンだった。


「話せるか?」


無言でうなずき、アトリエの奥へと招き入れる。



キャンバスの前で、二人は向かい合う。ヴァイスが口を開く。「……俺は、科学分析にも耐えうるように準備した。絵具、顔料、キャンバス……何もかも、時代に合わせて」


「そうらしいな」ローゼンはアトリエの壁にかけられた絵を見ながら言う。


「……でも、バレた」


沈黙。


「なんでだ?」ヴァイスが低く問いかける。ローゼンはポケットから小さな紙切れを取り出した。


「ひとつは、これだ。」


ヴァイスは不思議そうにその紙を見る。「ラベルの紙。全部の絵に貼られてたラベルが、まったく同じ“紙”だった。印刷のかすれ方も、裁断のクセも、全部な」


ヴァイスは思わず小さく笑った。「……あれは、クラリスがやった」


「そうだろうな。でも、決定打じゃなかった」ローゼンは一歩近づく。


「致命的だったのは、顔料だ。チタンホワイト。20年代以前の絵には使われていないのに、お前の“1914年の絵”の下塗り層からそれが出た」


「下塗り……?」


ローゼンは指で空をなぞるように言った。「そう。表面じゃなくて、一番下。つまり“描き始める前”に使った白。それがチタンだった」


ヴァイスの目が細くなる。「……削ぎ落としきれなかったか」


「いや、お前はよくやった。科学鑑定士だって一回の検査じゃ見抜けなかった」


ローゼンは少し間を置いてから、さらに続けた。「それから、“辰砂”」


ヴァイスは一瞬、言葉を失う。「辰砂は……古代顔料だ。20世紀初頭なら、普通は“バーミリオン”を使う。でも、あの本には“辰砂”と書いてあった」


「……ああ。俺が参考にした文献だ。まさか、誤植だったとはな」


「その本を書いた学者が、朱色の表記を取り違えてたらしい。で、それを真に受けたお前が、わざわざ辰砂を取り寄せて使った。高かったろ?」


ヴァイスは苦笑する。「笑える話だ。信じた情報に忠実だったことが、逆に“偽りの証拠”になったってわけだ」


「そう。ロンドンの鑑定士が“これは知識が作った色だ”って言ったのも、納得がいく」


ヴァイスは目を伏せ、絵の具の並んだ棚に視線を落とす。「全部、自分が調べたことが裏目に出たんだな」


「そういうことだ」ローゼンは穏やかに、けれどどこか優しく付け加える。「……でも、誰も“絵”を否定はしてない」


ヴァイスは静かにうなずいた。「俺は確かに、法に触れることをした。名前を偽り、嘘を塗り固めた。……でも、あの絵たちは全部、俺の中から生まれた。模写でもない、コピーでもない。ただの“再現”じゃなくて、“創作”だった」


ローゼンは微笑しながらうなずく。「お前のパートナーも同じようなことを言ってたよ。」


ヴァイスは小さく笑った。「そうか。ただ言えるのは、絵に罪はない。罪があるとしたら、それを偽って“誰かの名前で売った”俺だ……俺なのに、クラリス……」


しばし、二人の間に静けさが流れた。ローゼンはふと、壁に飾られた風景画を見上げる。「……これ、いい絵だな」


「それは俺が自分の名前で描いた絵だ」


ローゼンは少しだけ笑って頷いた。「やっぱりな。線に、迷いがない」


ヴァイスは、ふっと息を吐いた。「クラリスは……何も言わずにいなくなった。でも、分かってた。こうなることは」


「彼女は、お前を守ろうとしてたよ。最後まで」


ヴァイスはゆっくりと目を閉じた。「……じゃあ、俺も逃げずに行こう」


「いいのか?」


「俺が欺いたのは“名前”と“由来”だ。でも、絵そのものは誰のものでもない。俺が描いた“オリジナル”だ。……それでも、美しいと思った人がいた。それだけで、俺には十分だ」


ヴァイスはコートを手に取り、玄関へと歩き出す。ローゼンは彼の背を見送りながら、もう一度だけ壁の絵を見た。「……いい絵だ、本当に」


扉が静かに閉まり、朝の光がまたアトリエに戻ってきた。

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