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第13章 元捜査官

ペンツベルク美術館。薄暗い展示室に、青と赤の絵が沈んでいた。


カタリーナ・ブリュックナーは、ひとり展示室の中央に立ち、壁に掛けられた1枚のカンペンドンク作品を見つめていた。


絵の中心には、一頭の馬。遠近法を無視した背景。夢と現の境を歩くような、奇妙で鮮やかな輪郭(りんかく)。彼女の視線は、その馬の首のラインをなぞるように動いた。


——あの「赤い馬」の贋作と酷似していた。


それを思い出すと、喉の奥がきゅっと狭まる。


数日前、報道を通じて流れたあの一枚。「贋作だった」と断定された、あの“馬のいる赤い絵”。


どこかで見たことのある構図だった。だが、色が違った。勢いも違った。筆が、叫んでいた。「私はここにいる」と、描いた者自身が名乗りをあげていた。


それが、彼女にはどうしても、カンペンドンクには思えなかった。


——そして、あれを“カンペンドンク”として堂々と売りさばいた連中がいた。


「侮辱だわ……あの人にも、芸術にも」


誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


だがその怒りの奥に、ふと芽を出す問いがあった。


——では、“本物”とは何なのだろう。


見た者の胸を打つなら、それは贋作ではないのか?


いや、違う。「違う」と言い切るだけの“何か”が、あるはずだった。


カタリーナは静かに息を吐き、絵から一歩だけ後ずさった。


この事件の真相が明らかになればなるほど、彼女自身が、長年信じてきた“本物”という言葉がぐらついていくような——そんな感覚に、彼女はうすら寒さを覚えていた。



通りに出ると、クラリスは足早に歩き出した。冷たい風がコートの裾を揺らすたびに、肩がびくつく。


(落ち着いて。誰も、あなたを見ていない)


何度も心の中でそう呟いた。けれど、心拍は早まるばかりだった。


道をすれ違う男が、ふと横目でこちらを見た気がした。通りの向こうからやってきた老婦人が、わずかに目を細めたような気がした。自転車のベルの音にすら、なにかの“合図”のような意味を感じてしまう。


全ては「気のせい」だと、理性は理解している。だが、あのテレビで流れた声、あの言葉が、心の奥で木霊(こだま)し続ける。


——この犯人も、今どこかでこの放送を見ているかもしれない。


顔が、強張った。それでも足を止めてしまえば、ますます目立ってしまう気がして、彼女は視線を伏せたまま歩き続ける。


道端に咲いていた花の鉢を、足元に気づかず蹴りそうになった。思わずよろけて、壁に手をつく。


「大丈夫ですか?」と声をかけられるかと思った。だが、誰も気にしていない。自分など、まるで透明人間のようだった。


——いや、違う。気にしていないように“見せている”だけなのだ。みんな、内心では「あの女、どこかおかしい」と思っている。


そんな妄想が、頭の中をぐるぐると回る。


鍵を取り出し、家の前にたどり着いたときには、手がかすかに震えていた。いつもより余計にドアを見回し、何気ない風を装って中へと入る。


“普通”を演じることに、もう限界が近づいていた。


*「警部、ついに名前が割れました!」


ざわめきの中、ひとりの刑事がモニターを指差した。


「ドイツ国内の古い市民登録データと、スイス側から提供された芸術家協会の名簿を突き合わせた結果です。男は《アーダルベルト・ヴァイス》、女は《クラリス・ヴァイス》。旧姓はアウアー。両名とも、過去に美術学校やアート関連の展示記録があります」


ローゼンはしばし沈黙し、画面を見つめた。そして静かに、しかし確信を帯びた口調で言った。


「よし。ようやく、名前が顔に追いついたな」


「クラリスの顔写真はすでに報道されているスナップと一致しています。男の方も、贋作絵画の出所を追った監視映像に姿が映っていました。場所はケルン市内、マリア・ヒルファー通りです」


「ベルギッシュ・グラートバッハの地元警察からも、“似たような男を最近見かけた”という通報が複数件。目撃場所はパン屋、画材店、美術館前、そして図書館——特徴はすべて一致しています」


ローゼンは頷くと、即座に指示を飛ばした。


「グラートバッハとケルン南部に分かれて聞き込み。“馬のいる赤い絵”の来歴不明作品と一緒に、すべて照合し直せ。顔と名前がわかった今、猶予はない」


部下たちが一斉に立ち上がり、資料とメモを抱えて捜査本部を出ようとした、そのとき——


「待て。もう一つだ」


ローゼンが低く言った。


「この報道で奴らがすでに動いている可能性がある。空港、駅、高速道路の検問、すべて照会を入れろ。国外逃亡だけは何としても防ぐ。ユーロ圏の抜け道はどこだって使える。リストアップしてすぐ共有しろ」


「了解!」


ローゼンはひとつ深く息を吐いてから、無言で署の廊下からエントランスへ進み、ドアを押し開ける。


その瞬間——フラッシュの嵐が視界を刺した。


「ローゼン警部!犯人の名前は判明したんですか!?」「グループの犯行ではなく、夫婦での犯行でしょうか?」


記者の怒号とマイクの海。


ローゼンは表情を崩さず、足を止めると一言だけ告げた。


「我々は、逃がさない。それだけです」


そして車へと乗り込み、ドアが閉まる。再びフラッシュと怒声が残された。



壁の時計の針が、かすかに「カチ…カチ…」と音を刻んでいた。クラリスは、書斎のランプだけを灯し、静かに椅子に腰かけていた。寝室には、すでにヴァイスが眠っている。


机の引き出しから、ペンとノートを取り出す。紙の上にペン先を立てたまま、小刻みに“カツ…カツ…”と突き続ける。まるで、足をバタつかせる代わりに、手先で貧乏ゆすりをしているように。


「……どうすれば……どうすれば……」


小さく呟いた。声にならない声だった。


クラリスはふと、視線を横にやる。棚の上に立てかけられた一枚のフレーム——。モンペリエの青空の下、二人で肩を寄せ合って撮った写真。


日差しが強くて、目を細めるヴァイス。その横で、クラリスは笑っていた。まるで、なにも知らない未来を祝福するかのように。


記憶が静かに引き出される。あのころの午後、カフェのテラスで笑い合った会話。夜の港を、手を繋いで歩いたあの帰り道。


だが次の瞬間——テレビ画面の中に浮かぶ、“あの男”の顔がフラッシュバックする。


《——この犯人も、今どこかでこの放送を見ているかもしれない。》


クラリスは、ビクンと肩を揺らした。思い出の中に、あの記者会見の映像が割り込んでくる。映し出された、警察が公開した「似顔絵」。その隣で厳しい顔をした捜査官が、マイクの前で冷静に語る姿。


——ローゼン。


クラリスはすっと手を伸ばしてパソコンを開いた。 検索欄に打ち込んだのは「ローゼン 捜査官 経歴 家族 過去」——。


クラリスの目は次々と現れる記事に静かに走る。


『連邦捜査官ローゼン、数々の美術贋作事件を解決』『鋭い洞察力と粘り強い捜査で知られる男』 『BKA捜査官マルティナ・ローゼン、ある贋作事件をきっかけに退官』 『ローゼンとマルティナ元捜査官、仕事上のパートナーであり夫婦。だが、2012年に離婚』 『詳細は非公開。だが関係者によれば、贋作事件への執着が家庭に影を落としたとも』


クラリスはその文言に目を留めた。


「……マルティナ・フランツ」


クラリスは椅子から立ち上がると、引き出しから革の名刺ケースを取り出した。そして調べたところの一部を印刷し、用紙を切り取りしながら自分の身分証と合わせて更にコピーをした。



翌朝。


クラリスが訪ねたのは、レーヴァークーゼン郊外の静かな住宅地に佇む一軒家だった。ドアをノックすると、数秒後に柔らかな笑顔を浮かべた女性が現れた。


「あなたがマルティナ・フランツさん?」


「えぇ……」


「BKAのリサ・ヴァーグナーです。ご主人のことで、お話があって」


マルティナの表情に、わずかに警戒の色が浮かぶ。


「わからないんだけど、ローゼンの身元調査でなぜウチに?」


「形式上、捜査官をより高い地位に昇格する場合、こういった調査をする決まりなんです」


「それは知ってる……前回の昇格の時に受けたから。でももう彼とは離婚してるのよ。いまじゃめったに話しもしないし、仕事のこともよくわからない」


「今日中に調査が必要なんです、ですから……お願いします。お時間は取らせません」


「元夫のことでこれ以上時間を割きたくないんだけど」


「なるほど……時として、捜査官の家族というのは辛いものです。お察しします。わたしの元夫も捜査官でしたから、お気持ちはわかります」


マルティナはため息をつき、小さくうなずいた。


「話したことはあの人に内緒にしてくれる?」


「もちろん極秘にしますが……知られては困ることでも?」


「正直に言うとわたし……あの人が怖いの」


彼女の表情が曇った。


「どうぞ、上がって」


マルティナはクラリスをリビングへ案内し、コーヒーを入れにキッチンへ。


整理整頓された室内には温かな光が差し込み、観葉植物と木製の家具が静かに佇んでいる。棚には本が並び、窓辺には子ども用の絵本が置かれていた。


目を引いたのは、テレビの横に飾られた写真立て。 そこには、マルティナと5歳ほどの男の子が寄り添うようにして笑っている一枚があった。


クラリスは写真に目をとめ、そっと視線を落とした。


「どうぞ」


マルティナはクラリスにコーヒーを渡し、椅子に腰を下ろす。


「ありがとうございます。」


「贋作事件が原因だったの。数年前から妙な絵が市場に出回るようになって……。あの人、ある特定の贋作に執着するようになって」


「特定の贋作……?」


「あの人……カンペンドンク、マックス・エルンスト……その名前ばかり口にしていたの。そこから家に帰らなくなって、笑わなくなって……子どもも、まだ2歳か3歳だったのに」


クラリスは無言でうなずいた。


「最初は、ただ仕事が忙しいんだと思ってた。でも違った。あの人、何かに取り憑かれてたのよ。」


「ご主人が怖いと仰いましたが、それは?」


「目が変わったの。私や息子が話しかけても、まるで他人を見るような……。捜査のこと以外、何も見えていなかった」


クラリスはふと、自分たちのせいで一家が崩壊したのだと実感する。


「私は捜査官だったけど、母親でもある。だから離れた。家族は……もうバラバラ」


クラリスは胸の奥が締めつけられるような思いに駆られた。


(私たちのせいで……)


マルティナの瞳が少しだけ潤んだ。


「ちょっと失礼」と言って席を外す。


その隙にクラリスは立ち上がり、テーブルに置かれたマルティアのスマートフォンを手に取り、電話帳をから“ローゼン”があるのを確認し、スマートフォンをポケットにしまいこんだ。


マルティナが戻ってくると


「調査はこれで終わりです。ご協力、感謝します。」


そう言い、クラリスが立ち上がろうとすると、マルティナが首を傾げた。


「ねぇ、ちょっと待って……職歴とか学歴は聞かないの?そういう調査なんじゃないの?」


「大丈夫です。とにかく至急、戦略情報運用センターに結果を報告しないといけなくて」


「……戦略情報運用センター? 今は担当が変わってるはずよ。数年前にEUの法改正で、組織再編されたでしょ?」


クラリスの目が一瞬揺れた。


「ええ……でも今回は特例なんです。ご存じの通り、贋作事件の捜査は通常と異なるルートが用いられることがありますので」


マルティナはじっとクラリスを見つめたが、それ以上は何も言わなかった。


「コーヒー、ご馳走様でした。」


クラリスは会釈し、静かにその家を後にした。



ローゼンは捜査室のデスクにいた。 机の上には報告書のファイルと、部下から提出された分析資料。 そのとき、スマートフォンが鳴った。


画面には見慣れた名前——「マルティナ」。


ローゼンは眉をひそめ、すぐに椅子を立ち上がると自分のオフィスへと向かった。 扉を閉めて通話ボタンを押す。


「……マルティナ? いまはダメだ」


「マルティナは元気だったわ。」


一瞬の沈黙。


「……誰だ」


「クラリス・アウアー。……覚えてるわよね?」


「おい、家族に手を出したら許さないぞ」


「それはあなた次第よ。……話したいことがあるの。カフェ・フリードリヒに来て……一人で。駅の近くにある小さな店よ」


「ハハ…、お前とお茶をしてる暇はないんだぞ。」


「もし一人じゃなかったら……奥様と息子、まだ5歳? ……それじゃ待ってる。」


そして、クラリスは通話を切った。


ローゼンはしばらくスマートフォンの画面を見つめながら、椅子にもたれた。過去が再びドアを叩いたのだ。

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