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第11章 辰砂

古い絵を一枚、静かにイーゼルから外した。ヴァイスはナイフを手に取り、丁寧に、だが、どこか急ぐように絵の表面を削ぎ落としていく。もともと描かれていた風景が、粉のように舞い、静かに消えていく。


「……これでようやく空になった」


ヴァイスはわずかに息を吐き、絵具棚へと向かった。そこには、色とりどりの顔料の瓶が静かに並んでいる。深い青、焦げ茶、淡い緑──その中に、深紅の顔料があった。ラベルには “辰砂(しんしゃ)” と記されている。"辰砂=しんしゃ(朱の一種)"


かつて、とある一枚の絵でそれを使った記憶が蘇る。その色が、絵の中で最も強く、そして最も静かに主張していた。ヴァイスは瓶をそっと手に取り、光にかざした。


「あぁ……いい赤だ。」それは美しかった。ただ、それだけだった。辰砂は入手に相応の金も手間もかかる。だからこそ、今すぐに使う必要はない。


「……これは、しばらく温存だな。また “ふさわしい瞬間” まで、取っておけばいい。」


小さく呟き、ヴァイスは辰砂を棚へと戻した。


そのとき、後ろから声がした。


「あなた、いま何してるの?」


振り返ると、クラリスがコーヒーカップを手に立っていた。


「朝からずっと削ってたでしょう?何をそんなに急いでるの」


ヴァイスは少し困ったように笑いながら、タオルで手を拭いた。


「好きな絵を描くには、余計なものを先に片づけないと」


「好きなことをするのはいいけど……贋作に使う道具と混ぜないように、気をつけてね」クラリスは呆れたように、けれどどこか安心したように微笑んだ。



昼前のロンドン。ローゼンは足早に歩いていた。向かう先は、あの赤レンガの建物だった。ドアを開けると、前回と変わらぬ室内があった。中央の作業机では、白髪混じりの男が顕微鏡を覗き込んでいる。


「来たか、ちょうどいま見ていたところだ」


ハンブルは手元の絵をローゼンに差し出した。 裏面には、複数の展覧会やコレクション名が記されたラベルが整然と貼られている。


「これは?」


「見た目はよくできてる。だが、この紙、全部同じ質。裁断も同じ癖がある。インクの経年劣化まで “再現” してある」


ローゼンは眉をひそめた。


「……過剰な整合性、か。つまり、偽装された “来歴” だな」


ハンブルは頷き、顕微鏡を覗きながら話を続ける。


「問題はここからだ」


彼はモニターに拡大された絵の断面図を映した。 幾重にも重なった顔料の層。その最下層に、白い帯がはっきりと現れていた。


「分析の結果、この白は──チタンホワイトだった」


ローゼンは息を飲む。


「……1920年代以前の絵に、それはありえない」


「そのとおり。つまり、これは“本物ではない”という科学的証明になる」


ローゼンは顎に手をあてながら、少し考える素振りを見せた。


「だが、こう言い逃れる奴もいるだろう。“修復時に後から塗られた”のでは? と」


「そこも確認してある」


ハンブルは別のスライドを差し出した。


「断層分析によると、チタンホワイトは顔料層の“最下層”から検出された。つまり、これは“修復ではなく”最初に塗られていた白だ」


さらに彼は古びたキャンバスの断片を指差した。


「犯人は、古い絵の具を完全には削ぎ落とせなかった。その微細な層に残っていたチタンホワイトに気づかず、その上に描いてしまった」


ローゼンの目が細くなる。


「つまり──慎重にやっていたが、どこか気持ちの中で“急いだ”……」


ハンブルは小さく頷いた。


「意図ではなく、痕跡が真実を語り始めたということだな」



一方、デュッセルドルフ警察本部の一室。


ローゼンの直属の上司であるグレーベ部長が、若手捜査官の姿を見つけて声をかけた。


「なあ、最近ローゼンの動き、妙に静かじゃないか?」


若手は一瞬、言葉を飲み込んだようだった。


「……いえ、特に変わった様子は……」


「……お前、何か知ってるだろう」


鋭く睨まれ、若手は視線を逸らす。


「……ロンドンに行ってます」


「ロンドン?」



同じ頃──


「そして、最大の決め手となったのはこの顔料だ」


「なんだそれは?」


「この朱色の部分……成分は“辰砂”だった」


ローゼンは眉をひそめた。


「辰砂……?」


「天然の硫化水銀だ。かつて中国で使われていたが、ヨーロッパ絵画では非常に珍しい。しかも高価で扱いづらい。普通は “バーミリオン” を使う」


ハンブルは古びた文献を開いて見せた。


「ここに、朱色=辰砂と誤記された記述がある。おそらく、犯人はこれを鵜呑みにして使ったんだろうな」


ローゼンは小さく息を吐き、呟いた。


「……つまり、“線” よりも、“本” を信じた」


ハンブルは肩をすくめて、わずかに笑った。


「皮肉な話だな。贋作の美学ではなく、文献のミスをなぞった結果だ」



ベルギッシュ・グラートバッハの屋敷では、ヴァイスが絵を描く準備を終え、顔料を並べ終えたところだった。


「ちょっとトイレに行ってくる」


そう言い残してヴァイスは階上へ。するとクラリスは、ふとアトリエを見渡した。


何気なく棚に視線を移すと、一つの瓶が目に入った。


──辰砂。


深く鮮烈な赤。その存在感に、思わず手が伸びた。


「……きれい……」


光を受けてわずかにきらめくその粒子に、彼女はしばらく見入っていた。


──赤といえば。


脳裏に、最近ニュースになった一枚の絵が浮かぶ。 カンペンドンクの名で出品され、4億円で落札された「馬のいる赤い絵」。


クラリスの手が、わずかに震えた。


──あの赤。


静かな空気の中、彼女の胸の奥に、鈍く重たいものが沈んでいく。


──違う、偶然よ。


そう思いかけたその瞬間、机の上に目をやると、削ぎ跡の荒いパレットが視界に入った。


──ヴァイスなら、もっと丁寧に処理するはず。


彼女はゆっくりと部屋を見渡した。


──もしかしたら、もう、時間の問題なのかもしれない。

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