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第9章 25年越しの捜査

──2010年、ドイツ連邦警察・文化財犯罪対策課。デュッセルドルフ。


電話のベルが鳴り止まない朝だった。


「はいローゼン……あぁ、その件は美術館側に確認を。ん?いや、それは照合済で、週末までには対応できるかと」


ローゼンは、コートを脱ぐ間もなく電話応対をしていた。


あれから25年以上が過ぎ、若き捜査官だったローゼンは、今やベテランの風格をまとい、署内でも一目置かれる存在となっていた。


受話器の向こうは、文化欄担当の地元記者。何かと小言と詮索を繰り返す人物で、数か月ごとに “未解決の影” をつついてくる。


ながら作業のローゼンの横を年配の女性職員が通ると、ローゼンは受話器を肩にかけ、両手で「コーヒー、ミルク多めで」とジェスチャーを送った。年配の女性は小さく鼻を鳴らして通り過ぎた。


年配職員の名はヘルガ・フリードリヒス。七十を越えた年齢でありながら、課内で最も記録と知識に明るい資料管理のエキスパート。灰色のパーマヘアに金縁の眼鏡、ベージュのセーターとロングスカートが定番の装い。携帯電話には疎いが、刑事たちの要望にはすぐ気づき、資料の場所も瞬時に把握している。無口で皮肉屋──けれど誰もが信頼を寄せる “動くアーカイブ” だった。


ローゼンが電話を切ると、若い捜査官が一人、ファイルを片手にやってきた。


「ローゼン主任、ルクセンブルク経由の取引記録、照合済みです」


「ありがとう。そこに置いといてくれ」


返事と同時に、また別の電話が鳴った。


ローゼンは、ほんの少しだけ深く息を吐いて、受話器を取った。


「はいローゼン……」


「お久しぶりです、ローゼンさん。鑑定士のヘルベルト・グラーフです」


聞き覚えのある声だった。低く、落ち着いていて、どこか古い紙の匂いを思い出させるような。


「あぁ……グラーフさん、どうしました?」


「少し……妙なものを見つけまして。フェルナン・レジェの “ある一点” なんですが。正確には、レジェと思われていたものですね」


「模写、ということですか?」


「ええ。かなり精巧ですが、分析の結果……お時間をいただけますか?」


その声に、ローゼンはわずかに頷いた。


「わかりました、30分後にそちらへ」


受話器を置き、ローゼンはデスクの資料をまとめながら、ヘルガに聞こえるように声を上げた。


「フリーダ! わるい、コーヒーを紙ッ…」


するとヘルガは、背後からすっと腕を伸ばして、すでに紙コップに注がれたミルクたっぷりのコーヒーを差し出した。


「ッ、紙…、髪が、きれいだ……うん。」


ヘルガはやれやれといった感じで何も言わずに去っていった。






「やぁローゼンさん、お待ちしてました。どうぞ」


鑑定士ヘルベルト・グラーフの事務所は、美術館の旧館を改装したような瀟洒(しょうしゃ)な建物だった。壁には様々な調査資料や、かつての調査対象の複製画が飾られている。グラーフは、厚みのある調査ファイルと共にローゼンを迎えた。


「いやぁ、しばらくですね。びっくりしましたよ。」


ローゼンとグラーフが最後に顔を合わせたのは、まだローゼンが30代半ばだった頃。ある地方美術館で浮上したシャガールの真贋疑惑を巡って、深夜まで共に資料を精査したことがあった。


あのとき、グラーフが突き止めたのは、"顔料が戦後に開発されたもの" であること、そして作品の裏に貼られたすべてのラベルが "同一の紙質" であるという点だった。彼の冷静な観察眼と科学的証拠に基づいた鑑定は、事件を解決に導いた。


「さっそくですが、これが件の “レジェとされていた絵” です」


一枚の高解像度写真と、科学分析レポートがテーブルに置かれる。


「顔料分析の結果、1931年以前には存在しない合成ウルトラマリンが使用されていました。問題は、その作品の来歴上 “1912年の制作” とされていることです」


ローゼンは資料に目を落とす。


「あと、紙質も、下地の(にかわ)も、現代の処理が施されているんです。


(にかわ)?」


「膠——つまり絵具の定着のために使われる接着剤のような素材も、当時のものではなく現代の合成品でした。保存状態が良すぎるのではなく、“新しい” んですね。正確に言えば、“あまりに美しすぎる” 保存状態です。しかも、裏面の焼け跡が人工的でした。紫外線による自然劣化ではなく、熱処理の痕跡がある。つまり偽装、ということです。」


「出所は?」


「昨年末、ミュンヘンのオークションに出されたものです。出品者は30代前半の女性。詳しく追っていくと、彼女を中心とした贋作グループの存在が浮かび上がりました」


グラーフは手元のメモを確認するようにして、静かに続けた。


「名前は……イザベル・クライナー」





取調室の扉が静かに閉じられた。


ローゼンはその部屋へ入っていくと、すでに中にいた若い捜査官が軽く会釈して言った。


「この女性が、組織のリーダーです」


部屋の中央に座るのは、端正な顔立ちをした30代前半の女性。ストレートに整えられた黒髪、背筋の伸びた姿勢、そして虚ろとも冷静とも言える視線。


ローゼンは椅子に腰を下ろし、ファイルを机に置いた。取り調べが始まると、彼女は淡々と語った。偽装の方法、素材の入手経路、加工の手順。すべてが冷静だった。


そして、ローゼンが何気なく問うた。「なぜ、絵をやろうと思った?」


女性は、ふと目を伏せて答えた。


「父が絵を好きだったの。でも、そのとき私は興味がなかった。……でも、小学生の頃、ある美術館に連れて行かれて」


「ある美術館?」


「……ペンツベルクの美術館……カンペンドンクよ。」


その瞬間、ローゼンの手がピクリと止まった。まるで古い引き出しが軋みを上げて開いたように、25年前の記憶がよみがえる。


「その時に、ある絵を見て初めて感じたの。“この絵、わたし好き” 初めて絵に興味を持ったのがそのとき。」


そう言って、彼女は小さく微笑んだ。


ローゼンは、何も返さなかった。ただ静かに、長く閉じていた記憶のファイルが、心の奥でそっと開かれていくのを感じていた。


──あの未解決の一枚。




ローゼンは取り調べ室を出ると、無言でネクタイを緩めた。

背中にじっとりと汗が滲んでいるのに、顔は冷え切っていた。


──なぜ今、カンペンドンクなのか。


署に戻り、自席に腰を下ろすと、ローゼンは迷いなく古いキャビネットに手を伸ばした。擦り減った引き出しを開けると、そこにあるのは「カンペンドンク贋作・未解決案件」のファイル。

年月で黄ばみかけた紙の束。誰にも相手にされなくなった、過去の亡霊。


──未解決で済ませるには、あまりに出来すぎていた。


ローゼンは一枚一枚、写真を取り出していく。

光に透かすように眺めながら、あの “明るすぎる青” を再確認する。


「やはり……あの時から、何も変わっていない」


モニターを点け、ローゼンは新たにファイルを開いた。


──再捜査。25年越しの “忘れられた青” に、ようやく目を向ける時が来た。

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